第46話 ブランチポイント3

 思い切って扉を開けると、思いのほか音が辺りに響いてドキッとした。教室内に浮いている無数のチョークの粉と埃がスターダストみたいにキラキラ輝いている。窓から差し込むオレンジと、人がいなくなって温度が下がった空気。文芽は窓際にある俺の席の机に浅く腰掛けて、こちらに背中を向けていた。


 扉をしっかりと閉めて中に入る。文芽の反応は何も無し。一歩、一歩、近づいていく。


「『色気より食い気!アイは煩悩で世界を救う!』の最新話」


 唐突に声を上げた文芽はこちらを振り返った。正月に会った時と同じコートを着ている。頭には、北極圏の人々が犬ぞりに乗る時にかぶっていそうなモフモフした大きな帽子。目深にかぶっている上、逆光なので変質者的雰囲気は拭えない。


「読んだ?」

「読んだよ」


 最新話も緊迫した展開が続いていた。




 アイは、エイからもたらされた情報を王妃に報告。やはり先日の使者は剣を返してほしかったらアイを寄越せと言っていたことが判明。剣は数少ないヤマナカ王国の財産であり、王家が王家たるシンボルのようなもの。ずっと他国に奪われたままでは、王家の権威がさらに落ちて国内はより荒れてしまうだろう。アイは病床に臥せる父親、つまり国王にも相談するが、結局シーサイド王国への嫁入りを決めてしまった。しかも、勇者ケイへの相談も無しにだ。


 しかし、嫁入りすると言っても事は単純ではない。アイはこれでも国の軍を率いる戦姫でもあったことから、アイが不在になった後の国防面について対策を練る必要があった。良い策が思い当たらず悩むアイに近づいたのは、またしてもケイ。日本語とアイのもつ魔力を合わせて国の礎と呼ばれている王家の石に守護符を施したらどうかと提案する。この案はすぐに王夫妻や家臣達からの賛成も受けて実行が決定するが、アイはなかなか動こうとしなかった。この問題が解決すると、アイはいよいよ生まれ故郷を離れて単身敵地であるシーサイド王国へ乗り込まなくてはならなくなる。そして、ケイとはもう会えなくなってしまう。


 アイは泣いた。王女であることを嘆いた。ケイを好きになってしまった自分を憎んだ。大切な剣を奪われてしまうという自分の失態を呪った。


 でも、アイはアイなのだ。他の何者にもなれやしない。『もし』を想定したところで何も変わらない。ここは自分のことや現在ある事実を受け止めて、今出来ることを精一杯やろうと決めたアイは、勇者を城の端にある塔のてっぺんに呼び出した。夕陽が綺麗に見える絶景スポットなのだ。




 俺は一通り頭の中で物語の内容を思い出すと、しゃがんで文芽の顔を覗き込んだ。


「もしかして、文芽も俺に用がある?」


 こくんと頷く文芽。傍らに置いてあった通学鞄から、何やら紙きれを取り出した。手が笑っちゃうぐらいに震えている。もしかして、緊張してる?


「これ、読んで」


 そっと紙を受け取る。家庭用インクジェットプリンターで出力されたような、独特の滲み感のある文字がぎっしり。


 次の瞬間、驚愕のあまり文芽の顔を二度見する。だってそこに印字されていたのは、あの小説の続きだったのだから。


「いいから読んで! 声に出して」


 文芽の声は悲痛な程に必死だ。俺はそれに対して頷いてみせた。









 アイが息を切らせながら塔の長い階段を登り切ると、橙色の美しいパノラマ風景が待っていた。そこに黒いシルエットと化した男が一人。


「お待たせ」

「早かったね」

「ケイこそ」


 アイは深呼吸した。用件は二つ。それだけ成せば事足りる。

アイは多忙を極めていた。嫁入り道具の選定に、着慣れぬドレスの試着、シーサイド王国の歴史や地理の復習を中心とした勉学、僅かながら携わっていた一部の内政や軍関連の引き継ぎに書類決済。この後も宰相や各大臣との夕食会が控えており、アイが嫁いだ後の連絡手段等が議題に上がっている言わば会議であった。目にも止まらぬ早さでアイの心以外の全てが動き出した今、もはやいつまでも同じところに留まることは許されない。


 アイの瞳に夕陽が映り込んで、火がともったように見えた。


「これを」


 アイは常に身につけているペンダントを首から外し、ケイの首にそっと添えた。


「これ、男がつけていいものじゃないだろ」

「そうね、王女の証でもあるから」

「それなら」

「ううん、これはケイに託したいの。私はシーサイド王国へ行く。もう帰ってこれないかもしれない。だからもう……」

「泣くなよ。泣くと不細工になる」


 アイはケイの首にペンダントをつけた。ほんのりと微笑む。


「私は……」








 ここで文芽は、紙を持った俺の手に触れた。触れたと思ったら、その指がそのまま肌を滑って手首まで辿り着き、強く握った。あまりの怪力で脈が止まりそうだった。


「ここからは一緒に読むよ。私はアイのところを読むから、それ以外は読んで」


 文芽が視線を紙の方へ落とす。




「私は憧れの海がある国へ行き、そこであなたが話していた鰹とやらと出会って、もしかするとあなたが作った美味しい料理とよく似たものとも出会うかもしれない。大国から求婚を受けることも王女としては名誉なこと。私が嫁ぐことで国を守ることができる。うまくいけば、あの国からうちへ援助もしてもらえるようになるかもしれない。同盟関係になるから、他の国からの侵攻も防げるし万々歳。本当に、何もかも上手くいってる気がする。ただ一つを除いてね」

「謙虚になった方がいい。何もかもうまくいくなんて、ありえないんだよ」

「でもね、ケイ。私は諦めていない。ここまで何かに執着したのは初めてなの。確かに私は胃袋を掴まれてあなたに近づいた。けれど、それはきっかけにすぎない。私は単純にあなたのこと……」

「俺にどうしてほしい?」

「ずっと一緒にいてほしい。その気持ちの証としてペンダントはあなたに預けておくわ。私は遠くに行くけれどいつだって隣にいる」


 ケイは戸惑ったように視線を泳がせていた。少しずつ日が暮れ始める。藍色が二人を包んでいく。


「私、日頃は王女であることを振りかざすのが嫌いなの。でも、もうなりふり構えなくなっちゃった。だから言うよ」


 見つめ合う二人。息を吸うのも憚られる程の張り詰めた空気。遠くの黒い森から鳥の群れが飛び立った。羽ばたきの音が暗くなった空に消えていく。


「王女として命令します。私があなたのところに戻ってくるまで、ずっとこの世界で待っていること!」


 アイはふっくらした胸に手をあてて呼吸を整えた。






 紙に書かれてあったのはここまでだった。文芽がカタカタ震えている。クリスマスの夜を思い出す。あの時は守ってやれなかった。気づいてやれなかったし、完全に逃げていた。でも今なら、ちゃんと向き合って俺の気持ちを伝えられる。


 こちらの心の整理がついた瞬間、文芽は地面を睨んでいた顔をふと上げた。同時にかぶっていた帽子を取り払う。さっと流れ出た髪は長い黒髪。右前のひと房は赤い髪。前髪はスッパリと眉の辺りまで切られていた。コートの内側には、深緑の布地が覗いている。これは……アイだ。




「申し遅れました。私、『ご飯のお供』と申します。Web小説家、やってます。勇者、要様、お願いがあります。いつか私を妻にしてください! 離れても、季節が流れても、私を好きでいてください!」



 文芽は一気に言い切った。














 俺の答えは決まっている。

 文芽がなんと言おうと、それは変わらない。






「文芽、俺はお前が好きだ。新しいとこに引っ越しても、がんばれよ」




「それだけ?」

「うん、言いたいのはこれだけ」






 告白って、何も愛を伝えるのとお付き合い宣言が必ずセットになっているわけじゃない。俺は、本当に文芽のことが好きだけど、好きだからこそ中途半端なことはできない。日本と上海って、けっこう遠いんだ。きっとお互い辛くなる。だから、期待を持たせるようなことは言いたくなかった。


 だから、「ごめん」なんて言わない。文芽がボロボロ流す涙を手指で拭ってあげるしか、できない。


 文芽は、新しい土地で勇者を見つければいいんだ。アイだって、案外シーサイド王国へ行ったらそこの王子に一目惚れするかもしれない。そして、すぐにケイのことなんか忘れてしまうに決まってるんだ。



俺はチョコと弁当を文芽の隣の机に置いた。



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