第36話 エンドオブザイヤー3
夕飯は要らないと母親にメールした。少しでもこの顔の傷だとか打撲の後遺症を沈めるための時間稼ぎをせねば。親に変な心配をかけたくないし、愛にもカッコ悪いところはこれ以上見せたくない。
俺はラーメンを啜った。麺が長いと途中で噛み切りたくなるが、今日は敢えて喉越しで味わう。いつもよりもスープが塩っぱく感じるのは気のせいか。
隣では、恵介もラーメンを食べている。サイドメニューのネギ塩チャーシュー丼は既に平らげたらしく、先ほど店員が丼を回収していった。
「美味いな」
「お前ん家、もしかして年越しもラーメン?」
「うちは、蕎麦派だ」
「鴨を入れると美味い」
「知ってる。昔、要ん家でご馳走になったからな」
足元だけが寒い店内。客はそこそこ入っているが、中年の夫婦や独り者の男性ばかりで会話は少ない。天井近くに備え付けられたテレビからは、つまらないバラエティの年末特集が一方的に配信されている。流れる笑い声がいつも以上に癪に触った。
あの後俺は、ものの見事に恵介が繰り出すパンチに玉砕。喧嘩は元々強くない。それに、恵介はこういうのに慣れていた。今でこそ黒髪眼鏡という飾り気の無い形だけれど、中学までは金髪でこの辺りを縄張りとするガラの悪い奴らを率いていたのだ。
そこから抜けた理由は、今回の喧嘩と大いに関係がある。
恵介に、好きな女の子ができたからだ。
喧嘩ばかりで素行の悪かった恵介は、ある日駅前デパートの入口で揉め事を起こす。それを仲裁したのが八田美結。今年ミスコン一位に輝いた女子だった。八田さんは、七井先輩のようにお付の方を連れ歩いてショッピング中だったとのこと。普通は無視するか、嫌悪の視線を投げるだけなのに、なぜか恵介に近づいたと言う。
「大丈夫?」
そう聞いてきたそうだ。普通であれば、恵介と揉めていたデパートの警備員や周辺の一般客に投げかけるであろう言葉。恵介はこの瞬間、気づいてしまったらしい。自分は、大丈夫ではないぐらい、とても寂しいのだと。好き放題暴れていたのは、群れていないと不安だったからなのだ。
そこから恵介は変わった。自分に気づきを与えてくれた八田さんのことを好きになり、まずは八田さんが好むような外見になろうとした。実は眼鏡もダテだったそうで。俺は全然知らなかった。
恵介の努力は続く。まず、学校にちゃんと毎日通学するようになり、制服を着崩すことも止めて、勉強までするようになった。言葉遣いもすっかり変わった。賢い人が読んでいそうな本まで読み始めて、『俺、けっこうマトモになったんじゃね?』と思い込み始めた頃、再び八田さんと対面する。それは偶然ではなく、恵介が学校帰りに待ち伏せしていたらしい。
「俺と付き合ってくれ」
「俺様な方って、苦手なの」
「じゃぁ、僕と付き合ってください」
八田さんは、一呼吸置いてこう言ったとのこと。
「私、賢い人が好きなの。研究者とか」
この最後の一言がいけなかった。鵜呑みした恵介は、勉学に力を入れるのはもちろんのこと、『研究者ごっこ』を趣味にするようになったのだ。
これで物語のように事態が好転していけば、何も問題はなかった。つまるところ、現実は甘くない。不良が急に勉強し始めたからって、せいぜい赤点の教科が減ることぐらい。いきなり天才なんかに化けられるわけがないのだ。
けれど、恵介は諦めなかった。
クリスマスイブ、恵介は八田さんから呼び出されていたそうだ。まさかのデート? と思いきや、出会うや否や八田さん家の厳つい黒塗りの高級車へ乱暴に押し込まれる。後部座席で優雅に足を組んでいた八田さんの足元に跪かされた恵介は、ゆっくりと彼女の顔を仰ぎ見た。
「一ノ瀬要くん。知ってるわよね?」
「はい」
「私は、彼がいいわ」
「はい?」
「大晦日、この名刺にあるレストランに連れてきてちょうだい。できるわよね? もし連れてこれなかったら、あなたとはもう会わないわ」
これが、俺を殴った理由らしい。気持ちは分からなくはない。でも、俺は全然関係ない。魔女にせっかく諦めてもらった矢先、また厄介な奴に目をつけられてしまい、かなりブルーだ。
「俺、行かないからな」
「誰が連れていくか」
「いいのか?」
「いいよ。あの子は、本当に要のこと欲しいんじゃない」
「俺が言うのは微妙だけど、それってお前の願望じゃなくて?」
「願望か。願望もあるけど、でも絶対に違う」
「なんで?」
「あの子は俺に似てる」
恵介はすっと細めて、小さく笑った。
「たぶんあの子、すごく寂しいんだよ。俺に似てる」
「だけど、どうすんの?」
「美結ん家はすごくデカいけど、ヤクザじゃない。手荒なことはこれ以上やらないさ。だから、諦めない」
「そっか」
それなら俺も、諦めない。まだ、諦めない。
別にいいよな? 理由が分からなくたって、なかなか手が届かなくたって、ずっと好きでいたって……いいよ、な?
まだ、好きでいたいんだ。
ラーメン鉢の中は空っぽになった。スープも飲み干したのですっかり満腹。身体はすっかり温かくなって、頬の傷の痛みも気にならなくなってきた。
「あ、うちの夕飯のこと忘れてた!」
「相変わらず主婦やってるんだ?」
「まぁな。今日はオカンいるけど、仕事やりたいかもしれないし」
「良い息子やるのって疲れない?」
「疲れるから今夜は手抜き。健司んとこの弁当買って帰るわ」
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