一次帰国

 青山の伊能中本社ビルの前で伊刈は人待ちしていた。日本のオフィスビルは地上階にテナントを入れないので夜は寂しくなる。それでなくても夏休みが終りに近く、街全体が遊び疲れたといった風情だ。手を振りながら外苑前駅の階段を上がってきたのは一時帰国した大西敦子だった。以前の敦子が持っていた気品をあえて封印するかのように色気のないブロークンジーンズに着古した無地のTシャツという姿だった。

 「あたし変わった?」伊刈の心を見透かしたように敦子が言った。

 「同じだよ」そうは言ったものの一目で変わったなと思っていた。トレードマークだった伊達眼鏡を外したせいで浅黒く日焼けしたスッピンの肌のかさつきが露わになり、それがひどく野生的だった。それも魅力的でないことはなかったが違和感はぬぐえなかった。

 「ムリしなくていいよ、最近いつもこんなだからね」

 「かっこよくなったよ」

 敦子の学生時代の先輩がやっているという青山霊園近くの小さなスパニッシュバル風のカフェバーに彼女の先導で向った。間口の割に奥行きがある店で、道路沿いにテラス席、店内に入ると左手にカウンターバー、右手がカフェバー、奥がコースメニューもある本格的なレストランになっていた。漆喰の壁に直接描いたシャガール風の壁画がいかにも女性的な趣味だった。敦子はいったん店内でオーナーらしい女性に挨拶してからテラスの一番入口寄りの席に戻った。

 「ここは生ハムがおいしいの。ハモン・セラーノとベジョータ(ハモン・イベリコ・デ・ベジョータ)があるわ。両方頼んでみようね。あと自家製のパンがあるわ。あたしだいたいここへ来たらハモンとポテトパンしか頼まない。でもそれだけじゃ足らないよね。ここはタパスもピンチョも本格的よ。あ、それからワインはお任せでいいよね。白のほうがきっとおいしいと思う。先輩はソムリエの資格持ってるのよ」

 「任せた」赤が飲みたかったが伊刈は逆らわなかった

 敦子は自分からまた席を立って注文に向かった。すぐにオーナーが器用にワイングラス二脚とボトルを片手で持ってきて手慣れた仕草でコルク栓を抜いた。

 「しばらく日本にいるの?」

 「来週にはベトナムに発つの」

 「ベトナム?」

 「いまアジアで一番経済発展が急な国だから環境もいろいろあるのよ。ベトナムのGDPは日本の五十分の一、一人当たりGDPはたった千ドルなのにセメント出荷高は日本と同じ。これってすごくない」

 「うんすごいね」

 「ベトナムの仕事が終わったらナイジェリアに戻るつもり。今、活動拠点はナイジェリアなのよ」

 「コスモポリタンになったんだ」

 「だってスウェーデンには三か月しかいなかったもの」

 「ベトナムには一人?」

 「フランス人の活動家と一緒なの。彼がベトナムに行く前に北海道を見たいって言うから帰国したの。同じアジアだから近いと思ってるのね。全然遠いのにね。あ、誤解しないでね、仕事のパートナーだからね」

 「彼はどこ?」

 「知床に行ったわ」

 「一緒に行かなかったんだ」

 「一人の方がいいらしいわ。外国人用の安いユースとかに泊まるからね」

 「若いんだ」

 「伊刈さんより上よ」

 敦子のペースで会話が進むうちに、ポテトパン、オリーブオイル、生ハムの盛り合わせが届き、白ワインが注ぎ足された。敦子はパンにオリーブオイルをたっぷり浸しておいしそうに食べた。伊刈はしょっぱいベジョータをつまみにワインを飲んだ。オーナーお勧めのイタリア産白ワインは辛口で、吟醸酒のような甘い香りがした。

 「伊刈さんは最近どう?」

 「どうかなあ」

 「本は売れたの」

 「一冊目は五万部くらい。二冊目はその半分くらいかな。今、三冊目を書いてる」

 「すごいね。いつの間にそんなに出したんだ。もう作家だね」敦子は日焼けで荒れた肌に深い皺を刻みながら、うれしそうに笑った。

 伊刈の携帯が鳴った。着信の表示を見るとナオミからだった。伊刈はテラスに座ったまま応答した。

 「あ、よかった出てくれて。あたし超パニック。帰れないんだよ。今横浜なの。山下公園の近くでさ、それがね財布どっかに落としちゃったみたいでさ。携帯だけでもあったのが超ラッキー」

 「一人で来たのか」

 「そうじゃないんだけどさ。あたし実はナンパされてさ、ここまで車で来たのはいいんだけどさ、そいつが酔っ払ったふりしていきなり変なことしようとすっから、ざけんなよって車降りたのはいいんだけどね、財布落とすなんて最悪だよね」

 「かなり飲んだのか」

 「うん、よくわかんないけどかなりね」

 「横浜にはすぐには行けないよ」

 「だよね。わかった。なんとかするわ」

 「山下公園だったら近くにホテルがあるだろう」

 「うんいっぱいあるみたい。こな…泊まったことあるホテルも見えるよ」

 「どこでもいいから適当なところにチェックインしたら教えて。後で行くから」

 「ほんとに来てくれんの。やっぱ伊刈さんだわ。それからちょっとお腹がすいた」

 「ホテルのレストランなら部屋につけられると思うよ」

 「よかった。あたしどうしようかと思った。じゃ、こないだと同じホ…とこで待ってるね」ナオミは用事が済むとさっさと電話を切った。

 「どうしたの?」敦子が伊刈の顔色を覗き込んだ。

 「最近仲よくしてる大学生が酔っぱらって財布落として迎えに来いとか」

 「行くの?」

 「あとで行くけど急ぐ必要ないよ」

 「ホテルで待たせてるんでしょう。聞こえたわよ。すぐに行ってもいいのよ」

 「あとでいいよ。赤、飲んでもいいかな」

 「ふうん余裕ね」

 曇りひとつなく磨き上げた大きなワイングラスに注がれる赤ワインの泡立ちを見たとたんなぜか伊刈は落ち着かなくなった。ナオミが大好きな赤いプラダのサンダルを思い出したのだ。

 「行きたいんでしょう」敦子が伊刈の心を見透かしたように言った。

 「ごめんやっぱ行ってくる。敦子のホテルはどこ」伊刈はワイングラスには口をつけずに立ち上がった。

 「え、どういうこと」

 「帰ってくるから」

 「すごいね。まさかホテルの梯子をするつもりなの。それってまるで」

 「あとで必ず連絡するから。ここのパンできたらお土産に買っておいて」

 「本気なの。じゃマジで待ってるよ」

 「必ず帰る」

 伊刈が伝票をつかもうとするのを敦子が制した。「いいのよここは。まだ飲むから。じゃ早く行きなよ」

 敦子はテラスのテーブルをそのままにして店内に入り誰もいないカウンターの真ん中に座り直した。

 「彼、どうしたの?」オーナーが不思議そうな顔で一人ぼっちになった敦子を見た。

 「知らないけど、あたし振られたみたい。戻ってくるって言ってたけど絶対に来ない。かけてもいいよ」

 「今の人って敦子のモトカレなのよね。似てるよね」

 「誰に」

 「こないだのフランス人と今の彼」

 「全然違う。あたしナチュラリストなんて好きじゃないし毛深い男も嫌い。しばらく色恋とかはいいわ」

 「これ飲むと悪酔いできるよ。やけ酒には一番ね」

 オーナーが冷タンに注いだチャコリ(バスクの微発泡酒)を敦子は一息に飲み干した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

産廃水滸伝 ~産廃Gメン伝説~ 14 ゴミが消えた日 石渡正佳 @i-method

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ