第45話 ブランチポイント2

 決戦の金曜日。朝から俺は自分でも分かる程におかしい。間違えて愛の歯ブラシを使いそうになったり、目玉焼きに醤油をかけすぎて醤油が皿から溢れそうになったり。もちろん、醤油匙の中身はほぼ空になった。


 バレンタインデーとは、なかなか侮り難いイベントなのだ。世の女子達は、みんな毎年こんな風にそわそわを越えたビクビクとドキドキを抱えて過ごしているのかと思うと、これまで以上に尊敬の眼差しを向けたくなってくる。


「要、大丈夫か?」


 なぜか親父まで様子がおかしい。朝食の席、いつもなら新聞広げているかテレビのニュースに夢中になっていてほとんど何も話さないのに、今朝はしきりにこちらばかりを気にしている。


「何が?」


 と惚けてみるものの、どうせ何もかも筒抜けなんだろうな。俺は結局チョコに飽き足らず、弁当まで作ってしまったのだ。いつもの夕飯の残りを詰めただけの手抜き弁当ではない。前日の夕方から念入りに味付けを確認しながら作り上げたオカズを丁寧に赤い弁当箱に詰めてある。正月に食うお節よりはランクが落ちるだろうが、健司んとこの弁当屋の幕の内よりは遥かに気合いの入った和風御膳だ。しかも文芽の親の分まである。これならば、きっと良い夕飯にしてもらえるだろう。


 親父は、弁当の残りのオカズである出し巻き卵や高野豆腐を頬張っていた。


「ま、ダメだったら……」

「ダメだったら?」

「酒の飲み方でも教えるか」

「俺、未成年」

「硬いこと言うなよ」

「それでも親か」


 親父はこう見えてもエリートサラリーマンだ。会社では課長とかいう役職らしい。まだ社会に出ていない俺は、それがどのくらい偉いのかはよく分からないけれど。


 やれやれ。阿呆な会話をしていたら、少し緊張が緩んできた。


 俺は白ご飯を韓国海苔で包んで口の中に詰めた。食欲が出ない時はこれに限る。海苔が無い時は梅干と白飯でもいける。とろろ昆布もあれば、尚良い。


 よし。だんだんいつもの調子が戻って来た気がする。







 でも、やはりそれは気のせいで、授業は全て上の空だった。週明けからまた定期考査だから、先生が「ここ出ますよ!」とか連呼していたけれど、具体的なことは全く覚えていない。後で恵介にノート見せてもらおう。あいつ、案外ノートの取り方がうまいんだ。


 今朝俺は、文芽を真似て文芽の靴箱に手紙を入れた。昼休みには文芽から大変久方ぶりのメールが到着。


『普通逆じゃない?』


 いいツッコミだ。このイベント当日に、男子がわざわざ女子を呼び出すケースは稀だろう。いつもながら俺からの質問はスルーされたままで、約束の場所に文芽が現れるかどうかは未だ不確定。でもメールが来ただけで十分に満足してしまうのはなぜだろう。


 そして放課後、靴箱にはまた手紙が入っていた。


『黄昏時、学舎にて待つ』


 書かれている紙は今回もコタツ猫みかんのメモ帳。だが文字は筆ペンで力強い縦書き。果たし状か。


 黄昏時って、何時のことだろう。でも、俺には確信があった。俺達の関係はあの夕陽の光の中で始まった。夕方のオレンジ色が映り込んだノートパソコンのディスプレイ。昇降運動をして真っ黒なおかっぱ髪を揺らしていた文芽と目が合った。きっとあの瞬間、使い古した言葉で言うなれば、運命の歯車が音を立てて回り始めたんだ。


 あの空間へ、戻ろう。

 俺達の黄昏時へ。




 俺は人気が無くなった階段をカツカツと靴音を立てて登っていった。ただ教室に向かうんじゃない。人生においてもう一つ上のフロアへ向かう、みたいな。制服のネクタイを一度締めて、改めて少し緩めた。


 さて、約束したものの既に別のカップルがいてしかもイチャついてたりしたらどうしよう。そんな心配がまさかこんな形で当たってしまうなんて。


「お前ら……」


 お陰で良い意味の緊張感が一気にぶっ飛んだ。

廊下にいるのはこの高校に通う生徒。一人は妹で一人は親友。


「要、愛情たっぷりのチョコありがとな! すっげぇ美味かった! 来年は生チョコな!」

「私たちがここにいたら、誰も教室に近づかないと思ったんだ。あんっ! 健司くん、そんなとこ触っちゃだめ!」


くそっ。日が高いうちからこんな甘ったるいものを見せつけやがって! けど、お前らの激励は確かに受け取ったぞ。俺は良い身内をもってるんだな。


「はい、散った! 散った! 邪魔すんなよ? 覗くなよ?!」

「お兄ちゃん、ノリ子先輩はもう中で待ってるよ」

「え?」


 文芽、案外張り切って来てくれたのかな? 少し早めに来たつもりだったのに先を越されたなんて。

 俺は弁当とチョコが入った紙袋の紐をギュッと握りしめると、教室の扉の取っ手に手をかけた。


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