第44話 ブランチポイント1
上海って、アレだよな。しばらく前に近所のおっちゃんが旅行で行ってきたところだ。夜景が綺麗だけど、連れていかれた土産屋で変な物を売りつけられそうになったとか、水が合わずに腹を下しまくって散々だとか言ってたな。
って、そんなことは今はいい。
俺も知ってる。文芽が俺と同じ高校に通うのはあと僅か。親の仕事の都合らしい。という情報は委員長と魔女からもたらされたもの。四ノ森葵は「パパの会社には上海にも現地法人があるわよ。雇ってもらえるように私から働きかけてみましょうか?」なんて言ってきた。余計なお世話だ。問題はそこじゃない。
文芽とは、ここのところ毎日目で会話している。でも、休憩時間などにいざ近づいてみると、スタスタ廊下に出て女子トイレに直行するのだ。何これ、嫌がらせ?
俺は、文芽から直接話が聞きたい。俺たちは既にただのクラスメイトじゃない。触ったからとか見たからとかじゃなくて、もっと深いところで俺たちは何かを通いあわせてきた。
そして今、おそらく永遠となる別れが目の前に迫っている。
「お兄ちゃんはこのままでいいの?」
愛は涙を止めて、こちらを冷静に見据えていた。こいつは、なんだかんだでずっとお兄ちゃんっ子なのだ。わなわなと震える唇からは、俺を心底心配していることが伝わってくる。
「よくない」
「それなら!」
「だからって、俺に何できるんだよ? 文芽に行くなって言えばいいのか? そんなの文芽が困るだけじゃないか。淳子さんだって、俺の存在知っていながらこの決断してるんだ。だったら、もうどう転んでも文芽はいなくなる。それに、親の仕事だろ? 絶対にどうにもならないのは分かってるのに、わざわざ引き止めるとか、そんな無意味なことやって女々しいとか思われたくない!」
「お兄ちゃんの馬鹿! 無意味なのは、そのちっちゃなプライドだよ! ノリ子先輩がどんな気持ちでお兄ちゃんを家に呼んだり、お兄ちゃんにもらった髪飾りを毎日身につけてると思ってんの?!」
「分かんないよ、そんなの」
「本当に分からない?」
分かってるよ。
上海に行くってことを知ってから、これまでのことがいろいろ辻褄があうようになった。たぶん、文芽は俺のことを好きじゃないにしても、多少は大切に思ってくれてる。少しは離れ難いと感じてくれている気がする。きっとその反動や衝動でいろんなことをしでかしてきたに違いない。
けれど、これは俺の希望的観測というものであって。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんは今、分岐点に立ってるんだよ。このまま、何も言わずにノリ子先輩とサヨナラするか。もしくは、ノリ子先輩と一緒にいられる道を切り拓くか。なんでそんなにすぐ諦めちゃうの?!」
愛はオカンに似て、喋り始めると止まらないタイプだ。俺は自分の部屋へ逃げた。ドアの外で愛はまだ喚き続けている。
「情けないお兄ちゃんなんて、大っ嫌い!」
誰かが均した平らな地面の上に親が置いた枕木。その上に量産型でありふれた品番のレールが敷かれてあって、何の迷いもなく白い煙を吐きながら順調に進んできた俺の人生。流れるカラフルな景色にはいろんなものがあったけれど、本気で目が止まったのはモノクロを纏う女の子。地味だと思う。でも可愛いと思う。大事にしてやりたいし、あいつなら俺が走らせる汽車に乗せてやってもいいと思える。
レールの分岐点が現れた。
カチリ。
硬い音を立てて、新たな方角へ向かってレールが切り替わる。そこへ俺の汽車は乗り上げた。レールの続く先はまだ霧がかっていてよく見えない。燃料である薪だって、すぐに尽きるかもしれないし、あいつには同乗を断られるかもしれない。でも、もう進み始めたんだ。俺の意志で。
後悔は、無い。
俺は部屋のドアを勢いよく開けた。ドアにもたれかかっていたらしい愛は、少し転びそうになりながら後ずさる。
「愛」
「ちょっと泣いた?」
「……全然」
愛が口元に手をあててクスリと笑う。
「さっきより、いい顔してるよ」
「俺、告ってみる。ちょっと台所に篭るけど、邪魔すんなよ」
「え? 何するの?」
何って、当たり前じゃないか。今度の金曜は二月十四日。つまり、アレの日だ。だったら用意するべきものなんて一つしかない。一昔前のお菓子屋の陰謀だとか様々な説があるが、俺はこのイベントにありがたく乗っからせてもらうと、たった今決めたんだ。
「チョコ作るなら、私の分も作って!」
階段を降りていると、愛の声が二階から降ってきた。
「愛の分ぐらい、作るよ。なんだかんだで世話になってるから」
「ちがう! 私の分と、健司くんにあげる分と、学校の友達と交換するなための分だから合計七人分だよ!」
どうしても既製品が嫌なら、自分で作れと言いたいところ。でも、健司や愛の友達が食中毒を起こしたり、これまでの愛のイメージを根っから覆すような未知の味に遭遇するのをみすみす見過ごすのも忍びない。
仕方ない。やるか。
まずは、必要な材料を新聞広告の裏紙にメモして、愛を買い物へ行かせる。俺は台所で下準備だ。頭の中では、早速料理の構想が練り上がっていく。
文芽は俺と違って甘いものが好きだ。家ではチョコとかキャラメルだとかを買い込んでいるのも確認済み。美術の授業は苦手だけど、なんとか猫モチーフのチョコに仕上げられないものだろうか。
俺はスマホから、早速出かけていった愛へ電話した。
「愛? あ、俺。追加で頼みたいものあるんだけど。うん。ラッピングするものって、うちにないよな? そう、それそれ。できれば猫っぽいやつ。ん? あーうるさいな! さっさと帰ってこいよ」
その後は、ついでとばかりに健司にも電話した。
「愛とのことは、ちゃんと認めてやる。だから……」
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