第9話 蜃気楼(ver2.0)
――――――――6月10日 18:00
空は夕闇に染まり始めていた。
太陽が沈み始めているためか、梅雨の肌にまとわりつくような、じめっとした空気が顔を出し始めていた。
もう大半の生徒が帰宅している時刻であるというのに、学校へと向かう人影が一つ。
茜色学院の制服の上に、灰色のパーカーを羽織っている尼子美羅であった。
季節の変わり目と言う事もあって、体温調整がまだ正常に機能しておらず、パーカーで体温の調整を行っているようであった。
尼子は周囲を確認もせずに校門をくぐり、一路、高等部の校舎を目指す。
今日、尼子美羅が体調不良で学校を休んでいた事を知っているのは希有と言っていいのかもしれない。
すれ違う生徒や部活動をしている者達は尼子美羅という存在を気にもとめてはいなかった。
尼子美羅は正面玄関から校舎へと入り、下駄箱で上履きに履き替えた。
普通ならば親しい同級生や知り合いがいないかなどと思いながら歩いたりしそうなものである。
しかしながら、今日は病欠したせいもあってか、誰かに見られて、見とがめられることを心配したのか、パーカーのフードをかぶって顔を隠すと、正面を見据えて、高等部の端っこにある美術室の方へと進み始めた。
美術室は、扉が開け放たれているだけではなく、照明が点いたままになっていて、光が廊下や外へと漏れ出ていた。
尼子美羅は何の疑問も抱かず、周囲の様子を確認せずに吸い込まれるようにそんな美術室へと入室していった。
美術室の窓は開け放たれたままになっていた。美術部員や美術の先生の姿はなく、窓を閉め忘れただけではなく、扉も施錠し忘れて帰宅したかのようであった。
尼子美羅は開けられている窓へと近づき、もう夜の闇が支配しつつある外を見つめた。
そして……
* * *
示し合わせたかのように、ほぼ同時に俺と瀬名は茜色学院に到着した。
俺はぜえぜえと肩で息をして、身体が限界に近いというのに、八丁堀瀬名は全力で駆けてきたであろうはずなのに息さえ乱さずに涼しい顔をしていた。
運動神経が良すぎるんだ、瀬名は。
「美術室か?」
高等部の校舎を瀬名は目を細めて睨み付けた。
「美術室から光が漏れている。美術部員が残っているのか?」
「ぜぇ……ぜぇ……そんな……はずは……」
無理矢理に呼吸の回数をコントロールして息を整えるのに精一杯だった。
気力を振り絞って顔を上げて美術室を見やると、瀬名の言う通り、夜の闇を侵食するように美術室から光が漏れているのが分かった。
「なら急がないとな」
瀬名はそう呟くなり、走り出した。
俺はもう全てが終わってから倒れればいいと開き直り、瀬名に続く。
基礎体力の差というべきものなのか、それとも、運動能力の差というべきものなのか、俺が正面玄関にようやく到着した時には、瀬名は上履きに履き替えて、美術室へと向かおうとしていた。
「ええい!」
上履きを履き替える時間さえ惜しく、土足のままは瀬名を追いかけるように美術室へと急ぐ。
追いついたように思えたが、やはり差は開いていく。
息が苦しい。
呼吸器官だけではなく、身体機能が悲鳴を上げ始めていた。
遮二無二走るのは、こうも辛い行為だったのか。もう走りたくはない。だが、俺は走らないといけないのだ。この身体が壊れてしまってもだ。
今はその辛さを無視するしかない。
美術室に尼子美羅がいないかどうかを確かめなければならない。苦しむのは、その後でいくらでもできる。
「ッ!」
瀬名が美術室の前までいち早く辿りついた。そのまま中に入るのかと思われたが、それまでの勢いを一気に殺して足を止めた。
どう動くか逡巡しているのが、瀬名の横顔からでも窺えた。
何が起こっているのだ、美術室で。
「ッ!」
俺もようやく美術室の扉のところまで来て、視線を美術室の内部へと向けた。
そこには、椅子に腰掛けて黒板の方をじっと見つめている茜色学院の女生徒の後ろ姿と、その女生徒の背後に忍び寄る赤いロングコートに、サングラスとマスクという出で立ちで、手にはナイフを持った男の背中が見えた。
なんだ?
違和感がある。
なんだ、この違和感は。
座っている女生徒は、パーカーのフードをかぶっていて顔を見ることができず誰だか分からないが、尼子美羅なのか?
あれは……
あの後ろ姿は……
俺が見間違うはずもなかった。
三ヶ月とはいえ付き合ったあいつの後ろ姿を。
何度も見送った事もある、あの後ろ姿を。
何度か夢に出て来た事のある、あの後ろ姿を。
最近も見つめていた、あの後ろ姿を。
「古城ォォォォォッ有紀ィィィィィィィィッ!!」
俺はその名を力の限り叫んでいた。
「うおおおおおお!!!」
俺の叫びが合図となったように瀬名が美術室へと突入していった。
突然の絶叫で何事かと俺達に顔を向けた赤いロングコートの男は、明らかに面食らっていた。
標的に向かうべきか、俺達と正対すべきなのか、迷っているかのように視線を右往左往させた。
瀬名は男に殴りかかるのかと思っていた。
瀬名はそんな事をせずにすぐ傍にあった美術室の木製の机を持ち上げて、赤いロングコートの男めがけて投げつけた。
赤いロングコートの男は当然飛んで来た机を避けたのだが、床に落ちた後、跳ね飛んだ机に背中がぶつかり、よろめいた。
これを好機と見た瀬名は、美術室の椅子を持ち上げ、四つ足の方を相手に向けるように構えた。
そして、赤いロングコートの男に迫っていく。
刺股であるかのように椅子の脚を何度も突き出して赤いロングコートの男を追い詰めていく。
椅子の脚が手にしていたナイフに当たって、見事に弾き飛ばした。
凶器を失い戦意を喪失するのかと思われたが、そうはならなかった。
赤いロングコートの男は突き出される椅子を力任せでなぎ払い、瀬名との距離を狭めた。
瀬名は椅子を何の未練も見せずに投げ捨てて、飛び込んでこようとしている男に身構えた。
赤いロングコートの足が動いた。
これがセオリーだとばかりに繰り出された足払いであった。
瀬名はそれを予想していたかのように回避して、男の懐へと潜り込むなり、『一本!』と思わず叫びたくなるような背負い投げを華麗に決めていた。
「ああああああ!!!」
美術室の床に叩き付けられて、赤いロングコートの男は悲痛な叫びを上げた。
瀬名はひるむことなく、腕をがっちりと締め上げて、身動きさえできない状態へと持っていった。
「ふぅ……」
前にもこんな場面があったな、と思いながらも、俺は椅子に腰掛けたまま微動だにしない古城有紀の後ろ姿に見やった。
瀬名との捕り物など感知していないかのように椅子に座り、じっと黒板の方を見つめている。
まるで時が止まっているかのように。
生きてはいるのだろう。
呼吸に合わせて、胸が上下しているのが分かる。俺達を一瞥する素振りさえ見せてはいなかった。
「……有紀。これがお前の言っていた警備員の短期アルバイトか」
返答は期待してはいなかったが、答えては欲しかった。
答えを求めるようにしばらく待ってみるも、古城有紀は沈黙を貫いていた。
「さて、藤沼善治郎」
後ろ髪引かれる思いだったが、俺は瀬名が押さえつけている赤いロングコートの男の傍まで行った。
顔を振って抵抗してくるのを物ともせず、サングラスを外し、マスクを取り払った。
赤いロングコートの男の素顔が現れた。
目がギロついている上に、頬がこけているものの、昔の面影が色濃く残っていた。
赤いロングコートの男は、やはり藤沼善治郎その人であった。
「藤沼、どうして今更白ワニ事件なんて蒸し返して、あんな事件を起こしていたんだ? 何があったっていうんだ。答えてくれよ」
俺は瀬名が腕を押さえつけて身動きが取れないでいる藤沼にそう問いただした。
藤沼は俺を恨みがましく睨み付けながらも、血走った目と好戦的な表情を隠しもせずに野良犬のように牽制してくる。
「はぁぁぁぁぁっ? 白ワニ事件って何だよ、ボケがぁぁぁ! 死ねよ、ガキが!!」
その一言で、何者かが作り出していた蜃気楼が俺の目の前から消失してしまったような気がした。
これは……。
これは誰が書いた
俺はその答えを求めるように椅子に腰掛けているであろう古城有紀に顔を向けた。
有紀はもうそこにはおらず、慌てて視線を彷徨わせると、美術室から出て行こうとする後ろ姿が見えた。
何かを大事そうに抱えている有紀の姿が。
俺は状況を把握するために思考回路を総動員し始めてしまったせいで、どう声をかけるべきか思い至らなかった。
そんな俺を知ってか、有紀は足を止めて振り返って、薄幸そうな笑みを見せるなりまた歩き出していった。
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