第11話 終わる物語(ver2.0)
――――――――6月19日 18:32
美術室のカギの管理は杜撰であった。
合鍵も含めて十本以上存在しているようで、手に入れようと思えば、俺でも手に入れる事はできた。
もしかしたら、カギがかかっていない状況はよくあったのかもしれない。
「待たせたな」
例の美術室に俺は尼子美羅を呼び出していた。
カギを開けておいた状態、つまりは、藤沼善治郎が古城有紀を襲おうとしていた場面の再現に近い状態にしておいて。
あの日、尼子美羅が藤沼善治郎が尾行しているのに気づきながらもこの学院へと入り、パーカーのフードで顔を隠して入室した後、美術室の窓の外で待機していた古城有紀と入れ替わったのだろう。
尼子美羅は窓から外に出て、古城有紀は窓から美術室に入った。
藤沼善治郎は教室にいた古城有紀を尼子美羅と錯覚して、『捨て駒』として用意された古城有紀を襲おうとしていたのだ。
「悪趣味なこと」
尼子美羅は俺の呼びかけに応じて、美術室で待っていた。
あの時、古城有紀が座っていた場所と同じ場所に椅子を置き、黒板の方に身体を向けていた。
俺が気軽に挨拶をして教室に入っていっても、尼子美羅は俺を睥睨しただけであった。
「俺の役目は狂言回しなんだろう? ならば、その仕事を全うせねばなるまい」
尼子美羅と古城有紀の物語において、俺の役割は狂言回しに近かった。
二人の書いた物語の進行を手伝うかのように俺は動き回り、物語を二人の思い通りに展開させる事の手助けをしていた。
今思えば滑稽であった。
俺は二人の物語通りに動き、物語通りに物を考え、物語通りに活躍をした。
湯河原羽衣ストーカー事件の時と似ているようだが、似て非なる物であった。
姫子と朱里は未来に起こるであろう事件を防ぐために動いていた。
それに引き換え、美羅と有紀は事件が起こるのを知っていていながらも何もせずに傍観して藤沼善治郎に罪を重ねさせていた。
「事件は解決したんですのよ? それで満足できないんですの?」
尼子美羅は用意されている台本を読み上げるように感情を出さずに言う。
「本当はやっちゃいけないんだが、藤沼善治郎の供述調書を見せてもらったんだ。俺より先に供述調書を読んでいた人の様子がおかしかったんで問い詰めたら読ませてくれたんだよ。目を通さない方が良い物が世の中にはある、と俺に諭したが、俺は見たかったんだ。何があったのかを知りたくてな」
俺に調書を渡してくれたのは、八丁堀誠こと、じいさんだ。
元警官という事もあって、何故か入手してきたのだ。借りてきただけだったのかもしれない。
胸くそが悪いとはこういう感情を言うのかと、藤沼善治郎の供述調書を読んでいて思った。胃液がこみ上げてきて、本当に吐きそうになったほどだ。
読んで分かった事は、あんな事があったのにおくびにも出さず、ほんわかとしながらも気丈であった錦屋いなりは芯が通った女の子だという事と、藤沼善治郎の素行不良さ加減と、クズと通りこして人でなしに近い人間性の下劣さであった。
「錦屋いなりの下着に付着していたDNAと藤沼善治郎のDNAの型が一致したそうだ。しかも『神聖なものを犯す背徳感を味わいたかった』って自供していたんだ。警棒で十数回殴ると、錦屋いなりはぐったりとしていた。その姿を見ていたら劣情を抑えきれず……ま、幸いな事に、人が来たんで未遂で終わった。もし誰も来なかったらどうなっていたんだろうな。その時、錦屋いなりは何を思ったのか。お前には分かるか?」
そう言っても尼子美羅の表情に変化は見られなかった。無表情というべきか、感情を表に出そうとしてないというべきか。
「今回の通り魔事件以外にも余罪が他にもあってな。藤沼善治郎のDNA型と一致した案件が何件かあったそうだ。未解決であった数件の強姦事件がこれで解決する事だろうし、捕まるべくして捕まったってところだな。自分を刺した人間の境遇を一変させてどん底へと突き落として過度のストレスを与え、極限状態へと至らせて暴走させて犯罪を誘発させるという、尼子宗大のあらすじはよくできている。そんな手をよく使って、人を操っていたんだろうよ」
俺は尼子美羅の顔をのぞき込むように見るも、眉一つ動かさず、俺の目を見つめ返すだけであった。
これが尼子家の帝王学とでも言うのだろうか。
「その結果、罪を重ねただけではなく余罪まで出て来たのだから、結果としては十分といえるな。だが、そんな奴の犯罪に巻き込まれた被害者はどうなんだ? 犯罪に巻き込まれたけど、社会的に抹殺すべき人間が抹殺される結果になったんだから感謝してくださいとでも言うのか?」
感情そのものが備わっていないかのように尼子美羅は能面のような表情をし続けていた。
親の尼子宗大に似て、非情であるというのか、尼子美羅は。
「お前は錦屋いなり、五十嵐麗子、愛川ひとみ、赤城絵里に謝れるのか? 犠牲になる事は分かっていましたが、見て見ぬ振りをしていてすいませんでしたって謝れるのか?」
これだけ言っても、尼子美羅は顔色一つ変えなかった。
それだけ非情だというのか、尼子の血というものは。
「……月くん」
一瞬、尼子美羅の口からその言葉が紡がれたのかと錯覚した。
そんな事はあり得ないと気づいて、古城有紀の声がした方に驚きを隠しきれずに身体を向けた。
「……月くん。美羅をこれ以上追い詰めないで。美羅はもう限界なの。優しい美羅には耐えきれない事実ばかりでもう壊れそうなのよ。だから、止めてあげて」
美術室の扉のところに、茜色学院の制服を着た古城有紀が物憂げな様子で立っていた。
悲しみに包まれた瞳で俺ではなく、尼子美羅の事をじっと見つめていた。
この疎外感はなんだろうか。
俺がまるで部外者であるかのような二人だけの世界がそこには存在しているかのような空気が流れ始める。
「有紀! それではダメ!」
尼子美羅はガタッと椅子を弾き飛ばさんばかりの勢いで立ち上がり、古城有紀を見やった。
今まで表情を崩さなかった尼子美羅の表情が一変した。
能面を取り去ってみれば、そこにはあったのは、悲しみで憔悴しきった、今にも泣きじゃくりそうな顔であった。
これまで感情を押し殺してきたというのか。だが、有紀の登場によって、あふれ出る感情を抑えきれなくなったとでもいうのか。
これが尼子美羅の本来の姿だというのか。
尼子美羅は父親同様、冷徹というワケではなかったというのか。
『生まれた時から私は嘘吐きですわ』
尼子美羅の台詞が記憶の中から浮上してきて、俺の頭をしたたかに打ち付けた。
強い私、尼子宗大の娘という強い娘だと今まで偽ってきたというのか。
「……美羅。演技はもう必要ないの。ごめんね、辛い思いをたくさんさせて。私が背負うべきだった苦悩も抱えさせてしまってごめんね」
古城美羅は尼子美羅へと、りゅうとした足取りで近づいていく。
そんな古城有紀に尼子美羅は駆け寄るなり、そうすることが自然なように抱きついた。
「尼子宗大の
古城有紀は尼子美羅の髪をかき上げると、尼子美羅の瞳を愛おしそうに魅入った。
尼子美羅も同じように古城有紀を見つめ返し、猫なで声さえ上げそうなほど口元を緩めていた。
俺は思い違いをしていたようだ。
尼子美羅が非情にも、古城有紀の事を再び『白ワニ』にして一連の事件を収拾しようと思っている、と。
だが、これはどういう事なのだ?
俺が間違っているのは分かる。
俺の推理がどう間違っていたというのか?
「これはがんばった美羅へのご褒美」
有紀は美羅の顎に手を添えると、何の躊躇いもなく、顔を近づけて唇を重ねた。
美羅は有紀に身体を預けて目を瞑る。
悲しみ色に染まっていた顔が段々と喜色へと染め直されていく。
美羅の口から吐息が漏れると、その吐息に応えるように有紀の口からも甘い吐息が漏れ出た。
「電車で出会ったのは、もしかして……。待て。どこからが偶然で、どこからが物語の筋書きだったんだ?」
あれは偶然なのは分かっている。だが、そう邪推してしまうのは、俺がこの事件全体を見ていなかった事に対する狼狽のようなものであった。
「月くんは分かっているよね? あれは偶然。けれど、会わないといけないからいずれは会う予定ではあったの。だから、付いていったの。それに月くんの彼女さんには会ってみたかったし。会って安心したから、月くんを巻き込んだの。それにね、あの日、屋上に美羅がいたのは私の指示なんだよ」
美羅の唇からそっと唇と離すと、二人を繋ぐように一筋の光が糸をひいていた。
その糸を、人差し指でなまめかしく断ち切り、今まで見た事もないような慈愛に満ちた目で有紀が俺を見つめてくる。
『とっくの昔に賽は投げられているんですの』
あの日、屋上で尼子美羅が言っていた『とっくの昔』とはいつからだったのだろうか。
藤沼善治郎が行動し始めた頃かと考えたのだが、そうではなかったのかもしれない。
とっくの昔とは、中等部の頃なのだろう。
「お前達は中等部の頃から……」
停学処分後の古城有紀の音信不通、そして、男子の人気投票で無記名を貫いた尼子美羅の真意を目の当たりにしていた。
古城有紀は俺など好きではなかったのだ。
俺と付き合っていたのは、偽装のようなものだったのかもしれない。
だからこそ、転校と同時に、すっぱりと俺との連絡を絶つことができたのだろう。
尼子美羅は無記名を貫いたのは、古城有紀の事が好きであったからか。
もしかしたら、二人はあの頃から恋人同士であったのかもしれない。
弱い尼子美羅を守るために古城有紀は自白をし、俺との関係を断つ事で尼子美羅を苦しめまいと転校したのかもしれない。
「月くんはあの設問の答えは分かった?」
話題が変えられた事に違和感を覚えながらも、俺はかぶりを振った。
尼子宗大が『悪い領主様』であり、『領主の一人娘』は尼子美羅であり、『盗賊に襲われていた娘』が古城有紀なのは分かったが、答えは見いだせていない。
「じゃあ、ちょっとアレンジして答えが見つけやすくしてあげるね。数年前のお話です。ここ茜色市には尼子宗大という実業家がいました。尼子宗大には尼子美羅という一人娘がいたのですが、尼子宗大の支配欲はとても強く、従業員だけではなく、その一人娘の尼子美羅さえも自分の思い通りにしようとしていました」
古城有紀は一旦区切り、尼子美羅を悲しそうな目で見つめる。
「尼子美羅はその事に気づいてはいましたが、非常にか弱く、すぐに壊れてしまいそうな繊細な心しか持っていなかったのです。逆らうすべを知らず尼子宗大の言いなりになっていました。とある日の事でした」
有紀は美羅から視線を外すように目をそっと閉じた。
「尼子美羅は偶然にも古城有紀という親友が父親の無理心中で殺されそうになっていたところを助けたのです。古城有紀は尼子美羅にとても感謝をして、恩人として付き従いたいと言い出したのでした。尼子宗大は父親にその事を報告すると、父親は大変喜びました。ですが、その際に言った父親の一言で尼子美羅は複雑な思いになってしまいました。尼子美羅は、父親になんと言われたのでしょうか?」
古城有紀は抱きついている尼子美羅の頭をまるで母親であるかのように撫でながら、ゆっくりと、それでいて聞こえやすい口調でそう言った。
「その回答だが、散々悩んだが、分からなかったんだ。『お前が助けなければ死んでいた娘だ。捨て駒として死地を用意しなくては!』とかその程度しか思い浮かばない」
答えはもっと別のものだ。
俺が思いつかないというべきか、尼子宗大という人物が分からないため、考えても考えても答えが導き出させなかったのだ。
「月くん。答えはね、『よくやった! これであの女を手に入れる事ができる! 娘? そんなのはお前が……ああ、そうだ! お前ももう不必要になるんだったな。ゴミはゴミと仲良くしているがいい』なんだよ」
「……は?」
回答の意味が掴めなかった。
あの女とは誰の事なんだろうか。
それに不必要っていうのはどういう意味なんだ?
「ふふっ、やっぱり分からないよね。あの女っていうのは、私のお母さんの事なんだ。尼子宗大はね、私のお母さんの事が好きだったの。でも、私のお父さんとライバル関係にあったから、お父さんの好きな人を奪って、自分が上だって思い知らせたかったらしいの。おかしいよね、そんな考え」
「……分かるかよ、そんな話。ヒントとか何もなかったじゃないか。分かる訳がない……」
「お父さんが無理心中を図ろうとしたけど失敗しちゃって惨めに自傷して自殺した後、お母さんを囲うために借金を全額返済したの。でも、私も美羅も不必要だったから捨てられそうになっていたの。でも、美羅は尼子グループにしがみついて、私を救ってくれたから、今度は私が美羅を救う番だったの。だから、尼子宗大の物語を修正して、美羅を救う物語にしたの。この物語は私たち二人が生きるための物語だったの」
「他人を犠牲にしてまでもか?」
古城有紀は当然心を痛めている。
錦屋いなりに会えないと言ったのはやはり罪悪感からなのだろう。
錦屋いなりは、自分の物語のために踏み台にされて、あんな目に遭ったのだから。
「うん。呪縛から逃れるためには必要な犠牲だったの。そう思わないと、私だって苦しいもの」
言葉とは裏腹に有紀は笑みを浮かべていた。だが、その笑みにもう薄幸さは存在していなかった。
変わってしまったというのか。
俺が知っている頃の有紀とは別人になってしまったというのか。
「でもね、一番苦しかったのは美羅なの。美羅はね、あの事件の時……そう、三日目の聞き取り調査の次の日、藤沼に呼び出されていたの」
有紀は言いにくそうな表情をして目を閉じた。
「……私は辱められたんですの、誰も来ない廃屋で……気絶するまで……何度も何度も……」
美羅は有紀の胸に顔を埋めたまま、低い声でそう告げた。
その記憶が蘇ったのか、美羅の顔が一気に青ざめ、尼子美羅の瞳から光が消え去った。
「だから、私がいじめをしていたと名乗り出たの。分かった、月くん? 美羅を守りたかったの、獣から……ね。だから変わる必要に迫られていたの。不必要だと言われた私が、私を必要としている人のために犠牲になったの」
藤沼のDNA型が一致した強姦事件が数件あったと書いてあったが、もしや尼子美羅もその中の被害者であったというのか?
そういえば、じいさんが口を閉ざしていた理由は、これだったのか……。
そうだとしたら、俺は……大馬鹿野郎だ。いや、違う。被害者に石を投げていたクズそのものだ。
「それにね、三週間前、美羅はね、藤沼に押し倒されたの。それでね、下着の上からまさぐられながら、『今度は孕ませてやるよ』とか囁かれたんだよ。月くん、おぞましい事だと思わない? だから、私が物語を書き直したの。藤沼を殺せばそれで終わるかもしれないけど、それだと同じ穴のムジナじゃない。だからこうするしかなかったんだ」
「……」
俺は言葉を失っていた。
これは、愛する尼子美羅を救う物語であったのだ。
その事に俺は気づきもしなかった。気づいていたとしたら、藤沼善治郎が地獄に落ちるよう仕向けていた事だろう。
いや、待てよ。
藤沼善治郎が誰かの意思で動いていたかのように思えるのは何故なんだ?
古城有紀がそういう風に言っているだけなのか、それとも……。
「みんなには悪い事をしたって思っているよ。でも、その痛みは中等部の頃の傷が今頃出て来たって思って欲しい……なんて虫の良い話だけど、そう思っているの。思い込みたいの。ありがとう、月くん。月くんがね、もしもの時と思っていた仕掛けた導線に従って行動してくれなかったら、私は藤沼に殺されていたかもしれなかったんだよ。ホントはね、傷害致死も加われば良かったんだけどね」
「……」
俺は言葉を失っていた。
美術室での出来事が尼子美羅の狂言である事に気づけば、俺は古城有紀にたどり着いていたかもしれない。
ここで藤沼と尼子美羅が会っているかのように演出をしていたのは、藤沼とはここで決着を付ける予定だという導線のための自作自演であった。
「月くんはね、深読みしすぎなの。私が転校してね、音信不通になった時、素直に終わったんだって思えば良かったのに。そうすれば、納得できたのに。私は悪い女の子なの。俗に悪女って言われるかもしれないけど、月くんを手玉に取っちゃうような、みんなが傷つくのを平気な顔で見ていられるような悪い女の子なの。だから、軽蔑して嫌いになってね、私の事を」
これは、欲にまみれた大人達の中で儚くも美しく生きようとしていた二人の少女の物語であった。
もし、俺がその物語にたどりついていたとしても、見て見ぬ振りをしていたかもしれない。
物語があらぬ方向に向かっていたら軌道修正したりしたかもしれない。
この物語に出て来た大人達はあまりにも卑しかった。
そんな大人達に救いの手を差し伸べるほど俺はできた人間ではないし、義憤さえ抱いて手助けしたかもしれない。
そんな事を知ったら、探偵失格ではあるんだろうが。
「私達の物語はここで終わり。月くんは、この言葉の意味を近い将来知る事になるよ。これでようやく羽ばたけるの、輝ける未来へと」
古城有紀は尼子美羅を抱擁しながら、薄幸そうに微笑んだ。
二人の物語は、ここでハッピーエンドを迎えたと言いたげに……。
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