始まりの物語・冥喰らい『白亜』
元町商店街の復旧が終わった頃には七時を回っていた。
昼間はまだ温かいが朝夕は少し冷える、そんな時候だ。
通勤にはまだ早く、地元の人達がまばらに通る中、御倉一律は一人とんぼ返りしていた。
「ここ、ですかね」
広いシャッターに挟まれた、人一人分の狭い木製の扉。朱色の塗装は剥がれて傷み、丸いノブも錆付いている。
元町商店街は広く一つ一つの店舗も大きいが、すぐ東にある三宮の再開発に置いていかれ、寂れた雰囲気が漂っている。忘れ去られたような狭い扉はそれを象徴するようだった。
御倉一律が扉を開くと、そこには急な階段が続いていた。奥は暗く、照明も見当たらない。階段には厚く埃が積もっている。
スーツが汚れないよう注意深く、御倉一律は階段を上っていく。
ひとりでに、扉が閉まった。
足跡を消すように、埃が静かに蠢いた。
狭い階段を上り切った先には古めかしい広い扉があった。御倉一律は扉を開き、ほう、と感嘆の声を上げた。
隆盛を極めていた頃のヨーロッパ風の広い部屋でありながら、壁には大小の額に飾られた絵画や標本が飾られ、どこかスチームパンクめいている。それでいて全体の調和がとれた不思議な空間だ。
しかし御倉一律が感嘆し、目を見開いたのはそれらではなく、意匠の凝らされた椅子に座る、白く美しい少女だった。白い肌に丈の短い純白のワンピースを纏い、黒髪からは白樺の枝のようなツノが二本伸びた少女だ。
「……実に美しい」
「どちら様でしょうか」
白い少女はほとんど口を動かさず静かに尋ねた。勝手に部屋へ入った事は問わない様子だった。
否、彼女は御倉一律という人間に興味を抱いていないようだった。
「失礼。僕は御倉一律、一応警察の者です。もっとも冥獣対策課という限定的な部署ですが」
「冥獣、対策課」
「そうです。ご存知ですか」
納得がいくまで撮り直したであろう顔写真付きの警察手帳を見せながら尋ねると、白い少女は僅かに目を細めた。
「つまり、私を殺しにいらしたのですね」
「まさかそんな」
嬉しそうに笑い、御倉一律は手帳をしまった。
「貴女のように美しい方をこの僕が? 冗談じゃない。それは美への冒涜です」
「ですが、それが貴方の仕事なのでしょう?」
「杓子定規に仕事をこなすならそういう事になるでしょうね。……掛けても?」
「どうぞ」
白い少女の前には小さな円卓があるが、対面に椅子はない。壁沿いの赤いソファに浅く腰掛け、御倉一律は白い少女をじっと見つめて言う。
「どうして神戸に冥獣が集まっていたのか、ようやく分かりました。貴女は冥喰らいですね」
冥獣は人を喰らい、その魂を喰らう。
冥喰らいは冥獣を喰らい、その魂を喰らう。
冥獣でありながら、冥獣の天敵。
「ご存知ならば、尚の事」
「殺しませんよ。絶対に」
「……でしたら、何故ここへ?」
「貴女の美しさに惹かれて」
しばらくの沈黙ののち、御倉一律は答えを改めた。
「完成したミノタウロスが魂を喰らおうとしなかったからです。齧った程度の力があったとはいえほとんど只の人間、喰わないなら何かしらの理由がある。貴女がそう命じていたのではないですか」
「彼を、殺したのですか」
「いいえ。あれはここに封じました」
ジャケットから赤い拳銃を取り出し、銃身を持って軽く振って見せ、御倉一律は尋ねる。
「上には消滅と報告しました。今はまだ貴女に返せませんが、理由を訊かせて頂いても?」
白い少女は目を瞑った。艶のある黒く長い睫毛を蝶のように瞬かせ、少女はゆっくりと語り始めた。
「私が命じた訳ではありません。彼は彼の意志で冥獣を屠り、その魂を私に与えてくれていました。ずっと断っていたのですが、分かってはくれませんでした」
冥獣は、人の魂を喰らわねば生きていけない。
冥喰らいもまた、冥獣の魂を喰らわねば生きていけない。
「私は死にたいのです。ですが彼は、私が魂を喰わねば自分が死ぬと言い、分かってくれませんでした」
白い少女がきゅっと口を結んだのを見、御倉一律はミノタウロスの封じられた赤い拳銃に目を落とした。
「つまり彼は貴女がいるここで人を喰らい、貴女が見つかるのを恐れた。天敵たる冥獣まで魅入らせるとは、まさしく罪な美しさです」
「私は美しくなどありません。同胞の魂を喰わなければ生きていけない存在ほど、汚れて醜いものはありません」
ゆっくりと静かな口調を変えず、白い少女は憂いを帯びた表情を崩さない。儚く、一度視線を外せばそのまま背景に溶け消えてしまいそうな。
んー、と御倉一律は間延びした声を出してから言う。
「冥喰らいは初めてですが、死にたがる冥獣なら何度か会いましたよ。理由はそれぞれでしたが。しかし、いくら死にたくても空腹には抗えない。喰わなければ死ねると分かっていても目の前に魂があれば喰らってしまうものです。貴女を愛したミノタウロスも、もしかしたら死にたかったのかもしれませんね」
白い少女は言葉を返さない。この世から隔離されたかのようなこの部屋では、言葉が途切れればすぐに静寂が訪れる。
改めて部屋を見渡し、御倉一律は尋ねる。
「いい趣味ですね。貴女が選んだのですか」
「いいえ。彼に連れてこられたのです」
「そうですか。いや、しかしいい。精緻なバランスの上で絶秒に成り立っている。実に美しい。幸いにも僕が寝られるだけのソファもある」
「仰っている意味が分かりません」
「ホテル暮らしは楽でいいのですが、美しさがありません。異人館辺りをいくつか周りましたがピンと来るところはありませんでした。しかし、ここならいい。僕もここに住む事にしました」
その言葉に白い少女は初めて首を傾げ、白樺の枝に似たツノが揺らいだ。
「……貴方は何を言っているのですか……?」
「合理的だと思いませんか。貴女の匂いを嗅ぎ付けた冥獣を僕が殺し、その魂を貴女が喰らう。わざわざ探さずとも僕は仕事ができるという寸法です。しかも貴女がいる限り冥獣は絶えず集い、僕は安定した公務員でいられる。まさしくウィンウィンの関係ですね」
「私は死にたいのですが」
「死なせませんよ。絶対に」
強く言い切ってから、御倉一律は訂正する。
「正しくは死なせる事ができません。何故なら僕にとって美とは何物にも代え難い崇高なる概念だからです。そう、初めて貴女を見た時から既に結論は出ていた。つまりこれは運命です」
「私の意志など、関係ないのですね」
「そういう事になるかもしれませんが、運命ですから仕方ありません」
「もしや、私が冥獣である事をお忘れなのでは」
「まさか。あり得ません」
「貴方の魂を喰らうかも」
「貴女のように美しい方に喰われるならそれも悪くないですが、残念ながらそれもあり得ません」
嬉しそうに話す御倉一律をしばらく見つめて、白い少女は細く長く息を吐いた。
「……勝手にしてください」
「そうさせて頂きます。早速ですが、貴女の名前を決めましょうか。何か希望はありますか」
「希望などありません」
「そうですか。では……」
足を組んだ御倉一律は一人うんうんと呟き始め、時に手帳に何か書き込むなどしてしばらく、再び白い少女に目を向けた。
「白亜にしましょう。白の亜種と書いて白亜です。うん、いい。我ながら実に美しい名付けです」
「そうですか」
白い少女――白亜は分かりやすく無関心を示して微笑んだ。しかし御倉一律はまだ満足げなまま、スマホを取り出し耳に当てた。
「少し早いですが課長に報告しておきましょう。私物を持ってきてもらいたいですし。ここは普通の人間だと辿り着けませんが、課長ならおそらく大丈夫でしょう」
「その方なら私を殺してくださるかもしれませんね」
「まさか。そんな事はできません。課長にそんな力はありません」
「私は何の抵抗もしませんが」
「僕に勝てる力がないという事です。……あ、課長。おはようございます」
冥獣対策課課長、七条愛理。
豪速で投げ付けられた五百キロ程度の鉄塊を、正拳突きで撃ち落とす女。
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