クズが始める悪魔的魔王討伐
戸村綴
#_1 その男、異質につき
ウッドテーブルに置かれたティーカップから立ち昇っていた湯気が消えた頃、窓を騒々しく叩く雨粒は益々勢いを増していた。
分厚い雨雲を見上げながらカップに口を付けるが、熱の逃げた珈琲は酸味ばかりが主張し、彼は表情を顰めた。
この古ぼけた喫茶店に入る頃に丁度降り出した雨粒がスーツの肩を濡らしてしまったが、それも既に乾いている。
セールで買った吊るしのスーツに愛着などは特にない。それでも染み付いた雨とアスファルトの臭いがどうも気になった。
人生には皆、三度の分岐点がある。そんな話を誰かに聞いた覚えがある。それが進学なのか就職なのか、まだ経験は無いが結婚や離婚がそうなのか。自分の人生に当てはめて考えては見るものの、何れもしっくりは来ない。
或いはそれは、流されるままに生きてきた彼が、気づくことも出来ずに通り過ぎた何れかの転換期の事だったのかも知れない。
ただ漫然と過ごす内に、大切な分岐点すらその境界線があやふやに溶けて消え、知らぬ間に過ぎ去ってしまったのではないか。
一向に降り止まぬ雨は、そんな陰鬱とした彼の思考を加速させる。
今の生活に大きな不満は無い。然りとて満足しているかと聞かれれば首を横に振らざるを得ない。
そんな釈然としない閉塞感の中で死んだ様に生きる毎日は、まるで気の抜けた炭酸水の様にどろどろと味気なく、零れ落ちる様に過ぎて行く。
それは恐怖を覚える程に退屈で、人生の電源ボタンがあるのなら今すぐにでも押してしまいたいとすら思う。
子供の頃に描いた夢や希望を、嘘と妥協で塗り潰しながら生きる日々は、それすらが罪に思えて、何も残さず消えて行くであろう自分のこれからの人生を見つめると、窓の外で降りつける一粒の雨のほうが余程その生涯を謳歌しているかに見えた。
--今日、変える。その人生を、今日、変えるのだ。
彼は冷めきった珈琲を再び呷る。酸味だけが主張する面白みの無い液体を一口で飲み干し腕時計を確認した。約束の時刻が目前に迫っていた。
何でも無い平日の昼下がりの今日、これからこの喫茶店にやって来る人物とのひと時が自分の人生において最大の分岐点になる。そんな確信めいた予感がしていた。
何日も前から説明しようの無い座りの悪い感情が心を揺らしている。
緊張と期待と興奮と不安を綯交ぜにした鈍色の感情が、蠢くように心を満たし、地に足の着かない数日を過ごして来たのだ。
この喫茶店に入ってもまだ浮き足立ったままのその心を落ち着かせようと、手に取った新聞を広げて見たところで、興味の無い活字など脳に入って来る訳もなく、瞳の中をただ滑り落ちてゆく。
結局、日付だけを確認して乱雑に折り畳む。空になったティーカップに心淋しさを感じ、再び注文しようかと思い悩んで視線を上げる。
男が居た。目の前だ。いつからだろう。男は向かいの座席に座って居た。ゆったりと肘掛けに腕を置き、真っ直ぐに彼を見つめていた。
まるでずっとそこでそうしていた様にさえ見える。
腕時計を見る。寸分の狂いも無く、秒針すらも約束の時刻を指している。
「--さてと。不躾で悪いが、返事を聞こうか」
男の横をウェイターが通り過ぎる。注文を取ることも無く、一瞥も無く、まるで見えてすらいないかの様に通り過ぎる。
気付くと喉がからからに渇いていた。
あの酸っぱいだけの汁は喉を潤す事すら出来ないのか。そんなどうでも良い悪態が頭の中に浮かんで消えた。
「…………」
この返事が俺の人生の分岐点になる。その確信めいた予感が、重石となって彼の返事を詰まらせた。
男との出会いは丁度一週間前。この喫茶店だった。何気無い新聞の三行広告の片隅に異質な募集文があった。
『気になる方募集。◯◯区◯◯-◯◯。喫茶店一番奥のテーブルまで』
全く謎の募集だった。凡そ常識人が足を運ぼうとは思わない短文だった。
しかし、結果として彼はこの喫茶店に来ていた。男はその日もそこで今と同じ様に座っていた。
『それは素養のある人だけが反応するようになってる。そう言う風に作ったんだよ』
謎の募集文を男はそう説明した。納得はいかなかったが、それ以上の説明も無かった。
男は言っていた。一週間で考えて欲しいと。暗鬱とした人生をこのまま流れ落ちる様に終えるか、それとも変えたいか、と。
彼は常識人だ。社会人だ。現実主義者だ。それでもこの男の話した突拍子の無い与太話には、何処か惹きつけられる魅力と、只の虚言とは言い切れない不思議な説得力があった。
『
例え子供の頃に描いた夢だったとしても、それはあまりに現実離れした妄想レベルの夢。
違う違う。俺が叶えたかったと後悔している夢は、こんなにぶっ飛んだ部類の夢じゃない。もうちょっと現実的なやつだ。
男は頻りに言っていた。とんでもない素養がある。君は確実に傑物になる。こっちじゃうだつの上がらないまま無駄に人生を消費する。
余計なお世話だと思ったが、それは正しくもあった。男の与太話の真偽は定かでは無いが、彼は結局またこの喫茶店に足を運んだ。
信じた訳では無い。ただ、リスクの無い賭けだったから覗いてみた。それだけの事。下らない人生の、一時の暇つぶし。
この一週間、まるで自分に言い聞かせる様にそう繰り返し念じていた。
期待の裏返しだ。本当は心から望んでいる。このクソみたいな人生を切り裂く一筋の光を。嘘みたいな現実を。
「--行きたい。変えたい。変わりたい」
気付けば口が勝手に動いていた。身体は机に乗り出す様に前のめりになっていた。
「死ぬかもしれない。人を、殺さなければならない時もあるだろう。覚悟はあるのか」
男は表情一つ変えずにそう問い直す。答えなどわかっているくせに。言質を欲しているのか、覚悟の確認作業のつもりか。
「俺が、人を殺さないのは、……今まで殺さなかったのは、この国ではそれが罪だからだ。そして、殺すに足る理由が無かっただけ。殺せないわけじゃない」
本音だった。
彼は少し異質な人間だ。常識人に見えて、何処か違うルールの上を生きている様な。自分のルールで生きている中で、法律を守ると言う自分のルールを持っているだけの男。
殺す事の罪悪感も忌避感も無く、ただ、損得で考えている男。
下らない理由で人を殺すと損。だから殺さない。それが彼の本質だった。
そのくせ、人一倍常識人になりたがり、普通に憧れ、しかし日常に退屈を感じる。
生まれる時代を間違えた。そんなありきたりな言葉がぴたりとはまる。
平和な時代と平和な国は、彼に退屈と閉塞感だけを与え続けた。
刺激が欲しかった。いや、正しくは、刺激が当たり前で、それが普通の世界が欲しかった。
「協力して欲しい。これは私にとってはただの遊び……と言っても、必ず勝利したい真剣な遊び。『向こうの世界』のルールは一つだけだ。私に従う事。それを破れば私が君を殺す」
「それでいい。お前が俺に自由と刺激を与えるなら、俺はお前に勝利を与える。これは契約だ」
「ベネディクトだ。
カーディナルレッドの法衣に身を包んだベネディクトと名乗る男。まるで画用紙に垂らした一滴の絵の具の様な、この世界から浮き出た違和感を持った男だった。
ベネディクトはふと窓の外を見て、ぽつりと呟く。
「雨が上がった。急ごう、門が閉じる」
ベネディクトが机に手を翳すと、渦を巻いた暗闇が机いっぱいに拡がってゆく。
音も無く、ティーカップが闇に呑まれた。
「行くといい。この先に君が望んだ世界がある」
ベネディクトに促され、彼が机に手を触れる。まるで墨汁に浸けたように指先が闇に消えた。
手首を呑み込もうと渦を巻く暗闇は禍々しくも神々しく、圧倒的な存在感をもって机を漆黒に染めている。
最早ベネディクトの言う与太話には疑う余地すら無かった。間違いなく、この暗闇の先には見た事も無い世界が広がっている。
ーー今日が俺の人生最大の分岐点になる。
不思議と不安は無くなっていた。
窓を見る。雨は上がり、雲の切れ間から一筋の光が射していた。
最後に見た空はとても綺麗で晴れやかで、清々しいほどに輝いていた。
五体の力を抜く。まるでビルから飛び降りるように、正面に倒れこむ。
机に拡がった暗闇は、いとも簡単に彼を呑み込む。
ーーウェイターが横を通る。一瞥も無く通り過ぎる。まるで最初からそこに客など居なかったかの様に。
世界は変わる事なくこの瞬間を通り過ぎていった。
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