#_2 その男、異端につき




 半年後。王都の外れ、とある喫茶店。


 昨晩から降り続く雨が辺り一帯に大きな水溜りを作っていた。

 碌な舗装もされていないこの町の通りには泥水が溢れ、店先の道路はまるで世界中の珈琲をそこにぶち撒けた様な惨憺たる情景が広がっている。


 男は窓際のテーブルから空を見上げ、憮然とした顔付きでマグを啜る。暴力的な苦味に支配されたその液体は、店先にぶち撒けた珈琲を泥水と共に掬ってきたのかと疑う程に粗悪で、彼は思わず表情を顰めた。


 この半年、焙煎には嫌気が差す程に口を出した。ならばやはり豆そのものが原因か。一向に改善の兆しを見せないこの店の珈琲は、味の迷宮に迷い込んでしまったかの様に脱出の気配すら感じられない。彼は溜息混じりにその液体に視線を落とし、やがてテーブルの対面に座った男に同意を求めた。


「相変わらずクソ不味い。これは最早事件だろ、ベネディクト」


 鮮やかなカーディナルレッド。緋色の法衣を纏った対面の男は、呆れと驚きを混ぜ合わせた形容し難い表情で眉を寄せ、困惑した様子のまま口を開く。


「いや、まず私の話を聞け。私はこの汁の味を改善してもらう為に君をこの世界に召喚したわけではない」


 視線を口元に向ければ、ベネディクトの唇は僅かに震えていた。

 それは恐らく、怒りと恐怖を織り交ぜた混沌たる感情の発露。思う様に彼の手綱を握る事が出来ない憤懣と、何を言ってもまるで響かない漠然とした畏れ。

 ベネディクトは、測りかねていた。彼の心情と思考、そのベクトルが自分には全く理解が及ばず、まるで人語を操る物の怪と話している様な、何とも滑稽な屈辱を味わっていた。


 素養がある。ベネディクトは次元の向こう側の世界で彼にそう言った。そして、それは確かに本心から来た言葉だった。彼には素養がある。それも、この世界を変え得る程のとんでもない素養だ。


 しかし。……素養があり過ぎる。それが何よりの障害となってしまったこの現状に、遣る瀬の無い憤りを感じていた。


「分かってる。魔王だろ? 魔王を殺せばこの世界は救われて……どうのこうのって、それはもう聞いた。ちゃんとやるさ、問題ない」


 さも面倒そうに、吐き捨てる様な口調で彼は答えた。口に付けたマグを呷り、眉間に寄せた皺を更に深くした彼は、続けて自論を展開する。


「だが今はこのクソ不味い汁のほうが問題だ。俺に言わせれば、魔王を殺したところでこんな不味い珈琲しか存在しないこの世界はとっくに終わってる。……そう思うだろ?」


 思うわけがないし、意味が分からない。最早恐怖しか無い。表情筋が経験した事のない動きをしている。

 ベネディクトはカタカタと音を鳴らしながら震える手でティーカップを持ち上げ、珈琲を口に運んだ。口内に流れ込む液体の、その熱と苦味が混乱した脳内を幾分落ち着かせてくれる。

 ベネディクトは喉を鳴らしてそれを嚥下する。不味い、確かに不味い。しかし、この汁の品質改善が魔王討伐を差し置いて優先する程の重要事項だとは到底思えない。


 ーーそう思うだろ?


 彼が確信を持った表情で展開した狂気の自論を、ベネディクトは脳内で反芻する。

 その、さも核心を得たりと言わんばかりの自慢気な顔つきと、同意を求める最後の一言に、話の通じない魔族の連中と相対した時の様な、気味の悪い薄ら寒さを感じた。


 私はとんでもない異物をこの世界に持ち込んでしまったのかも知れない。そんな思いが脳裏をよぎる。


 力づくで屈服させる。そんな選択肢もあった。協力では無く、服従によって彼の手綱を取る方法も、そしてそれに足る力もベネディクトは有している。しかし、彼に対して抱く漠然とした畏れが、その強硬策を躊躇わせていた。


「私は、いや、世間は……。魔王のほうが問題だと感じている。何故なら、この汁の品質で世界は滅ばない」


 それはまるで自らに言い聞かせる様な物言い。ティーカップの中、黒々とした液体の表面に映るベネディクトの表情は、自身ですら見た事もない程に引きつっていた。


「違う違う、まるで分かってないな。滅ぶ滅ばないの問題じゃない。珈琲を頼んでこんな泥水が提供される時点で既に滅んでるだろ。魔王どうこう以前の話だ。救う価値のある世界じゃない」


 おかしい。彼の頭は確実におかしい。しかし、その確固たる自信が荒唐無稽な彼の自論に意味不明の説得力を持たせている。それはまるで、自分の認識の方が間違っているのではないかと錯覚を覚える程に。……それが、おかしい。


 危険だ。ベネディクトは思う。この男の思想は、類を見ない程に常識から逸脱している。それがこの男の素養の一端でもあるのだが、同時に大いなる不確定要素も孕んでいる。


 一杯の珈琲から世界を憂う。


 合理性と効率性を重んじる現実主義者の自分が、よもやそんな哲学的な思想に至る日が来るとは思いもしなかった。


「論理的な話をしよう。この珈琲の味は、君の言う通り確かにクソだ。確かにクソだが、努力次第では必ず改善出来る。比べて、魔王の脅威は更に逼迫した問題だ。放っておけば世界が終わる。珈琲も消える。その品質を改善する猶予も、失われる。……いいか、これは手順の問題だ。魔王を倒し、それから品質改善だ。それで両方救われる」


 指を立てながら、ゆっくりと、順序立てて提案する。

 教会の最高指導者である証のカーディナルレッド。その緋色を纏った自分が、こんな場末の喫茶店で珈琲の品質向上について熱く語っている姿を信者連中に見られでもしたら……、それは由々しき事態だ。俗世に染まった指導者の姿は、市井の信仰を揺るがしかねない。


 ベネディクトは窓から外を一瞥し、辺りを窺う。幸いにも降り続く雨は治まる気配が無く、通りには人影すら見当たらない。


「なるほど、一理ある」


 マグを見つめて彼が頷く。何かを思案する様に、テーブルに置かれた小瓶から角砂糖を二、三粒マグに投下して沈黙する。


 違う。一理では無い。それが道理だ。これが真理だ。


 ティーカップを皿に戻し、テーブルに両肘をついて指を絡ませたベネディクトは、彼を推し量る様にその様子を見つめ、問う。


「ところで、だ。既に君を召喚してから半年もの月日を浪費した。君に渡した膨大な量の魔導書も、その指に嵌めた聖銀の指環も、教会の経費、元を辿れば信徒の血銭だ。……私にも一応、進捗状況を報告する責務があってね。時間と金を無駄に浪費したとは口が裂けても言えんのだが?」


 世界最大宗教『イクセリオ教』。その最高指導部、枢機卿団。そこは権謀術数渦巻く万魔殿パンデモニウム。様々な陰謀と派閥争いが絶えず蔓延る聖なる魔境。

 国境を越えて世界中に影響を及ぼす教会権力と、大国の国家予算すら凌ぐ多額の献金。その正しき使い道を決めるのは他でもない、ベネディクトを始めとした数少ない枢機卿団の最高指導者達と、その上に居る教皇である。

 最高指導部会議と呼ばれる定例会で、例え僅かでも自らの失敗や失態が露呈したとすれば、それは即ち自身の失脚を意味する。


 一般人では手の届かない高額な魔導書と、その魔導を行使する為に必要不可欠な最高等級の魔導媒体。ベネディクトが彼に与えた品々の総額は、既に五千万イクスを超えている。これは民の収入に換算するなら十年分、いや、それ以上だろうか。

 更に言うなら、彼を召喚する為に代価として消費した希少な金属や薬品、膨大な魔力等は、その倍以上の予算を食い潰して掻き集めた高額な品々である。


 この計画に失敗は許されない。


 間違っても一枚岩とは言えないしがらみだらけの指導部で、この計画に加担しているのはベネディクトを筆頭とした少数派閥である。

 全ては、来たる教皇選挙コンクラーヴェに向けての布石。マイノリティがマジョリティを打倒する為には、それ相応のインパクトファクターが必要なのだ。……故の、異世界召喚。


 詰まる所、この計画には教皇の椅子が懸かっている。天文学的な桁の献金と、そこらの玉座より強力な教会権力の行方が、この珈琲狂いの異世界転移者の動向に掛かっているのだ。


 男がマグを混ぜる。角砂糖を投下したマグの中で、黒色の液体が渦を巻く。

 彼は目を細めてその螺旋を見つめながら、至って平坦な声色で質問に応じた。


「魔導書? ああ、あの下らない呪文だらけの本か。捨てたに決まってるだろ、邪魔だったからな」


 意識が遠のく。ーーこいつは馬鹿か? それとも……馬鹿か?

 五千万イクス。正確には魔導書だけなら三千万だが、どちらにせよ大金だ。

 捨てた? 意味が分からない。召喚後に最初に渡した品々だ。普通の人間なら、どう考えても其れ等が自らにとって重要な物品なのだと認識するだろう。しなければならないだろう。

 しまった。自分にとってはそれが当たり前の事過ぎて、逆に説明が不足していた。こいつはイカれているのだ。言わなきゃ分からん奴なのだ。認識が甘過ぎた。

 ベネディクトは額に手を当て、震える声で詳細を確認する。


「内容は、内容は覚えたか? あれは捨てるに惜しい品々だったが、呪文さえ暗記しているならこの際どうでも良い」


 そうだ。要は身に付いているのかが問題だ。三千万は痛いが、痛すぎるが、その気になれば枢機卿位が動かせる予算はそんな少額では無い。数千万など、言わば誤差の範囲。

 彼が魔王さえ倒してくれたなら、その程度の損害は大事の前の小事である。


 ベネディクトの表情は変わらない。しかし、内心では縋る思いで彼を見つめていた。

 彼は一頻りかき混ぜたマグに口を付け、その味に眉を顰めながらぶっきらぼうに返答する。


「覚えるわけないだろ、馬鹿馬鹿しい。あんな物、俺には必要ない。ーーしかし不味いな。砂糖で過度な苦味は緩和されたが、熱が抜けると尚更不味い。熱量に比例して着実に味が落ちていく。これは逆に感心するレベルだ」


 彼の平坦な声色に、ベネディクトの心臓は強く脈打ち、頸部から上に急激な体温の上昇を感じた。暫しの放心状態に陥った後、一拍遅れてその現象の正体に気付く。


 これは、……怒りだ。神に仕え、秩序を重んじていたが故に忘れていた、途方も無い激しい怒り。


 次の瞬間、ベネディクトは衝動的に拳を振り下ろしていた。怒りそのものを内包しているかの様に強く握り込まれたその拳が、テーブルを叩く。激しい衝突音。彼我の狭間でティーカップが跳ね、黒色の液体が辺りに飛び散った。


「いい加減にしろ。貴様に信徒の血銭を幾ら注ぎ込んだと思っている。貴様は教会を、神を侮辱する気か?」


 血が上った頭で、しかし冷静に判断する。ーーこの男、最早処分が妥当か?

 舐めきった態度。理不尽な行動。その全てが、ベネディクトの許容限界を超えていた。


「ああ、すまん。勘違いするなベネディクト。言い方が悪かったな。必要無いとはつまりーーこういう事だ」


 ベネディクトの怒りをまるで意に介さぬ様な、涼しげな表情で彼が持ち上げたマグから手を離す。まるで大空へ雛鳥を放つ様に、水面に川魚を逃す様に。手放されたマグはその場に浮かび、宙空を滑ってベネディクトの眼前に停止する。

 直後、マグの直下に炎が出現し、赤い火の粉を爆ぜながら勢いよく揺らめいた。


「……これは、なんだ」


 魔法。その一言で片付けようとした頭が、摂理に反した状況を前に混乱していた。

 ーー呪文は、詠唱はどこにいった? 今、間違いなく、彼は詠唱をしていなかった。


 通常詠唱、詠唱省略、詠唱破棄。魔法はその使い手の熟練度によって呪文が短略化されてゆく。一流の魔導師になれば詠唱を破棄し、魔法名だけで奇蹟の力を顕現する者も存在するのだが……。今のは、破棄ですら無い。無詠唱だ。


 死者蘇生、死霊転生、そして……無詠唱。

 魔法と、それを行使する為の技術体系が宮廷魔導師から市井の子供達に至るまで幅広く浸透した現在になっても、未だ解決されない三つの問題。その難題に挑戦した歴史上の数々の大魔導師達が、夢半ばで生涯を終えた。所謂、『神の領域』だ。


 ーー私は今、本当の奇蹟を見たのだろうか。


「今のはなんだと聞いている」


 身を乗り出し、宙に浮かんだマグを手に取ったベネディクトが、湯気の立ち上るその物体と、対面に座る男を交互に見やり問い直す。

 数秒前に飛び散った珈琲の飛沫が、権威の象徴である筈のカーディナルレッドを黒く汚してしまっていたが、ベネディクトはそれに気を配る様子も無く、ただただ彼の返答を待った。


「この魔法の本来の使い道は、焙煎魔法だ」


「焙煎、魔法……」


 違う、聞きたいのはそういう事じゃない。と言うか、この男は豆を焙煎する為にこの技術を確立したのか? こいつは、馬鹿か? それとも、……いや馬鹿だ。


「いいか、ベネディクト。無詠唱に必要なのは正しい信仰だ。教会や、神々の存在が、魔法の進歩を阻害している」


 彼はベネディクトからマグを取り上げ、熱を取り戻した珈琲を呷る。

 何でもない様子で発したその言葉に、ベネディクトは迅雷に打たれた様な衝撃を感じた。


「まさか。そんな筈は無い。神は我々の救いだ。確かに、教義には多少合理性に欠けた部分もあると感じるが、神の教えには概ね納得している。神は、我々人族の味方だ」


 呆然とした表情でベネディクトが呟く。さも自分に言い聞かせる様に語ったその言葉に、彼はくつくつと小さく嗤った。


「敬虔なベネディクト枢機卿猊下には大変申し上げ難いのだが、俺の生まれた国では宗教に対する考え方が此処とは少し違う」


「……違う? 何が違うと言うのだ」


 発言の意図が分からない。仮に信仰に差違があったとして、それがなんだと言うのだ。

 何が言いたい。この男の考えは、いちいち斜め上から降ってくる。


「基本的に、宗教ですくわれる・・・・・のは足元だけだ。見返りの無い信奉は、それそのものが合理的じゃない」


「…………」


 言うだけ言って、彼は満足気に口を閉ざす。息を呑んだベネディクトも返す言葉が見つからず、二人の間に奇妙な静寂が訪れた。


 危険だ。この思想は危険過ぎる。言ってしまえば……異端。教会の異端審問に掛けられれば、彼は間違いなく異端者として裁かれるだろう。


 身を乗り出して彼と視線を交えたまま、ベネディクトは唾を飲み込む。得体の知れない恐怖に緊張した喉が、テーブルの上で静かに音を鳴らした。

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