第3話 とある噂(ver2.0)


 その日の放課後、瀬名に関する妙な噂を聞かされた。


「聞いたか、邦雄。瀬名の奴、二股かけているんだってな」


 普段はろくに口をきいたことがないクラスメートの久堅茂雄ひさかたしげおが帰る準備をしていた俺を捕まえて、顔をにやつかせながらそんな事を言ってきた。


「……え?」


 友人の八丁堀瀬名には恋人がいる。


 俺は紹介してもらった事がないし、妹の八丁堀姫子にも会わせた事がなく、どのような人物なのか謎めいているのだ。


 名前もまだ教えてもらってはいないので、架空の人物なのではないかと思ったりもする。


 妹の姫子が瀬名に恋人の匂いが染みついていて嫌だと言っていた事があるので、非現実ではなく実在しており、付き合っている事も確実なようだ。


 しかし、二股という話は瀬名からも姫子からも聞いた事がない。恋多き男ではなく、どちらかと言えば、瀬名は恋には一途な男のはずだ。


「二股かけている相手にも男がいてさ、そいつと揉めているって噂だぜ」


「誰と付き合っているのか知っているのか?」


 久堅が知っているとは想定外だ。


 こいつはそういったのに興味がないというか、他人に興味がなさそうな男なのに。


「友達だろ? 知っているんじゃないか?」


 久堅は不思議そうな顔をして、俺を見つめた。


「そういう話はしないんだ。恋人がいるっていう話は聞いてはいるんだが」


 二股の件で揉めているというのは本当の話なんだろうか。


 二股相手の男から警告として、イワシの頭を下駄箱に入れられた可能性はあるか?


「今、結構揉めているらしいからな、巻き込まれないように気をつけろよ」


「そんなに揉めているのか?」


 瀬名に限って言えば、そんな事をする男ではないと分かっているだけに、そういった噂が流れる要因があったのではと考えてしまう。


「ああ。相手の男と一触即発だったってよ」


「そうか、気をつけるよ」


 イワシの頭を入れたのがそいつだとするのならば、部外者が平然とこの学校に入ってきて、下駄箱にイワシの頭を入れる事など不可能に近いので、この学校の生徒ということになる。


 文武両道の瀬名に真っ向から立ち向かうのは無理だと分かっているから、嫌がらせて対抗でもしようとしたのだろうか。


「人の色恋沙汰に巻き込まれるのは面倒だからな」


 久堅はやれやれと言いたげに肩をすくめた後、急いで教室を出て行った。


「噂? いったい誰がそんな噂を?」


 俺は疑問に思いつつも、帰路についた。



                * * *



「あ、お兄さんだ。奇遇だよね!」


 校門を出たところで、中等部の制服でその身を包み、学校指定のバックを手にしている八丁堀姫子とばったりと出会ってしまった。


 ばったりと言ったが、どう考えてみても、姫子が待ち伏せをしていたのは明白であった。それを白々しく、奇遇だと言える図太い神経を俺は見習いたいものである。


 実の兄をセナと呼び、俺の事を『お兄さん』と呼ぶのは未だに不思議な感触だ。


「奇遇じゃないから。お前、待っていただろ」


 八丁堀姫子は、小中高とずっと同じクラスという腐れ縁の八丁堀瀬名の妹だ。


 瀬名の家には昔からよく遊びに行っていたから、昔からよく遊んでいた事もあり、幼なじみというよりかは義理の妹に近い存在と言える。


 俺と瀬名が中高一貫の茜色学院あかねいろがくいんに入学すると、とある空白期間があったのに関わらず猛勉強をして、俺たちの後を追うように進学校に近いこの学院に入学してきた。


 俺と瀬名は高二で、姫子は中学二年なのだが、同じ敷地内に中学と高校があるため、こういうふうにたまにちょっかいを出しに来る。


「奇遇も奇遇だよね! 私ってラッキーガールだよね!」


「頭がおめでたいという意味でか?」


「そうじゃなくって」


「ちょっと話がしたかったし、ちょうどいい」


「えっ? 話って愛の告白?」


 姫子は頬を若干赤らめて、俺の事を上目遣いで見て来る。


 自分の魅力を知り尽くしていて、それを武器として使って来るところが小賢しい。


 これも文武両道の兄である瀬名の影響なのか。そういうのを武器として平気で使って来る事が小憎らしい。


「ほら、歩くぞ」


 俺は姫子の言葉を当然のごとくスルーして歩き出す。


 姫子は本気なのだろう。


 俺と姫子の仲を近づかせるためには、とある壁がある。


 それは約束だ。


 俺と姫子の間でかわされた、とある約束だ。


「は~い」


 姫子はスルーされた事に動じてない様子で、俺と並んで歩き出した。


「話って何かな? 何かな?」


 ちらりちらりと俺の事を姫子が見てくる。


 何かを期待しているかのようなその瞳が何とも言えないプレッシャーを俺にかけてくる。


「急かすな」


「愛を語る男の人って素敵」


「愛は愛でも、お前の兄貴の話だ」


「……セナの?」


 期待外れだったのか、それとも、予想外の話だったからなのか、姫子はキョトンとした表情をして見せた。


「瀬名が二股しているって話は本当なのか?」


 先ほど、久堅から聞いた噂を確認するためにそう言った。


「二股? していないと思うよ。あ、でも、最近、彼女さんの匂いがセナからはしないから会っていないのかも?」


 あまり会っていないのか?


 それとも、会わなくなったのか?


「匂い? 相変わらず、そんな匂いをかいでいるのか。お前、本当に変態だな」


 前に兄から彼女の匂いがして不快だなんて言っていたが、まだ続けていたとは思ってもみなかった。


『最近、セナの身体から彼女さんの匂いがして、なんか嫌なの。たまには、お兄さんの匂いで息抜きしないと』


 そんな事を言って、俺の匂いをかぐ事がたまにある。


「誰から聞いたの?」


 姫子は俺の言葉を華麗に聞き流して、逆に聞き返してきた。


「そんな噂が流れているって耳にしてな」


「ただの噂じゃないかな? セナはそういう事する男じゃないよ。お兄さんだってよく分かっているでしょ。結構一途だよ」


 さも当然というように姫子は言い切った。


「……まぁ、信じてはいるんだが、噂話を聞かされてな」


 不意に『鰯の頭も信心から』という言葉が脳裏にひらめいた。


 あのイワシの頭は、柊鰯ひいらぎいわしではなかったのだ。


「まあ、姫子」


「何々? お兄さん?」


 姫子が期待に満ちた瞳で俺をじっと見つめてくる。


 俺に何を期待しているというのだろうか。


「今日は特別にお前の鞄を持ってやろう。今日の俺は優しいんだ」


 姫子の方へと手を差し出すと、何を思ったのか、姫子は俺の手を握ってきた。


 柔らかく、小さな手だった。


 このまま姫子と手を握り合って歩いてもいいのだが……いや、良くないか。


「お兄さん、今日はなんか優しいね。下心あり?」


「お前こそ、下心ありだろうが。手じゃなくて、鞄だ、カバン」


「……仕方ないなぁ」


 未練がましく何度も何度も俺の目を見つめた後、渋々といった雰囲気で手を離して、持っていた鞄を俺に渡してきた。


 俺はカバンを受け取ると、カバンを持ったまま手の甲で鼻の頭をかいた。


「さて、行こうか」


 その時、下駄箱に入っていたイワシの頭の意味が『鰯の頭も信心から』だと俺は確信した。


               * * *



「うふふっ」


 八丁堀姫子は俺の家にまで付いてきて、そうするのが当然だと言いたげに、俺の部屋にまで入って来た。


 俺の部屋に入るなり、ベッドに横になって、枕を抱きしめた後、くんくんと鼻を鳴らして匂いをかぎ出したりしている。


「俺の枕を粗末に扱うな」


「優しく抱きしめているだけだよ? お兄さんの匂い、凄く良いし、粗末になんてとてもとても」


 俺に見せつけるように枕に思いっきり顔を埋めて、匂いをかいだりする。


「姫子は匂いフェチかよ」


「ううん、お兄さんフェチかな?」


 姫子の扱いには、困るものがある。


 自分の領域が段々と姫子に犯されていくかのような感覚がある。


 俺の境域を姫子色に染められているような、そんな感じだ。


 俺の枕に顔をぐりぐりと押しつけし始める。


 枕はタオルじゃないんだから、汚れを拭かないで欲しいものだ。


「というか、何しに来たんだよ、お前は」


「もうちょっとお兄さんの匂いを堪能しにきただけだよ」


 姫子は俺の返答を待たずに、今度はシーツや敷き布団に顔を沈めた。


「……姫子。お前、変になってないか?」


「最近、セナの身体から彼女さんの匂いがして、なんか嫌なの。たまには、お兄さんの匂いで息抜きしないと」


 段々と変になっているのは確かだが、姫子にはやりたいようにやらせておくか。


「ねえ、お兄さん」


「ん?」


「鰯を七輪で焼くと、煙とその臭いで鬼が逃げるんだって」


「鬼? 何の話だ?」


「鬼子は嫌だよね、本当に」


 姫子は何が起こっているのか知っているのか?


 それとも、何も知らないで、誰かから与えられたヒントをそのまま俺に提示しただけなのか?


 姫子に訊いても当然だんまりを決め込むだろうから、自分で調べてどちらなのかを見極めないといけないってところか。


「さて、帰ろっと」


 姫子は颯爽と立ち上がり、俺のベッドを堪能していた事などさらっと忘れたように俺の部屋から当然のように出て行った。


「おにご? どういう意味だ?」



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