第26話 アウェアネス&プロミス2
洗面所の鏡には、血走った目と心なしかやつれた頬が映り込んでいた。マッドで悪魔な外見になっていることは分かっているが、これには理由があって。
「お兄ちゃん、おはよう! ……って、どうしたの?」
今朝も今朝とて爽やかな我が妹、愛。俺はこいつに用がある。
「愛、今なら兄ちゃんは怒らない。いや、少しは怒ったりいじけたりするかもしれないけど、ちゃんと許そうと思う」
「何のこと?」
「とぼけるな! 愛があの小説の作者なんだろ?! 白状しろ!!」
愛は一瞬ポカンとした後にお腹を抱えて笑い出した。これは驚いた時の素の反応。でも、女の子はいざという時は女優になれるとも聞く。俺は騙されないぞ!
「私が作者なわけないじゃん! あれだけ面白いお話書けるなら、弁当屋のお嫁さん辞めて作家目指すよ」
さりげなく健司に失恋の危機が訪れていることにほくそ笑んだのは束の間。他人の事はどうでもいい。そんなことよりも、今ははっきりさせたいことがある。
「じゃあ、あれはどういうことだよ? この前俺がみた夢の内容がそのまんま小説になってる。確かあの翌朝、愛は『良いネタ』がどうのこうのって言ってたよな? あれって、小説のネタってことだろ? とにかく偶然にしてはできすぎてる!」
愛はクスクス笑い続けたままだ。
「でも、作者は私じゃないよ。これは、本当の本当の本当の話。でも、お兄ちゃん。私が作者じゃなかったら、困ることなんてあるの? 眠れなくなる程のこと、何もない気がするんだけど」
「文芽……じゃなくて、ノリ子が作者かもしれないって思ってたけど、でも……」
「もし、ノリ子先輩がウェブ作家じゃなかったら、お兄ちゃんはノリ子先輩のこと嫌いになるの?」
骨髄反射的に、文芽との思い出が頭の中を駆け巡る。放課後、教室でのファーストコンタクト。大きくて柔らかなアレ。無茶祭での可愛すぎるメイドさん。アイに扮する文芽。キス待ちからの、指つっこみ。夢を語り、俺を激励して導く彼女。以上、所要時間はきっかり一秒。
「無い。絶対無い。そりゃ作家かもしれないってことで、初めは興味持ったのは確かだけど、今となってはそんなのなくたって俺は……あ!!!」
叫んだ時にはもう遅かった。なんで朝から妹にこんな告白せねばならんのだ。
「きっとノリ子先輩もお兄ちゃんのこういうところが好きなんだろうね」
「え?! 今何て言った?」
「内緒! お兄ちゃん、この前も言ったよね? そんなに気になっているならば、本人に聞けばいいじゃない? ノリ子先輩に『あなたはご飯のお供先生ですか?』って。簡単でしょ?」
それができるなら苦労しない。けれどこの様子だと、本当に愛が作者ではないのだろう。となると、腹を括って尋ねるしかないか。
そして、酷い顔をなんとか通常通りに立て直し、いつも通りに登校。始業のチャイムが鳴って一限目の数学教師が教室に入ってきても、文芽の姿は見えないままだった。
「五反田は休みか。珍しいな」
先生が片手で黒い出席簿をパタンと閉じて、すぐに白いチョークに持ち替えていた。
「はい、教科書の134ページ開いて。前回はこの公式の基本編だったな。今日は応用編いくぞ」
何事も無かったかのようにスタートする授業。俺は文芽の席を眺めた。
魔女にイジメられた翌日でさえ、けろっとした顔で登校してきた。風邪もあまり引かないのか、学校を休んでいるというイメージはほとんど無い。今日はどうしたのだろう。何かあったのだろうか。考え始めると心配で心配でたまらなくなって、ずっと上の空のまま最後の五限目まで終わってしまった。
お見舞いに、行く?
朝から俺が文芽のためにできることを悩み続けて出した結論。でもいざ帰る支度をして教室から廊下に出ると足取りは重くなる。
文芽の家は知っている。だから後は出向いて、元気か?って聞いて、それから……
その後はうまく想像できないのだ。そうこうしている間に、俺は靴箱に辿り着いた。俺の目線の高さよりも少し低めのところ。ベージュの金属扉を開けると、若干くたびれた靴が一揃い。手を伸ばすと、指先に靴らしからぬ触感を覚えた。紙だ。
咄嗟に瞳を左右に動かして周りの様子をチェック。人影はまばら。俺は軽く深呼吸して靴の中に入っていた紙きれを取り出した。
それは、猫のイラストが端にプリントされた可愛らしい便箋だった。この時点で名前が書かれていなくても差出人が分かってしまう。
けれども、内容にはおし黙るしかなかった。もしくは笑うしかない。
『あなたは私の勇者様ですか?』
その後には携帯のメールアドレスらしきものが。以上である。まるで新手のスパムメールだ。
さて、どうしたものか。吐き気がする程甘い菓子だとか、何処の誰か分からない女子からのラブレターではなかったのは良かったけれど、困るという意味では同レベル。
「参ったな」
こんな小さな独り言、誰も聞いていないと思っていたのに。
「御機嫌よう。今日は朝から余裕ですわね」
靴箱の影からしゃなりしゃなりといった足取りで近づいてきたのは、四ノ森葵。通称『魔女』だった女子だ。
無茶祭を境にいろんなことが変わった。みんながノリ子に対する認識を変えたように、四ノ森葵の評価も変化した。イジメ疑惑はなりを潜め、ただの変なお嬢様だという妥当なところに収まりつつある。
俺は海外への転校発表を生で聞いたわけでもないし、これまでもウザいことしかされてこなかったから、自ら彼女に近づくことはなかった。文芽のことや、勉強のことで頭がいっぱいだったということもあるけれど。
四ノ森葵自身の雰囲気も少し変わった気がする。まず、俺に対する執着心が減った。これまでならば、今頃腕を絡ませてくる彼女から逃げるのに苦労していたはず。
「朝からずっとぼーーっとして、誰かさんの席ばかり眺めてましたでしょ?」
俺って分かりやすい奴なのか?
あーあ。
「自分や彼女の心配も良いですけれど、お友達のことも気にかけた方がよろしいのでは? 元恋人からの忠告です」
四ノ森は、いつもの妖艶さを忘れたかのように、ふっくらと綻んだ桜の蕾のような可愛らしさで微笑んだ。
元、か。やっと解放されたと分かって嬉しいはずなのに、なんで寂しいんだろうな。矛盾してることは気づいてるんだけど。
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