#_3 与えられた手札に関して



「ちょっと、いいでしょうか」


 静寂に包まれた喫茶店の中。窓の外で泥水を弾く雨粒の音だけが響く店内で、二人の男の間に流れる沈黙を破る様に、彼女は声をあげた。


 アイリスはこの喫茶店のマスターだ。二人に珈琲を提供した張本人だ。故に、カウンターの奥から聞いていた二人の会話をこれ以上黙って聞き流す事がどうしても出来なかった。


 散々な言われ様。別に自分の淹れた珈琲が世界一の代物だとは思っていないが、それでもクソだの泥水だの言われれば、流石に心中穏やかでは居られない。と言うか、腹わたが煮え繰り返っていた。


「取り込み中だ」


 カーディナルレッドの法衣を身に纏った男がそれに応じる。テーブルから身を乗り出して対面の男を睨んだまま、向き直る事もなく彼女の言葉を切って捨てる。

 アイリスはその有無を言わせぬ迫力に反論の言葉を喉で詰まらせた。言い募りたい不満は山程あったが、押し黙る他なかった。

 アイリスは知っている。いや、彼女でなくともこの世界で生きる人族なら皆が知っている。その緋色の法衣が持つ意味を。教会最高指導者の持つ絶対的な権威を。


「アイリス。お前の珈琲は掛け値無しでゴミだ。だが、それに反してお前の剣の腕には価値がある。ーー元冒険者。ランチェスター流剣術皆伝、戦略級LV.strategy剣士。お前にはもっと相応しい仕事がある」


 代わりに口を開いたのは半年前から足繁く来店する様になった常連客の男。珈琲の淹れ方から豆の挽き方、焙煎方法に至るまで口うるさく指摘してくる変わった男だったが、教会上層部に繋がりを持つ様な人間だとは、今日の今日まで知らなかった。


「……ゴミって、あんまりです! 私はお客様に少しでも楽しい時間を提供したくてーー」


 思わず語気が強まる。彼女の怒りは当然だ。その一杯の珈琲を淹れるまでには、途方もない苦労があった。

 アイリスは思い出す。十四で冒険者稼業を始め、命を代価に夢だった喫茶店の開店資金を稼いだ五年間を。そして一年前、十九にして王都に店を構えてからの日々も。

 経営状態は芳しく無いものの味の向上には弛まぬ努力をしてきたつもりだった。

 冒険者になったのも、結果として戦略級LV.strategy剣士と呼ばれる腕前になるまで剣の腕を磨いたのも、全ては王都に自分の店を構える為。剣の腕など夢を追う道程で手にした副産物に過ぎない。

 その血と汗と涙が、アイリスの珈琲には宿っているのだ。


 しかし。


「ーー楽しい時間を提供? 笑わせるなよアイリス……」


 彼はその努力と苦労を一笑に臥した。そして、まるで穢れをしらない幼子の様な純朴な瞳で、アイリスに事実を事実としてありのままに告げる。


「残念だが逆効果だ。お前の珈琲を飲むとーー楽しかった思い出が一つ消える」


「……ど、どういう事ですか」


 彼女は自分の心が砕ける音を生まれて初めて聴いた。

 楽しかった思い出が……消える?


「ああ、すまん。今のは比喩だ。それくらい不味いって意味だ。勘違いさせたなら謝る」


 呆然と立ち尽くすアイリスに、彼が補足の説明をする。

 違う。勘違いはしていない。ちゃんとそのままの意味でクリティカルヒットしているし、謝るならポイントがおかしい。

 気付けば目尻から涙が伝っていた。否定されたのは珈琲の味なのだが、アイリスにはそれまでの苦労も努力も何もかもを否定された様に聞こえていた。

 彼が徐ろに立ち上がる。テーブルの前、棒立ちで涙を溢す彼女の肩に手を置き彼は言う。


「落ち着けアイリス。俺の生まれた国ではこういう諺がある。『好きこそものの上手なれ』」


「え……」


 頭一つ背の高い彼を見上げるアイリスの瞳に生気が戻る。それは予想外のフォロー。不器用ながら温かみのあるその言葉に、アイリスは視線に期待を込めて彼を見つめた。

 彼はアイリスを見つめ返して小さく頷く。そして、感情の見えない平坦な声色で言葉を続けた。


「物事の上達に一番必要なのはその物事を好きで居続ける事だという、偉い先人の格言だ。……俺はこの諺を……クソだと思ってる」


「……え?」


「無駄な努力には『骨折り損』って慣用句も存在する。アイリス、お前に喫茶店のマスターは向いてない」


 アイリスの瞳から再び光が消える。ブロンドの長髪、それと同じ色の瞳。感情の失せたアイリスの、その整った顔立ちがまるで服屋の店頭に置かれたマネキンの様に硬直する。彼女の目尻から流れ落ちる涙だけが、その心胆に渦巻く感情を寂寞に吐露していた。









 人生とは儘ならないものだ。未来を見通す力でも持っていない限り、正しき道を選び続ける事は不可能で、一見すると正解に思えた過去の選択も、所詮は単なる結果論に過ぎない。それが本当に最善手であったかなど、それこそ神をおいて他の誰にも判断はつけられないのだ。……自分自身ですら分からない。


 剣の才、魔法の才、人を騙す詐術の素養から、さくらんぼの茎を舌で結ぶ才能まで、世の中にはその必要性はさて置き、数え切れない程の才能が溢れている。


 そう考えると、側から見れば不公平に思える天賦の才も、凡ゆる才能の総量という面では案外均衡が保てているのかも知れない。

 顔は悪いが芋の皮剥きの才がある者と、皮剥きが苦手でも格別見目麗しい者が果たして公平かどうかは知らないが、才能の総量だけで見れば同量と言える。

 大切なのはその使い道だ。皮剥きの才を皮を剥く為だけに使うのか、そこから派生した何か利になる事柄に昇華させるかは本人次第、努力次第である。具体的に皮を剥く素養が一体どんな技術に昇華するかは、……ちょっと見当もつかないが、きっと何か使い道はある筈だ。取り敢えず包茎は回避出来そうだし。


 兎も角、そういった視点で見ると、どんな人生も一長一短に思えてくる。

 手持ちのカードがどれだけクソでも、人生は配られた手札で戦う他に道は無いし、それは後から強請った所で与えられる類いの物でも無い。

 手持ちのカードに不満があれば、その手札でカードマジックでも練習して見れば良い。何もカードの楽しみ方は、ポーカーやブラックジャックでなくてはならない決まりなんて存在しないのだから。

 もし、手札の使い道に決まりが存在しているとすれば、それを決めたのは他でもない自分自身だ。

 自分を容れる容れ物を決めつけているのは、いつだって自分自身なのだ。


 つまり結論から言えば、アイリスに喫茶店は向いていないし、俺も魔王討伐には向いてない。

 彼女は喫茶店のマスターとしては三流だが、奇しくも剣士としては一流だ。

 ランチェスター流剣術皆伝、戦略級LV.strategy剣士。

 それは本来、出店資金作りの為に行なった僅か数年の冒険者稼業で辿り着ける様な高みでは無い筈だ。


 下級、中級、上級、戦術級LV.tactics戦略級LV.strategy災害級LV.disaster破滅級LV.catastrophe


 剣士や魔導師など、武芸に身を置く者なら誰しもがその位階の区分を知っている。上級に達すれば一人前。そこに至るまで、普通は十年以上の歳月と弛まぬ努力を必要とする遥かな高み。そこから先は、努力だけでは越えられない才能の世界。神に愛された天賦の才を持つ者だけが辿り着ける武の境地。

 僅か数年の修練でそこに至ったアイリスの才は、当代ランチェスター流剣聖にして『百年に一人の天稟』と評された程の大器と聞く。


 ーーこいつは馬鹿か。それとも、馬鹿か。


 肩越しにアイリスを見下ろす。項垂れる様に下を向いた彼女の、その表情を窺う事は出来なかったが、時折跳ねる肩の動きと漏れ出る嗚咽で泣いているのだと理解は出来た。


 ーー泣きたいのはこっちだ。


 閉塞した社会で退屈に過ごす抑圧された日々は、気付かぬ内に精神を蝕み、一種の破滅願望を抱かせる。増加を続ける自殺者数、精神病罹患者や軽犯罪の増加等も、歪な現代社会に対する不満の発露と言えるだろう。


 確かに、確かに俺はいかれてる・・・・・


 老い先短い老人の命と未来ある若者の命が等価値だとは到底思えないし、社会的地位や財力によっても命の価値は変動して然るべきだと思っている。

 核を保有したり他国の民を拉致する様な国なんて自衛権を大義名分に火の海にするべきだと思うし、鼻くそみたいな嫌疑でいつまでも国会を空転させる野党は害悪でしかないと断言出来る。

 国会を空転させる事によって経済政策関連の法案成立が遅れれば、それによって生じる国の損益は数億円の土地の値引きどころの話では無いし、存在自体が迷惑な隣国を合法的に攻撃出来る正当な理由があるのならさっさと殺れば良いと思う。交渉なんて首都を火の海に変え、首長を後ろ手に縛ってからでも可能なのだ。先に他国の国民に手を出したのは向こうなのだから何の問題も無い。


 合理性と効率性こそ唯一俺が信仰する教義。俺にとっての神とは、即ち利益である。


 だから当然、珈琲の味なんて本当はどうでも良い。アイリスの珈琲が泥水以下なのは本音だが、そんなもの俺の人生になんの影響も無い。いちいち改善を要求するなんて全く効率的じゃない。


 では何故。……そんなの、魔王討伐が心底嫌だからに決まっている。

 あれは抑圧された社会で抱いた一時的な破滅願望、現実逃避。

 確かに俺は多少いかれてるが、健全な精神状態であれば魔王を討伐しろと言われて二つ返事で了承する訳がない。

 この世界に渡って半年。仕事もせずに日がな一日珈琲を飲みながら魔導書を読み耽る怠惰で健全な毎日は、俺に正気を取り戻させてくれた。

 刺激なんて必要ない。と言うか、刺激は丁度良い程度だから刺激と呼ぶのだ。度を越せばそれは刺激では無い。……苦痛、若しくは恐怖だ。


 魔王討伐、正に恐怖である。やってられるか。正常な精神なら確実に断る話しだ。

 つまり、何と言うか……まるで画面の向こう側からゲームのシナリオを聞いている様な感覚だったのだ。


 いざ次元を渡り、その気になれば魔王と剣を交える事が出来る、出来てしまう、そんな立ち位置に移動した時、俺はようやくその恐ろしさに気付かされた。

 サファリパークでタイヤがパンクし、窓ガラスが全損した様な。目の前の猛獣の、その爪と牙が自分に届く段階になるまで、人はその本当の恐ろしさに気付かないものである。


 俺はもう気付いてしまった。だからこそ、ベネディクトには決して気付かれてはならない。俺がもう、とんでもないくらい魔王にビビっているという事実を。

 魔王討伐とか、いきなりヘビー級タイトルマッチのリングに上げられるより無理な話だ。素養があるとかないとか、そんな御託はどうでも良い。


 俺に魔王討伐は向いてない。そして、アイリスに喫茶店は向いてない。


 彼女の経歴、剣の腕前、どれをとっても彼女は天才だ。王都の片隅で泥水を錬成していて許される様な人材では無い。


 昔話でも言うだろう。お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に。

 どんな世界でも適材適所は重要だ。それこそが作業効率、合理性である。





 俺は未だ小刻みに震えるアイリスの肩に優しく手を添える。そして、努めて柔和に、優しく提案する。


「大丈夫。大丈夫だ、アイリス。美味い珈琲は俺が淹れよう。お前はちょっと、あれだ。……魔王殺ってこい」

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