瀬戸内センチメンタル
莢御稜
第1話 白兎の夢
冬の寒空の下、俺は飛んでいったボールを探して校舎の陰になった所まで駆けていた。
「ったく、あのバカ」
コントロールが最悪なミッドフィルダーの顔を思い浮かべて俺は毒づく。冬場でただでさえ寒いのに、日陰とくれば尚更だ。ジャージの袖が指先を隠すまで伸ばして、俺はさっさとその場を離れようとボールを探す。
冬なのにしぶとく伸びた雑草のせいで、よく見えない。かき分けながら探していると、校舎を囲む塀の側に植えられた楓の木の根本にボールが落ちているのを見つけた。
「どこまで飛ばしてんだよ・・・」
ぶつくさと文句を言って、駆け寄る。それをつま先ですくい上げるようにして胸に持つと、俺は来た道を戻ろうと振り返った。
その時、校舎の陰から出てくる女の子に俺は気がついた。向こうも気づいたようで軽く会釈してくれる。ドキリと胸が鳴ったのは気のせいではないはずだ。
「カッキー、何してるの?」
問いかける声に、俺は手に持ったボールを見せた。
「純がまたぶっ飛ばしたんや。あいつ、コントロール悪いくせにロングパスしようとするから」
「そっか、大変だね。もう引退したのに、後輩指導もしてるなんて」
手に何か大きな袋を持った少女、上原はそう言って気持ちのよい笑い声をあげた。
「別にそんな大したもんちゃうって。ただ、俺らが入らんと、十一人にならんから、練習試合もろくにできんくなんねん」
「そっか。来年は入るといいね、新入部員」
そやな、と俺は半ば切望するように呟いた。どうか、部員が十一人を越えるように、と。
瀬戸内海に浮かぶ小さな島。そこにある唯一の中学校では、三学年を合わせても生徒は百人足らず。学年にクラスは一つしかない。三年間、同じメンツと過ごしていると、気楽で楽しいのだけれど、少し刺激に欠けるところはある。
だから、東京から転校してきた上原は、十二月という中途半端な時期という事もあって、一躍クラスの人気者になった。
だけど、上原の周囲は数少ない八人の女子が取り囲んで楽しげに話していたため、俺たち男連中はほとんど口をきくこともできないまま、その様子を遠巻きに眺めていた。
最初に見たとき、可愛いという感情はもちろん抱いた。少し幼さの残る顔、笑うとできるえくぼや、垂れ下がる目尻はホッとさせる温かみがある。
けど、時々浮かべる何か痛みを堪えるような表情が、俺は不思議だった。
だけど、話しかけることもできず、最初に一週間は過ぎていった。
それに変化があったのは、それから少ししてからだった。
上原を取り囲んでいた女子たちも、徐々に元のように戻りだした。しかし、決して派閥的なものを作り出したわけではなく、ただ何となく仲がいいグループが出来ていっただけだ。
上原は橘詩織と樋口祐子という二人の女子と一緒にいることが多くなった。詩織も祐子も、俺の近所ということで、上原を引き連れてやってくることもあった。昼飯を一緒に食うこともある。
十二月も半ばを過ぎたある日のことだった。
「ねぇ、カッキー」
授業終わりで疲れた脳を休めようと、目を閉じていると、不意に後ろから髪を引っ張られて、俺は椅子にもたれながら仰け反った。
「何?」
逆さまに見える純の童顔を見上げて問うと、
「浩平が数学教えてくれるって。浩平ん家でやるけど、来るやろ?」
小首を傾げて尋ねる純に、俺は少し考えてから頷いた。
「俺も数学ヤバいしな」
ちらりと隣の男を伺った。目つきの悪いそいつは、口に紙パックの牛乳をくわえながら俺を見返して、
「カッキー、こないだの進路指導で散々言われたって言うてたもんな」
そう言ってニヤッと笑みを浮かべた。
「だって、あのジジイ、このままじゃ島の高校もヤバいとか言い出すしよ・・・」
お前大丈夫か、と平然と言いやがった担任の顔を思い浮かべる。
「まぁ、カッキーは島内でC判定やもんな。志望校の欄に灘とか洛南とか書いたら判定不可って出るんちゃう?」
「浩平!それはいくらなんでもカッキーに失礼やろ。Z判定かもしれへんけどさぁ・・・」
いまいちフォローになってるのか分からない純の言葉に、浩平は広い肩を竦めた。
「まぁ、ええわ。俺としてもお前らと高校に行けへんくなんのは困るし、協力したる」
何だかんだ言っても、浩平は面倒見がいいんだ。困ってる奴を放っておけない兄貴肌なのかもしれない。
純が急に立ち上がった。
「わぁー。サンキュー、浩平!大好き、愛してる!」
飛びついてくる純の低い頭を押さえて、
「キモいから止めぇ」
呆れたように浩平は俺を見た。
「カッキーはどこやる?関数か?三平方か?」
「えっと・・・んじゃ、三平方」
大がつくほど嫌いな図形を思い浮かべて、俺はため息を吐き出す。
「やったら、俺ん家で待ってる。さっさと来いよ」
「はーい」
元気よく返事した純の横で、
「頼んます」
俺も呟くように言った。
「へぇー、あんたたちが真面目に勉強するなんて。やっぱ、人間追いつめられると本気になるんやね」
そう言って、前の席から振り返った目力の強い女は俺に好奇の目を向けてきた。詩織だ。その後ろでは裕子が控えめに笑っている。
「んだよ・・・」
言うと、髪を翻して詩織は俺に顔を近づけて、
「だって、あんたバカやし」
「うっせぇ・・・」
語尾が小さくなってしまうのは、やはりそれが否定できないからか。
「純も大丈夫なん?カッキーほどじゃないにしても、あんたも結構ヤバいんやろ?」
おい、と突っ込みたくなるが、事実は事実なので俺は仕方なく口を噤んだ。
「やから浩平に教えてもらうんやんか。言っとくけど、浩平の方が詩織より頭いいんやで」
自分のことのように胸を張った純に、詩織は微かに肩を竦めて頷いた。
「それは認める。あたしもそれなりに成績には自信あるけど、浩平には敵わへんわ」
まぁ、確かにそうだよな。
頭の良さでは浩平は多分、このクラス内で一位だ。詩織も成績優秀だけど、浩平はそれを上回る。どっちにしても俺には遙か上の人間なんだけども。
「でも何か、あんたたちだけが勉強してんのも腹立つな。祐子、椎香。あたしらもやらへん?」
「いいよ」
「うん」
仲良く頷くのは祐子と上原。今では上原もすっかり馴染んでいる。その点、女子の適応能力ってスゲーよな。
「ねぇ・・・」
不意に上原が口を開いた。ポニーテールが揺れる。
「みんなは幼なじみなんだよね?」
「まあね」
俺たちは自然と互いを見る。純のくりくりとよく動く瞳が、祐子の穏やかな光を湛えた瞳孔が、詩織のやたらとデカい目が、浩平の鋭い眼が、そして、俺のも。それぞれの視線が複雑に絡まり合った。
「まぁ、ずっと同じ島にいるわけだしね」
「私たち、家も近所だから」
島の小さな商店街に住む俺たちは、本当にちっこいガキの頃から一緒だった。幼稚園や保育園なんて無かったけれど、お互いの家で俺たちの見守りをするシステムは出来上がっていた。それを、東京の会社で社長をしている純の親父さんは昔のいい制度だって言ってたっけ。
小学校は隣の島の学校に通っていた。そこでも、俺たちはもちろん一緒だったわけだ。
「いいなぁ・・・」
ぽつりと呟いた上原の言葉に、純が歯を見せて笑った。
「やろ?!俺たち、生まれたときからほぼ一緒やで。もう家族みたいなもんやしな」
随分と極端な意見だが、誰も反論しないのはそれがあながち間違っていないという意志の現れなのかもしれない。
「上原は幼なじみとかいないの?」
純が問うと、彼女は困ったような笑顔を浮かべて首を傾げた。
「私、ずっとマンションに住んでたから、いないんだよね」
な・・・マンション!
そう思ったのは俺だけじゃなかったみたいだ。
純も祐子も、普段は東京話に興味なさげな浩平でさえ目を見開いていた。
「上原ってマンションに住んでたん?」
「スゲー」
「てか、マンションとかマジであるんや。東京ヤベぇ」
思わずにじり寄った俺たちに、上原は苦笑いを浮かべながら、手をあげて、まぁまぁ、とでも言うように俺たちを制した。
「そんなこと言っても、そんな大きいとこじゃないし。それより、私はこっちの家の方がスゴいと思うよ。すごく懐かしい気がする」
そんなこと言われても、俺たちからしてみれば時代の最先端を行く東京の方が遙かに輝かしく見えてしまう。当然だよな。こんな古めかしい島に魅力は感じない。
俺たちが一斉に感嘆する中で、詩織だけは無感動な顔で俺たちを見つめていた。いつもなら、真っ先に会話に飛びつくのに。変だよな・・・。
そう思ったとき、音の割れたチャイムが鳴った。
詩織はくるりと元の体勢に戻り、純は慌てて自分の席に駆けだし、浩平は俺の隣で自席の引き出しの中を探り始め、祐子は詩織と上原に笑いかけて戻っていった。
俺は引き出しの中をのぞき込んで国語の教科書とノートを探しながら、ちらりと上原を見やった。
窓の外を見つめていた彼女の横顔に、不意に暗い影を落ちたように見えたのは気のせいだったのだろうか。
その表情が、妙に印象的で、俺は上原が自分の席に歩いていくのを呆然と見送っていた。
気づけば、担任教師が入ってきていた。それすら気づかないほど、俺は上原を視線で追っていたんだ。
それからというもの、彼女の存在が俺の中で、少しずつ大きくなっていった。
「上原は・・・生物部やったっけ?」
冬空の下、寒さに身を縮めて俺は上原に聞く。
「うん。部員は三人なんだ」
だから大変、と呟いて上原は歩きだした。手に持った袋は餌か何か何だろう。かなりの重さに違いない。抱えあげられたそれは、華奢な上原の体をふらつかせている。
気づいたら呟いてた。
「持とか?」
え?
驚いたように俺の顔を見た上原は、すぐに首を振って笑う。
「悪いよ。部活の途中なんでしょ?それに重たいし・・・」
重たいなら一石二鳥じゃん。
「スゴいね、カッキー。力持ちじゃん」
「ま、まーな」
そんな会話が脳内で再生される。
人を気遣えて、さらに腕力あるって上原に思わせる、いわばイイ男アピールする絶好のチャンスなのだ。
何でそんなこと考えてるのか、って思う。だけど、そんな理由、簡単だ。
分かってる。
「いいって。貸してみ?」
ボールを小脇に抱え、上原から袋を受け取った。あ、結構重い。それに何かゴツゴツしてる。
何とか抱えあげて、上原に笑いかける。
「スゴい。良かったぁ、ホントはちょっと辛かったんだよね」
そう言って笑った顔に心臓が高鳴ったり。
もうクリスマスだね、と呟く時に微かに尖る口元に見とれたり。
気づいてる。分かってるさ。
けど、それをどうにかするような勇気が俺には無くて。
「ほい」
「ありがと」
毎日、何か手助けが出来たら、と思って。彼女のポイントの積み上げがいつか何かになる、なんて下らない妄想をしていたり。
「みんな寒そう」
上原はウサギ小屋の鍵を開けて、隅で縮こまっていたウサギたちの背を撫でた。
「上原って動物好きなんや」
「うん。猫とか犬とか可愛いでしょ?」
その問いに曖昧な返事を返した。正直なところ、どっちも好きじゃない。猫には昔引っかかれた記憶があるし、犬は小さい頃、大型犬に飛び乗られて死にそうな思いをした。
「私ね、将来は動物に関われる仕事がしたいんだ」
そう言った声が僅かに陰った気がして視線を落とす。
ウサギを抱き上げて暖めるように胸に抱いた上原の表情は、やはり暗かった。あの日と同じ。
「カッキーは何かしたいことあるの?」
不意に問われて俺は戸惑った。
将来の夢。
担任からも言われた。何かやりたいことがあれば、それに向かって一直線に駆ける力が出る。だから、何になりたいのかよく考えろって。
だけど、そんなもん、すぐに思いつくもんちゃうやろ、って思ったり。大体、俺たちはまだ中学生なんだ。自分の将来を思い描ける奴なんて何人いる?
浩平は両親の跡を継いで医者になるって言っていた。詩織は薬関係に興味があるそうだ。だけど、それってあいつらが特別なんだよな。
俺は別に普通だ。将来なんて、まだ早いんだ。
「何か、全然決まってへん。スゲーよな、上原は。俺なんか高校いけるかすらヤバいって言われてんのに」
「大丈夫だよ。カッキー、やる時はやってくれそうだし」
何て事無い、ただの誉め言葉なのに、それがとても嬉しくて。俺が何でこんなに嬉しくなるのか。理由は本当に簡単なんだ。
最初から上原にこんな感情を抱いていたわけじゃない。最初は単なる東京から来た美人の転校生って程度だった。
いつからだろう。やっぱり、あの瞬間。上原の悲しげな表情を見たとき、在り来たりでバカバカしいと思うかもしれないけれど、側にいたいって、そう思った。
「あ、ごめん。チョビにあげる人参取ってくれない?その袋の中のやつ」
不意に頼まれて、俺は置いてあった袋を開いた。あのゴツゴツした何かは人参だったのか。
「おばあちゃんの畑で取ったんだ。収穫なんてはじめてやったよ」
ミミズが出てきたときはびっくりしたなぁ・・・、と呟きながら、上原は人参を無造作に割った。パキッと小気味良い音がする。
「はい、チョビちゃん。ご飯だよー」
腕の中のウサギにそう言って人参の欠片を見せると、茶と白の斑のウサギはもそもそと口に入れた。その背中を愛おしそうに撫でる姿に俺は目を細めた。
いっそのことあのウサギと変わってやりてぇ、なんて思ったのは一瞬だ。考えて気恥ずかしくなる。
「カッキー、シロにもご飯あげてくれる?」
ウサギ小屋の中を見回して、シロとおぼしきウサギを見つけた。本当に名前の通り真っ白なやつだった。
「このまま・・・やったらあかんねんな?」
「うん。あんまり大きいと食べにくいからね」
サッカーボールを脇に置いて、大きな人参を割る。あっと・・・意外と力いるんや。
何とか砕いたものをそいつの前に見せると、縮こまっていたそいつは俊敏な動きで飛びかかってきた。
「うおっ・・・」
飛び退くと、なおもシロというウサギはジャンプを繰り返す。
「手の中に入れてあげて。そしたら大人しく食べてくれるから」
言われた通り、手で器を作り目の前に見せると、シロは俺の手の中に顔を突っ込んできた。
餌をやってみて気付いた。ウサギは思ったより口が下にある。何となく、鼻のすぐ下にあるように思うけれど、そうでもない。口と鼻じゃ結構間がある。
「上原が毎日餌やってんの?」
「まぁ、そうかな。水槽の魚たちは二年生の子が育ててくれてるし、鳥小屋はもう一人の二年生に頼んでるの。で、私はこのウサギたちの面倒を見ることになってるんだ」
上原の持つ人参に寄せられたのか、ウサギたちが次々と集まって来た。
それを全部抱き寄せた上原は、胸にふかふかとした雪玉を持っているようにも見える。
「ウサギってね、臆病なんだよ。ちょっと勢いよく近づいただけでも逃げちゃうの。だから、カッキーてスゴいよね。私でも、シロが飛びついてくれようになるのに一週間もかかったのに」
褒めてくれてる。そのはずなのに。
上原は寂しそうにウサギの背を撫でた。
「私ね、動物関係の仕事に就きたいの。どんな形であっても、動物を助けたりできるような。でも、無理」
「何で?」
今からなら十分間に合う。それに、好きなものなんだろう?
「だって・・・うん」
何を考えたのか、一人納得したように上原は頷いた。
「とにかく無理なの」
上原の言葉には、どこか強引で押さえつけるような響きがった。
「ねぇ、カッキー」
「ん?」
不意に呼ばれて振り返る。
「獣医の条件って何だと思う?」
聞いておきながら。上原はそれだけ言うと、空になった袋を持ってウサギ小屋を飛び出していった。
俺はそれを呆然と見送るしかなかった。
「何やねん・・・一体」
呟く俺の足元にウサギが数匹集まって来た。
「おい、カッキー!」
不意に声がした。
金網の向こうに見慣れた色黒の顔が見える。
「・・・浩平か」
「何してんねん、ウサギ小屋の中で。練習中に腹減って、食ったろうとか思ったんとちゃうやろうな?」
茶化すような浩平の言葉に、
「アホ。んなわけないやろ・・・」
小さな声で反論することしかできなかった。
「なぁ、浩平」
「あ?」
頭を屈めてウサギ小屋の扉を開けた浩平は、首を傾げた。
俺の足元にいたウサギたちが、浩平から離れるように壁際に逃げていく。
「何だと思う?」
あの表情(かお)の理由は。
そう口にする前に後頭部をはたかれた。
「ええから、さっさと戻って来いよ。遠くに蹴ったせいで、ボール取りに行ったカッキーが泣いてるかもしれへん、って純がオロオロしとったで。監督も、垣内はどこ行ったんやぁ、言うて探してはったし」
「泣いてへんわい」
浩平の腹に軽く拳を入れてみる。すぐに硬いものに押し返された。相変わらず、腹筋硬ぇ・・・。
「行くで」
「へいへい」
先に出ていった浩平に続いて小屋を出る。鍵を下して、閉まっているのを確認してからボールを抱えて浩平に並んだ。
「なぁ、浩平」
「何や」
「将来って分からんよなぁ・・・」
きょとんとした顔で見下ろされる。ったく、デカいやつは嫌いだ。自然と見下されてる気がする。
「何言ってるんや。カッキーらしくもないこと言って」
俺らしいって何やねんとか思いながらも、俺は空を見上げた。
冬なのにな。
冬なのに雲一つ無い、良い天気だった。
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