第2話 灰色雪のクリスマス
十二月も下旬になった。あと一週間で冬休み。そして、明日にイヴを控えた島には、地味ながらもクリスマスの雰囲気が漂い始めた。商店街の店は、赤と緑のデザインを多用し、店先に小さなツリーが並び、古びたケーキ屋にはクリスマス用のケーキが陳列されるようになる。
「いやー、もうクリスマスかぁ・・・。カッキーは何買うてもらうん?」
「俺はやっぱあれやな」
そう言ってカッキーが答えるのはつい先日発売されたばかりの流行のゲームの名だった。俺も俺も、と純も答えた。
前を行く二人は、ダッフルコートのポケットの中に手を突っ込んで、白い息を吐き出しながら楽しげにクリスマスの話題に花を咲かせていた。
俺は首に巻いたマフラーを締め直す。温暖な瀬戸内海とはいえど、冬は冷える。もう十二月も末なんだ。寒くないのは国内だったら沖縄ぐらいだろう。
不意に視界に入ったのは、祐子の店だった。親父さんとお袋さんとで和菓子屋を営んでいる祐子の家は、節分祭で出す団子と、彼岸の時の餅が旨かった。昔は、よくカッキーや純と遊びに行ったもんだ。
「なぁ、浩平は何もらうん?」
不意に振り返って純が問う。カッキーも振り返って、少し垂れ目でそれでいて意志の強そうな輝きを宿した瞳を瞬いた。
「えっと・・・?」
一瞬、何を問われているのか分からなかった。
すると、純が口を尖らせる。
「聞いてへんかったん?クリスマスに何買うてもらうか、って話やん」
あぁ、さっきの続きね。
納得した俺は、そのことを全く考えていなかったことに気づいた。
そう言えば、親からも何が欲しいのかって聞かれてた気がする。色々と忙しくてすっかり忘れてた。
「全然考えてへんかった・・・。ていうか、もう中三やし、そろそろ逆にこっちが贈らなあかん時期ちゃうん?」
見ると、ぽかんと口を開いたカッキーの純の顔が見えた。
「浩平・・・偉っ」
「マジ?ていうか、そんなんせなあかんの?」
何も買ってへん、と慌て出す二人に、俺は二人の肩を掴んだ。
「いや、別に知らんで?俺ん家は、姉貴がそうやったからやし・・・」
今では東京で一人暮らしをしながら、キャンパスライフを楽しんでいるであろう三つ上の姉貴がプレゼントをもらう側から贈る側になったのは中三のクリスマスだった。だから、俺もそうしなければと思っていたのだけれど。
「やっぱ、浩平ん家は大変やなぁ・・・」
ため息と同時に吐き出した純に、
「家が医者やもんな。そりゃ、大変に決まってるやん」
カッキーが頷いた。
それに俺は苦笑する。
確かに家は、島で唯一の病院ではあるけれど、そこまで厳格な家庭という自覚はない。
むしろ、姉貴が出ていって以降、両親、特に母親がやたらと構ってくる。俺としては、いい加減止めて欲しいんだけど。
「由里さんも頭ええしな」
「優しかったもんな」
優しいもんか。
のんびりと言う純とカッキーに心の中で毒づいた。
医者になれとうるさかった両親に辟易して、自分だけでも安穏な日々を送ろうと島を出ていったあの人が。ろくに手紙も寄越さないあの人が。優しかったのは外向きだけだ。だから、こんな島にも愛想を尽かし、決められた将来への道筋へも捨てて出ていった。
だけど、気づけば自分も姉貴と同じ道を歩もうとしている。クリスマスのことだってそうだ。姉貴がしたから自分もする。
思わず苦笑してしまった。
「ん?」
「どないしたん?」
不思議そうに呟く二人の肩を叩く。
「んなこと言ったら、二人ん家も大変やろ?」
言うと、カッキーと純は顔を見合わせた。
父親はミステリー作家で母親はホラー作家のカッキーと、父親が本土の会社の社長で、母親はベーカリーの店主の純は、どっちも大変な生活をしてるのを知ってる。カッキーは、ほとんど家事をしない親に変わって何から何までしているそうだし、純は、親父さんが単身東京で生活しているから、母子二人で生活してる。
家に帰っても、勉強するぐらいしか考えつかない俺と違って、二人は苦労してるはずだ。
「俺は別に普通やで。料理とか洗濯とかも、大抵は母さんか父さんがやってくれるし」
あ、そうなんや。でも、カッキーが俺たち一般の中学生よりは家事能力が高いのは間違いないんだろうな。
純は、と俺たちが視線を向けると、当の本人はどこか遠くを見つめていた。視線の先は何もない、ただの水平線だ。
「おい、純」
カッキーの呼びかけに、純が驚いたように俺たちを見た。
「あ、ごめん。何やったん?」
「家の話や。お前も大変やなって」
「あ・・・あぁ。まあな」
ちゃんと聞いとけよー、とヘッドロックをかけるカッキーに、痛い痛いと純も笑い声をあげながら歩いていった。
気をつけろよ、と言いかけたとき、背中をドンと押された。
突然道ばたで背後から人を殴るなんて狼藉をはたらく奴は、俺は一人しか知らん。
振り返ると、案の定、詩織だった。その後ろには祐子と上原もいる。
「なぁ」
「あ?」
唐突な呼びかけに首を傾げる。背後で、カッキーと純が立ち止まった振り返ったらしい気配がした。
「明後日のクリスマスの日、あたしの家でパーティーやんねん。来るやろ?」
来れる?ではなく、来るやろ?と聞くあたりが詩織らしい。
俺は背後の二人を見た。
「俺は行く」
カッキーが小さく手を挙げた。
「んじゃ、俺も」
そう言って俺も声をあげる。
「祐子と椎香も来るって。純も来るやろ?」
詩織が俺の影からひょい、と顔を覗かせて純を見た。
一方の純は、困ったように眉尻を下げる。
「や・・・俺はええわ。ほら、詩織ん家もぎょうさんで押し掛けたら迷惑やろ?」
歯切れ悪い純の口調に、俺は違和感を抱く。
いつもなら真っ先に手を挙げそうなのに。
そう思ったのは俺だけでは無かったようで、
「どうしたんだよ、純」
お前らしくもない、と言いたかったんだろうカッキーの横顔に、俺も頷いた。
「だってさ・・・」
「ええから、うちはそんな広くもないけど、狭くもない。ちょっと古いだけや」
胸を張って言い放つ詩織に、俺はまたも苦笑いを浮かべた。
確かに詩織の家は、築五十年以上の木造の家だけれど、それを悪いこととは思ってないみたいだ。前に、古さは家の強さや、と言っていたことを思い出した。
「それに、明日のイヴはあんたの誕生日やろ?それも兼ねて、パーティーやろうや。盛大なメニューにするから」
詩織の家は食堂をやってるので、昔から俺たちメンバーの誕生日は詩織の家で祝うことになっていた。その時は、何か一品を各自で持ち寄ってたりする。
「とにかく、決定。ええな?」
拒否は許さん、とばかりに詰め寄る詩織に、純は気弱な笑みで頷いた。
よし、と詩織は頷くと、祐子と上原の肩を叩いて歩いていった。
「じゃあ、明後日の夜七時、あたしん家ね!」
そうだけ言って走り去る女子三人組を見送って、俺はため息をついた。白く湯気が出る。
「あいつら、ほんまに元気やなぁ・・・」
こんな寒い日に、よくもまあ走ることができるよな。
そう思っているうちに、カッキーの家の前に着いた。まだ比較的新しい二階建ての家では、二階の親父さんとお袋さんの部屋に電気が点いていた。今も仕事の真っ最中らしい。
「んじゃ、また明日」
「おう」
「バーイ」
小さく手を挙げて、別れの合図。
真っ暗な玄関の中にカッキーは消えていった。
ただいまー、と声が聞こえる。
「なぁ、純」
「ん?」
小柄な純が俺を見上げた。黒い瞳の中に星空が映る。
「何か、カッキー変わったと思わへん?」
「思う」
即答。やっぱり、俺だけじゃなかったか。
「それは、やっぱ・・・」
「上原やろうなぁ」
純も気づいてた。
最近、妙にカッキーの視線がどこかで止まっていたり。いつものメンツで喋っていても、上原と話すと照れたように視線を逸らせることがあったり。
本人は気取られてるとは思ってないんだろうけれど、あっさりと分かってしまう。みんな分かってるはずだ、多分。本人が単純だってのもあるけど、それ以上に、ちょっとした変化でも気付くほど、俺たちの仲は深い。
「正味、どうよ?上原」
突然の純の問いかけに、
「ま、普通に可愛いんとちゃうか」
思った感想を素直に話す。
「東京育ちで」
「美人で」
「乱暴じゃなくて」
不意に浮かんだのは詩織の顔。純の言う、乱暴じゃないってのは、詩織っぽくないっつーことなんだろうか。
「カッキーも奥手やなぁ・・・」
さっさとせーへんと、他の奴に取られんで。この場にいないカッキーに忠告でもするかのように純は唇を尖らせた。
気づくと家の前だった。
「ほんじゃ」
「おう」
片手をあげて返事をする。
「なぁ、浩平」
去り際に純はそう言って立ち止まった。
「もう・・・高校やねんな」
そりゃそうだ。もうあと三ヶ月ほどしたら、嫌でも高校生になってしまう。
まぁ、正確には中学生ではなくなるんだけど。
「浩平は島のガッコに行くんやろ?」
「そりゃ・・・な」
今俺が島を出るなんて言い出したら、母親が半狂乱に陥るのは目に見えている。姉が島を出ると言い出したときでさえ、泣いて引き留めたのに。そして、その制止を無視して姉は家を出ていった。
「そっか」
そうだけ呟いた純は、じゃあ、と言うとさっさと走って行ってしまった。翻るマフラーの端が風になびいている。
俺は暗闇の中に消えていく純をしばらく呆然として見送った。
「さびっ・・・」
さすがに冷えるな・・・。
そう思いながらポケットに手を突っ込む。
「あいつ・・・何が言いたかったんや?」
いや、今はそれよりも。
勉強やな、勉強。
んでもって、純の誕生日用のプレゼントも何か買いに行かんといかんし・・・。
考えるだけで忙しく思えてきた俺は、早々に暖かい家の中に逃げ込んだのだった。
「おっそいなぁ・・・」
詩織がそう呟いて、壁に掛かった茶色い時計を見上げた。
祐子と上原が顔を見合わせる。
「あかん・・・腹減って死にそうや」
カッキーが腹を押さえて呻く。
俺はちらりと窓の外を見た。まだ待ち人の姿はない。
「あたし、ちょっと見てくるわ」
不意に詩織が立ち上がった。
「あ・・・んじゃ俺も行く」
純は連絡もなしに遅れてくるような奴じゃない。
立ち上がると、上原が携帯電話を取り出した。
「私、純君の家に電話かけてみる」
「うん。お願い」
詩織と顔を見合わせて、俺たちは外に出た。
吹き抜ける風に身を震わせた。マフラーを置いてきたことを後悔する。
「やっぱ冷える・・・」
詩織も首を竦めて身を抱いている。だが、ついと空を見上げて目を細めた。
「あ、マルカブ」
呟く声に、俺も夜空を見上げた。幾つもの星が、明太子スパゲティの明太子のように散っている。
そう考えて腹が鳴った。
「腹減ったな」
「・・・・・・そう」
呆れたように笑って詩織はもう一度空を見上げた。
「で、マグカップが何だって?」
「マグカップじゃなくて、マルカブ。ペガスス座のアルファ星」
そういや・・・詩織は天文学部員だったか。
「綺麗やね・・・」
「そうやな」
カッキーほどじゃないにしても、空腹で辛い身としては、詩織のように純粋に星空を愛でる気分になれない。
まだかよ、と思った時、上原が出てきた。
「もう家は出たってお母さんが」
言うと同時に、
「ごめんー!」
慣れ親しんだ声が夜闇の向こうからした。同時に荒い息を伴って走ってくる奴がいる。
「純!」
ホッとしたように詩織と大原が息をついた。
純は駆け込んでくると、俺の肩に手を置いて屈んだ。
「わ、悪い・・・。ちょっと色々あって」
「ええから、早く入り」
そう言った詩織の言葉に、俺たちは揃って詩織宅に入った。
畳が敷かれ、掛け軸と壷も置かれた完璧な和室の中で、カッキーが空腹のあまり寝転がって悶絶していた。
「大丈夫か?」
「あかん・・・死にそう」
腹を押さえてカッキーが掠れ声をあげた。
祐子が苦笑する。
「カッキー、ずっとこの調子なんよ」
ごめんな、と純が謝りながら座った。俺たちも卓袱台を囲むようする。
「さっさと食べよ。ほら、運んで」
大皿に盛られたポテトサラダやエビフライや何やらを運んでくる詩織に、慌てて上原と祐子が立ち上がった。
俺も腰を上げて手伝う。
「おっしゃー、飯だ!」
カッキーが狂喜乱舞しそうな勢いで歓声をあげた。
「何か手伝えよなー」
人数分のグラスを抱えながらカッキーに言うと、
「・・・分かったよ」
渋々ながら立ち上がると、上原が運んできた寿司の皿を受け取った。
純と祐子がそれぞれの取り皿を机に置き、詩織が俺の持ってきたグラスにジュースを注いで回る。
「ところで詩織。おっちゃんとおばちゃんは?」
今更のようにカッキーが問うと、詩織は扉の向こうを指さした。
「店。何か、お父さんの知り合いが飲みに来てるらしいんよ」
詩織の家は、昼間は食堂、夜は居酒屋に変わる。それなりに有名な酒もあって、地元では結構人気らしい。
「あ、そうや。これ」
純が持ってきたリュックから袋を取り出す。
「家のバケット。母さんが焼いてくれた」
そういや・・・。
俺も自分の鞄を開けた。
「これ、母さんが持ってけって」
「あ、私も」
「俺も」
「みたらし団子。人数分あるよ」
それぞれ、皿にラップかけたり、パック詰めにしてきたものを机の上に出す。
ただでさえ量が多かった食い物が、さらに華やかになった。
「椎香は祐子の店の団子は初めてやんな。めっちゃ美味しいんやで」
「へぇ・・・そうだんだ。楽しみ」
楽しげに笑う上原に、カッキーが純の持ってきたバケットを指さした。
「純のトコのパンもいけるで。あと、浩平の肉じゃが」
「詩織の作る炒飯も旨いよな」
口々に言う俺たちに、上原は穏やかな笑みを浮かべた。
「みんな凄いなぁ・・・」
詩織がケーキを運んできた。商店街の店のやつだ。
俺とカッキーで蝋燭に火をつけていく。祐子がハッピーバースデーとメリークリスマスの二つの言葉が並んだ板チョコをのせた。
「ほれ、純」
カッキーが純の肩を軽く叩いた。
「一気にいっちゃって」
電気を消す。
蝋燭の火に浮かび上がるお互いの顔を見つめあって、自然と笑った。
「ハッピーバースデー、純!」
そして、
「メリークリスマス!」
クラッカーが鳴る。
同時に純が思いっきり息を吸って、それから火を一気に吹き消した。一瞬の暗闇。すぐに詩織が電気を灯けた。灯籠のような形で、オレンジの電球が入っているやつだ。その暖かな光が部屋いっぱいに広がった。
「さてと」
詩織が座ると同時に俺たちは手を合わせた。カッキーがうずうずと身じろいでいる。
「いっただっきます!」
同時にフォークを持ったカッキーが、純が、詩織が、皿に手を伸ばす。
俺たちも慌てて戦闘参加した。そうじゃないと、食うもんが無くなってしまう。
食事の時間はあっと言う間だった。
次々と皿の上のものを平らげていく。
カッキーや純がよく食うのは知ってたけれど、以外と女子陣も食べることに気づいた。
「おい、詩織。あんまり食うと太るんとちゃうん?」
からかうように言ったカッキーに、
「アホ。店の手伝いで十分な運動してんの」
詩織がカッキーの腕を軽くはたく。その様子を見て上原と祐子が笑った。
純も屈託のない笑みを見せる。だが、その笑みが伏せられた瞬間、暗いものに変わった。
不審に思って純を見ると、見上げた純と視線が交錯した。同時にその瞳が揺れる。
「浩平?」
首を傾げられる。
どうしたの、と問う声。だけど、聞きたいのはこっちだ。
「お前こそ、どうした?」
「え、俺?」
何でもないって。
手をひらひらと前で振った純は、笑みを深める。だが、やっぱりそれが少し無理のある笑顔のようで。
「あ、そうや」
カッキーたちが鞄の元に寄っていく中、俺はまだモヤモヤとした思いを抱きながらも前を向いた。
「はい、純」
カッキーが差し出したのは歪んだ包装紙に包まれた箱だった。包み方はお世辞にも綺麗とは言い難い。多分、カッキーが自分で包んだんだろう。それでも、面倒くさがりのカッキーが自分で包んだだけども気持ちがこもってるってもんだ。
「はい」
「私も」
「これはあたしから」
女子三人は綺麗にラッピングされた箱。リボンやコサージュでアレンジしてあるのが三人らしい。
俺も鞄から出した袋を渡す。この中だと、一番無骨な気もしないではないが・・・ま、いいよな。
「ほい、純。ハピバっつーことで」
全員からのプレゼントを受け取って、純ははにかんだ笑みを見せた。
「みんな、サンキューな」
次いで、俺たちはもう一個のプレゼントを出した。今度は純も用意する。
「じゃ、恒例のクリスマスプレゼント交換ってことで」
それぞれのものを机に置くと、詩織が適当に一から六まで書いてある紙を上に乗せた。
「ジャンケンで勝った人から順番に、一番から取っていくっていう、いつものでええやんね?」
揃って頷く。
カッキーがシャツの袖を捲った。どうやら本気みたいだ。別にジャンケン頑張ったって、何が当たるかは最後まで分かんねーのにな。
「自分のが当たったらやり直しね」
手を出す。
「ジャンケン」
声が重なる。
カッキーと祐子はチョキを、詩織と純はグーを多用する癖がある。上原はまだ知んねぇけど、ここは確実に勝つためにもグーを選択するのが得策か・・・って、俺もいつのまにか本気(マジ)になってんじゃん。
「ポン!」
出される六本の手。
詩織の手は予想通りグーだった。ただ、意外だったのはそれ以外の奴らもグーだったことだ。
そして、その中で唯一のパー。
「スッゲー、純ついてるやん!」
ラッキー、と純が笑った。どうやら、今日の運は純に向いているようだ。
「はい、純」
詩織が箱を渡す。一番は・・・祐子のだ。
「さ、あたしらも残りのジャンケンしよ」
結局、俺は六番。おかしい。全員の癖を考えた上でのチョイスだったのに。
それぞれに渡されるプレゼント。
俺が受け取ったのは詩織のだった。
「何なんや・・・これは」
出てきたのは底の抜けた球。そして、細かく打ち込まれた穴という穴。何だ・・・これは。笊か?
「あ、それプラネタリウム。モーターに電池つないで、中に電球入れたらどこでも見れるで」
ふーん、こんなもん作れんだな。まぁ、何気にテクいからな、この女。
「天文学部はこんなことやってんのか?」
「まさか。普段は天体観測ぐらい。これは単なるあたしの趣味」
ふーん。
そう思ったとき、
「そうや、写真撮ろ!折角やし」
祐子がカメラを出してきた。
そして、上原と詩織に両サイドから、純を中心に真ん中に押し込められた。
カメラのフラッシュが光る。
「ね、高校入ったらみんなはどうすんの?」
フレームを覗きながら祐子が問う。
その瞬間、微妙な空気に変わった気がしたのは俺だけだろうか。
上原が顔を俯かせ、詩織が窓の外を見、純がカメラから視線を外した。
カッキーと祐子だけが戸惑ったように視線を動かす。
「あの・・・えっと・・・」
祐子が言い繕おうと声を出したとき、
「ごめん、俺やっぱ帰る!」
唐突に純がそう叫ぶと、荷物をひっつかんで飛び出して行った。
「おい、純!」
カッキーが叫ぶ。
弾かれたように詩織と祐子が立ち上がった。
「浩平!」
カッキーの声と同時に俺も純の後を追って飛び出していた。
冷たい海風が吹き寄せてくる。そこで、コートを忘れてきたことに気づいたが、そんなことは今はどうでもいい。
純は商店街の外に走っていった。
隣にはカッキー。後ろで祐子と上原のやってくる気配もある。詩織が出かけてくると親に告げているのが聞こえた。
「浩平君、先に行って!」
俺が後ろを気にしていたのに気づいたのか、祐子が叫んだ。
カッキーが走る速度を上げた。俺も後ろに一度頷いてから全力疾走にギアチェンジした。
風が耳元でうなる。潮の香りが鼻をついた。
カッキーの荒い息がする。お互い、食ったばかりでしんどい。けど、それは純も同じはず。
「カッキー・・・」
何とか吐き出した声で呼びかける。
「行くで」
「・・・おう」
カッキーの声も荒い。それを聞き届けたと同時に、俺たちは前を走る小柄な背中を追って足を前に出し続けた。
神社の横を抜けて、古い家の横を駆け抜ける。
純は小さな山の登山道に入っていった。山といっても二十分もあれば俺たちなら平気で上れるような山だ。だけど、こんな夜に上るのは危険すぎる。
「純!」
カッキーが叫ぶ。
だが、純はそれすら聞こえていないのか真っ直ぐに山を駆け上がっていった。
小さい頃はよく上った山は、途中にいくつも沢があって、小さな丸太の橋がかかっている。木で作られた案内は、朽ちかけてボロボロだ。木々の間に背の低い植物が密生して、その下には蛇だの蛙だのトカゲだの、色々な生き物が棲んでいる。
暗闇でも道を間違うことが無いほどに慣れ親しんだ山の中を、俺たちは走り続けていた。
闇になれた目が純の姿を捉える。少しずつその背中が近づいてくるのを感じて、俺は最後の底力を振り絞ってダッシュした。
木が抜け、星の輝く空が開けた。もうあるのは展望台とは名ばかりの開けた高台ぐらいだ。
純の吐息が聞こえる。同時に手を伸ばす。純の手はあっさりと掴まえられた。
なおも逃げようとする手を強引に引き寄せる。
「こう・・・へい・・・」
「・・・あ?」
自分でも不機嫌になっているのは分かる。そりゃそうだ、詩織の家からここまで走らされたんだから。
「足・・・速・・・」
「アホか・・・サッカー部員なめんなよ」
切れ切れに返す。急な全力疾走は思ったよりも負担が大きかったようだ。
「俺も・・・サッカー部やねんけど」
「そうやったな」
カッキーが追いついてきた。
アホー!とカラスの鳴き真似かと思うような声で純の背を叩いた。それが思いの外強かったらしく、パシンと小気味良い音がした。
「何でいきなり逃げんねん!」
「・・・ごめん」
そうまで言って、純が俺に顔を向けた。
「いい加減離してぇさ。手、痛いやん。もう・・・逃げへんから」
あ・・・そういえば。
手を離す。そこだけ赤くなっていた。
「どうしたんや、突然」
随分柔らかくなった声でカッキーが問う。夜風で少し落ち着いたみたいだ。
「・・・うん」
純はそう言って眼下に町を見渡す展望台の柵に寄った。一瞬、飛び降りでもするつもりじゃ、なんてバカバカしい考えに胸をひやりとさせたが、そうじゃなかった。
「ちょっと・・・高校のこと考えたらしんどくなって」
「高校?」
首を捻る俺の横で、カッキーがハッとした顔をした。
「お前・・・まさか島の高校上がるんもヤバいって先生に言われたんかっ?!このままやと、行ける高校ないでって・・・」
「アホか。カッキーと一緒にすんな」
思わず呟いてしまった。
同時にカッキーが握り拳で肩をどついてきた。
「俺もそこまでは言われてへんわいっ!」
多少なりは言われたらしい。自分でもそのことに気づいたのか、続く攻撃を手で受け止める俺と、怒り顔で俺を見上げるカッキーは同時に吹き出した。そのまま純にちらりと視線を動かした。だが、
「俺・・・みんなと一緒の学校に行けへんかもしれん」
え、と聞こえた声は俺とカッキーとどっちのものだったのだろうか。
顔を下に向けた純の声が小さく聞こえる。
「ど、どういうことやねん・・・」
驚いた声のカッキーに、純は一度俺たちを見て、それからまた下を向いた。
そのとき、何かの滴が跳ねて月光に輝く。
「親が・・・離婚するんやって。もうおかんが限界やねんて。二人とも、電話してても喧嘩ばっかしよるし」
純の親父さんは東京にいる。それを俺たちは一種の単身赴任だと思っていた。
だけど違ったんだ。あれは、言うところの別居状態だったんだろう。ただ、社長という仕事柄、会社を離れることができないから仕方なく本土にいるお父さん、という印象が俺たちの間にあった。
「親父が、離婚が成立したら一緒に来いって。あっちの方が学校も多いし、将来のためにもええって言うねん。おかんもその方がええって言い出すし」
後半は途切れ途切れで聞きづらかった。
だけど、聞かないといけない。これが、最近純の表情が優れなかった理由に違いないのだから。
「そう考えたら、みんなとおるんが辛くて・・・。なぁ、浩平、カッキー。俺、どないしたらええんやと思う?」
救いを求めるような、答えを請うようなその視線に、俺は息を詰まらせた。喘息にも似た息苦しさが喉を締め付ける。
カッキーは純の向こうの町を睨みつけるように目を細めた。
「俺はみんなと一緒に高校に行きたい。やけど、俺にはどうにもできひん」
そう、大人はいつもそうだ。
妙に納得してしまう自分に気づく。
大人はいつもそうなんだ。自分の理想とする子にするために、子供の意志などお構いなしに何でもかんでも押しつける。建前ではお前のためだ、なんか言っておきながら、自分の果たせなかった夢のために子供を操り人形のように装わせようとする。
「離婚なんかするんやったら・・・初めっから結婚すんなって思うねん」
自分たちの都合で物事を決められて、それが周囲に及ぼす影響を何も考えちゃいない。
「もう・・・何か嫌なんや」
俺もだよ、純。
心の中で頷く。
目元を何度も服の袖で拭う純を見て、それに心底同情できた。
冴え冴えとした感情が胸を包み込む。冬の凍てついた冷気にも似た思いが心を嵐のように吹き荒れる。
だから、
「アホ」
背後から響く声に鋭い衝撃を感じた。外界から声が届いてくるような不思議な感覚。
振り返ると詩織だった。肩で息をして、辛そうに立っている。見ると、ヒールの高い靴を履いていた。その足でここまで上ってきたのだ。
「嫌々言うて何になんねん。どっちにしても選ばなあかんのやったら、決めればいいだけの話やろ」
おい、とカッキーが口を挟む。
詩織がカッキーを見た。詩織に劣らない鋭い視線。だが、詩織はそれを正面から受け止めた。
「何?」
「純の気持ち考えたれよ。親が離婚するんやで」
「だから何なんよ。純がしてんのはその選択から逃げてるだけやろ」
純がビクッと震えた。それを庇うようにカッキーが詩織の正面に立った。
「そやからって・・・その言い方はないやろ!」
「どんな言い方してもしても、純は何も決めへんやろ。周りに流されるだけや。そんなん、ずっと周りに迷惑かけ続けるだけ」
また二人が睨み合った。
「どんなに抗がっても・・・流されるだけや」
声がした。それが自分の口から出ていることに気づくのには少しかかった。
詩織が怪訝な顔をする。
「何、浩平?」
「詩織はそんなこと言うけど・・・大人の決めたことに逆らうのは無理や。俺らには何の力も無いんやで」
詩織は気づいてないだけだ。どんなに強い意志を持っていても、高い理想があっても、それは大人の軽い力によってあっさりと折られ、崩され、ねじ曲げられる。
すっげえガキの頃、俺は医者に対して素直な憧れを持っていた。人を救うあの仕事に。だけど、それは。あれも、結局は親が語る医者について、一方的な理想を抱いていただけに過ぎない。
人を救うのなら、日々医者になれと呪文のように告げられる日から我が子を救い出せないのか。
「・・・意外」
「あ?」
「浩平がそんなこと言うんやな」
そう言って笑う詩織は、諦めと落胆の入り交じった表情をしていた。
だがすぐに、まあええわ、と切り捨てて、詩織は純を見た。
「あんた、一度でも自分の意志を伝えたんか?」
「言うてるやん、純は・・・」
「カッキーは黙ってて」
きっぱりと言われ、カッキーはムッとしたように口を開きかけた。
俺はそれを制する。
「浩平!」
「ええから」
俺たちじゃ駄目だ。
夜の山道をあの靴で駆け上がってきた、大人に逆らえないと伝えた俺に落胆した顔をした、俺たちとは違う考えの、詩織じゃないと駄目だ。誰よりも強くて、真っ直ぐで、普通の少女なんかとは違う、特別製の少女である詩織じゃないと。
「あんたは離婚させへんことだけを考えて、言ってきたんやろ。でも、それは畑違いやで。親の意志はあんたが首を突っ込んでいいここと違う。あんたがせなあかんのは、あんたがこの先どうしたいかを伝えることや」
純が叱られた時のように身を縮める。その肩を軽く叩いて詩織が歩きだした。
「カッキー」
「・・・あんだよ」
さっき言われたことをまだ根に持ってるのか、不機嫌そうに応じたカッキーに詩織が笑いかける。
「ごめん、ちょい言い過ぎた」
「・・・おう」
毒気が抜かれたようにカッキーが返して、山を下りようと純を促す。
不意に、展望台ゴミ箱のの陰から祐子と上原が姿を現した。
「別に盗み聞きしたわけとはちゃうからね」
そう弁解する祐子に、分かってる、と純も頷いて目元を擦った。少し赤くなった目も夜では目立たない。
「俺、今日母さんと話してみる」
純が呟いた。
「俺はやっぱりみんなと一緒に学校に行きたい」
一瞬、みんなが黙り込んだ。だが、次の瞬間にはカッキーが純に飛びつく。
「おっしゃ、頑張ろうな」
そう言ったカッキーに、
「それやったら、カッキーは勉強やね」
すかさずツッコんだ祐子に俺たちは笑った。
カッキーが純の背中を押して歩いていく。その横には祐子。
上原は一度、展望台からの町を見下ろして、すぐに三人の後を追って歩いて行った。
「やっぱ靴。ちゃんと履いてこれば良かった。これ痛い」
「んな高いの履いてくっからだろ」
「しゃあないやん。とっさに目に入ったんがこれやったんやから」
唇を尖らせる詩織に俺は苦笑する。こいつも結構焦ってたらしい。
「やっぱこの島は星が綺麗やわ」
詩織が空を見上げる。俺もつられて空を見た。
「カシオペア座」
指さす先には星の群。その、どの星がカシオペア座なのかは知らん。でも、形は分かる。あのWみたいな形のやつだ。
「あと三ヶ月やね」
卒業まで。
ぽつりと呟かれた言葉。そこで初めて、もうそんなになるのかと気づく。
「三ヶ月・・・か」
何をそんなに三ヶ月に拘るんだ。
どうせ同じ高校になるのに。
「やっぱり、自分でちゃんと決めなあかんねんな」
独り言のように詩織が言う。多分、純に向けられた言葉だ。当の本人はずっと先でカッキーに押されたり引かれたりでよろけているが。
詩織が歩き出す。
その背中に向けて言葉を吐き出した。
「俺たちが何を決めても、結局最後は大人なのにな」
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