第32話 ホーリーナイト2

「美味いな」

「そうだね」


 現在、俺と文芽は五反田家のリビングでもくもくと蟹すき鍋をつついている。家の風格と同じく、ヨーロピアンな壁紙、お洒落なシャンデリア、ふかふかのソファと絨毯、飴色の重厚な家具の数々に囲まれたこの空間。そんな中、文芽が物置奥深くから発掘してきたカセットコンロをガラスの丸テーブルの上に置き、ひたすら蟹の殻をむいては身を齧るという食事に徹していた。これはあまりにも地道で単純な作業の連続で、俺たちにはほとんど会話が無い。


「淳子さん、元々俺に料理させる気無かったんじゃない?」

「そうかな?」

「鍋なんて料理のうちに入らないし」

「……」


 なぜそこで無言になる?! 何はともあれ、俺たちはあの後玄関のインターホン音に会話を阻まれ、この目の前の蟹を宅配便から受け取ったのだった。冷蔵庫には鍋を想定した野菜類が買いこまれていたので、迷わず鍋に決定。クリスマスって普通鶏じゃなかったっけ? と思いつつも、こんな御馳走は滅多に食べられない。遠慮なくいただくことにしたわけだ。


 淳子さん。文芽の母親だが、初対面の夕飯の際にこう呼ぶように言われてしまい、今もそれは続いている。確かにおばさんと呼ぶにはもったいない容貌なので、俺もこの方がかえってしっくりとくる。文芽も時折ふざけて『じゅんちゃん』なんて呼んでいることも。今時の母娘ってすごいんだな。うちだったら、親父あたりから拳骨が飛んできそうだ。


 こうして『作業』はあっという間に終わってしまい、食洗器もあったので後片付けも簡単に済んでしまった。それにしても、なぜ文芽は俺を手紙で呼び出したのだろう? ふとそんな疑問が頭をもたげてきた頃、文芽の様子が明らかに落ち着かなくなってきた。


「私、先にお風呂いってくるね!」


 先に? それは、何を前提にして『先に』なのだろうか。あっという間に二階へと消えた文芽。このままこっそり帰るのはさすがに拙い気がして、俺はリビングの中を熊のように行ったり来たりしながら過ごした。そして三十分後。


「お待たせ」


 ふっと温かな空気が頬を掠める。文芽からは、白い湯気と甘い香りがふわふわと流れ出ていた。同時にちょっと安堵する。こいつのことだから、どんな格好で再登場するのだろうと期待半分冷や冷やしていたのだ。文芽は、まだ濡れている前髪を七三に分けて、赤ちゃんみたいに綺麗な肌をこちらに向けて上気している。愛もよく着ているような普通のパジャマだけれど、色は可愛らしいピンク。日頃の頓珍漢な格好や言動からは想像もつかないような清楚さもある。


「えっと。俺……」


 俺は、学習能力がある。この見た目、この雰囲気に流されてはいけない。またうっかり、触ったり見たりするようなことになれば、今度という今度は自信がない。今夜こそ、淳子さんは帰ってこないのだ。もちろん父親の影も無い。となれば、後はこう言うだけ。蟹旨かったな! 勉強大変だけど、お互いがんばろうな! じゃ、また学校で! それでいいじゃないか。なのに、どうして唇が動かないんだろう。


「一ノ瀬くん」


 文芽がまた一歩こちらへ近づく。


「今夜、泊まっていくよね?」


 文芽は笑顔だ。恐ろしい程に底抜けの笑顔だ。おそらく、世界中の誰も見たことがないような笑顔だ。そんな笑顔は、俺にとって威圧感しかない。

 文芽は、ふと小首を傾げた。


「だめ?」


 それから数秒後か、数分後か。俺は一瞬意識を飛ばしたから、よく分からない。とにかく気づいたら、首を縦に振っていた。


「いいよ」


 陥落。





 そこからの文芽は、非常に手際が良かった。淳子さんが準備してくれていたという俺の着替えと寝間着セットを渡されて、風呂場へ連行。予想通りと言おうか、俺ん家のリビングぐらいの広さがあるデカイ風呂場にはジャグジー付きの浴槽があって、水道の使い方等をレクチャーされる。そのまま風呂場に置き去りにされた俺は居心地の悪さのあまりロボットみたいな動きでキョロキョロしながら、まったく寛げないバスタイムを過ごし、再びリビングに戻ってくることになった。


『今日は友達の家に泊まります』


 家への連絡である。うちは外泊する場合は母親にメールか電話で一報入れることになっている。愛の場合は女の子だからか、もっといろいろな制約があるみたいだけれど、俺には親も煩いことは何も言わない。これまでだって、健司や恵介の家に突然泊まることもあった。

 だから、いつも通りやればいいのだ。それは分かっているのに、スマホを握る手に汗が滲む。決して、長風呂の名残りではない。文芽は『友達』なのか?という自問自答。『友達』のままでいいのか?という焦り。いけないことをしているかのような罪悪感と心地よいスリル。


「ね、部屋行こう?」


 文面がまだ決まり切っていないのに、うっかり送信ボタンを押してしまった。


「へ……や?」

「ここで寝るの? 朝方冷えるから風邪ひくよ?」


 文芽は俺を男じゃなくて、拾ってきた猫ぐらいにしか思っていないのだろうか。いたって落ち着き払っている。それもそうか。まさしく、ホームだからな。それに、きっと部屋に呼ぶからには何か用件があるのだろう。そう言えば、俺も渡したいものがある。




 文芽の部屋は、前回来た時よりも片付いていた。入ったら、こたつの中に早速ご招待される。


「隣どうぞ」



 こたつは正方形。普通、一つの辺に一人ずつ収まるものだと思う。戸惑いながら文芽を無視して、彼女の反対側に腰を下ろす。すると。


「よし。開き直るね」



 文芽は音速ぐらいのスピードでこちらへやってくると、俺の膝の上に座りやがった。


「今夜は、私を猫だと思って愛でてください」


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