第21話 マイフューチャーマイラブ4

 無茶祭が明けて翌日は自由登校の日。授業は無い。祭りの後というのはどこか物悲しいものだ。前日の盛況ぶりは形を潜めて、疲れきった顔の生徒達が黙々と片付け作業に勤しむ。各クラスや特別教室もあっという間に元の姿に戻ってしまった。


 今年の人気者投票も予想通りの結果で、ミスコンは恵介が推していた同じ学年の女子に決まったらしい。どちらも俺には関係ないことだな。何はともあれ、これでまた日常が帰ってくる。


 さて、ここに一枚の紙がある。

俺はそれを前に、腕を組んで真剣に悩んでいた。


『進路希望調査票』


 明朝体のイカツイ文字が、「おい、お前。何ビビってんだ? さっさと書けよ」と威嚇してくる。ちなみに、これは二枚目だ。一枚目は書くには書いて委員長に提出したのだけれど、光の速さで散り散りに破かれてしまった。俺の未来が粉々にされたかのようで、ちょっぴり悲しかったのは秘密。


「やればできる子なのに、なんでこんなこと書くの?! ちゃんと真剣に書きなさい!」


 委員長こと、六十谷智子(むそたともこ)は、いつもの仁王立ちスタイルで俺の前に立ちはだかり、こうおっしゃられたのだった。もうため息しか出ない。これでも真剣に考えた結果なのに。


「別に、私は一ノ瀬くんを励ましてるんじゃないからね? 委員長としてクラスメイトのことは正当に評価したいというか……もごもごもご」


 他にも何やら言っていたが、どうせたわいもないことだろう。無視。

 俺が一枚目に書いたのは『二宮健司くんの家の弁当屋【ごちそうモリモリ】に就職』だ。もちろん進学と就職という二つの選択肢のうち、就職の方に丸をつけてある。俺としてはこの上なく素晴らしい決断だと思っていた。


 健司のところの親父さんとおばさんには昔から可愛がってもらっているし、弁当屋ともなれば俺の得意分野である料理の腕も活かせる。そして、これは最も重要なことなのだが、将来愛が健司と結婚した場合、見守りやすいのだ。愛は美人だから、ガラの悪い客から絡まれたりすることも多いだろう。調理音痴だから、失敗なんて山ほどするだろう。俺は愛が心配で仕方がないのだ。つまり弁当屋への就職は、まさに良い事づくめである。悪いところなんて思い当たらない。


 俺がスルーを決め込んでいたら、廊下の方から委員長を呼ぶ声が聞こえた。委員長はもじもじしながら、人がまばらな教室を去っていく。捨てられた子犬のような目で見つめてくるが、俺の心はそんなことでは動かない。ボールペンを片手でくるくる回していると、代わりにやってきたのは恵介だった。


「ん? まだ志望校決めてないの? 模試の判定、参考にしたら?」


 白紙の進路調査票を見つめる恵介の反応は、ごく一般的なもの。なんてったって、我が県立夢茶工茶高校(むちゃこう)は進学校なのだから。しかも、中学の頃は真面目ちゃんだった俺は特進クラスに入っているものだから、よっぽどの家庭の事情でもない限りクラス全員が大学への進学を目指す。俺も一年の頃はそのつもりだった。何にも考えずに生きる、羊の群れの一頭に過ぎなかったから。


 転機はこの春に訪れた。

 うちの母親、オカンの仕事が忙しくなったのだ。帰りは毎日深夜。風呂上がりも化粧水を顔に塗りたくりながら、ノーパソを広げて仕事のメールに返事していたりする。本社勤務になったとかで通勤も長くなったらしく、朝も早い。声をかけるのも憚られる程の緊張感を常に保っていて、オカンはオカンじゃなくなってしまった。


 休みの日は昼まで寝ている。そして、仕事関連の勉強だとか言って、またパソコンと睨めっこして過ごすのだ。


 親父もワーカーホリック的なところはあったが、ここまでではない。親父は親父なりにオカンの穴埋めをしようとしていたけれど、家の中がこれまで通りに回らなくなってしまったのは言うまでもなかった。俺は元々家事全般を担っていたから最悪の事態は免れたけれど、オカンという『家族を正常に機能させる歯車』が無くなることは大きい。家族みんながすれ違って、バラバラになっていく気がした。


 そして次第に、いろんなことがどうでも良くなっていった。


 まず、勉強する意義が見いだせない。どうせ社会に出てから使わないことばかりだ。こんなことを反復したところで何のメリットになるのか。


 とは言え、学校は休まず行った。残念ながら身体は丈夫な方なので休む口実もない。親に変な心配かけたくないのもある。友達とバカ騒ぎしながらつるんでいたら、いつの間にか季節が移り、すっかり秋も深まっていた。乾いた地面を枯葉が駆け抜けていく。


 就職。親もあれだけあくせく働くからには、仕事はそれなりに楽しいのだろう。少なくとも悲壮感はないのだから。オカンの背中から伝わってくるもの。それは、『打ち込んでいる』という言い方が相応しい。俺もとりあえず働こうかな、なんて考えに至ったのはあまりに簡単なことだった。


 稼げるようになったら、きっと世界が変わると思う。親からもらう小遣いをやりくりするのではなく、自分の労働で得た対価を自分だけのために使う。いいじゃないか。何だってできる気がする。もし進学するとしたら、なんだかんだで高い学費がかかるだろう。うちは共働きだけれど確か家のローンは残ってるし、愛も特進クラスだから順当にいけば進学する可能性の方が高い。俺の選択は経済的で、合理的で、夢がある気がする。


 委員長が言いたいことは分かっているつもりだ。どうせ進学しろと言いたいのだろう。中学から一緒になので、昔は成績が良かったことや、最近は勉強を全くしていないのもバレている。だからこそなのだろうけれど、余計なお世話だ。もうこうなったら、進路希望調査票は直接担任の先生にでも提出しよう。


 右手を腕まくりしてボールペンを握る。ふと見渡すと、教室は誰もいなくなっていた。校庭からボールが跳ねる音と、運動部がランニングしながら発する規則的な掛け声が聞こえてくる。


 そこへ、カツカツと靴音が背後に近づいてきた。同時に背中がゾワッとする。悪い予感。きっと気のせいだと思いながらも振り返ると、立っていたのはやはり、ノリ子こと文芽(あやめ)だった。


「帰る?」


 尋ねる文芽は、今日も長い前髪のおかげで表情が読み取れない。


「帰る」


 俺は白紙の進路調査票を鞄の中のクリアファイルに挟み込むと、手早く席を立った。文芽は右肩から通学用の手提げ袋をさげていて、微動だにしない。


「帰らないの?」

「誰が一緒に帰るって言ったのよ」


 そうだった。文芽ってこういう奴だった。


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