冥獣殺しと冥喰らいの少女
アキラシンヤ
始まりの物語・冥獣『ミノタウロス』
「ゴォォォォォォォォォォッ!!」
丑三つ時、シャッターの並ぶ商店街に獰猛な叫びが響いた。
盾に護符を貼った多数の制服警官が取り囲んでいるのは、牛頭にして巨躯なる冥獣。牛の頭ながら鋭利な牙を剥き、冥獣は燃え盛る火炎を吐き散らす。
制服警官達は反射的に退がるが陣形を変えない。炎に照らされた顔には汗と恐怖が滲んでいた。
緊張が、張り詰めていた。
「みんな頑張って! 先輩が来るまで持ちこたえて!」
「応ッ!!」
シャッターを背に冥獣を追い込み、半円に取り囲む制服警官達に激を飛ばすのはまだ若い女性の制服警官――七条愛理。半円の少し外、パトカーのそばでスマホを耳に当てながら牛頭の冥獣を注視している。制帽は被っておらず、肩まで落ちた黒髪は乱れていた。
冥獣を塞ぐように計七台、パトカーで臨時の防線は張ってある。だが巨躯にして俊敏なる牛頭の冥獣に効果があるようには見えない。人の胴ほどもある腕、その気になれば車ぐらい軽く持ち上げるだろう。
所轄外からの応援には、まだ時間が掛かる。
「もうっ! どうして先輩出ないのよっ!」
七条愛理はスマホを睨む。
映るのは接続中の文字と、御倉一律という名前。
静かな暗闇にぽうっと優しい明りが灯り、パッヘルベルのカノンがゆったりと流れる。枕元に置かれたスマホからだ。
ベッドからにゅっと手が伸び、手探りで着信を切る。
すぐにまたカノンが流れ始め、パジャマ姿の男――御倉一律はがばりと身を起こした。髪は乱れているが端正な顔立ち、全体的に線が細い。
御倉一律は着信にタッチし一方的に告げる。
「今何時だと思ってるんですか。勤務時間外には連絡しない契約だったはずです」
『やっと出た!! 元町商店街Aランク冥獣、至急応援お願いします!』
「お断りします。勤務時間外です。あなた方で対処してください」
『それが無理だからお願いしてるんですっ! ふざけてないで早く来てください!』
「市民の模範となるべき公務員しかも警察に法を破れと? 労働基準法だって立派な法律なんですよ」
『うるさいっ!!』
七条愛理の絶叫に御倉一律はスマホを耳から離した。
一転、七条愛理は氷のように冷めた声で言う。
『分かりました。現時刻をもって私が先輩を雇います。速やかに対処してください』
御倉一律はニヤリと笑い、銀縁の眼鏡を掛けた。
「ご契約ありがとうございます。それでは可及的速やかに」
『最速でお願いします!』
通話を切り、御倉一律はいそいそとベッドから出、部屋の明りをつけた。
一人で泊まるには広過ぎるホテルの一室だ。大きな窓からは百万ドルの夜景と称される神戸の夜が見下ろせる。
御倉一律はまず洗面所に向かった。どれだけ急ぐといっても、まずは顔を洗い髪を整えなければ始まらない。
それからスーツを選びシャツを選びネクタイを選び靴を選ぶ。思い出したようにフロントへ電話を掛け、タクシーを回しておくよう伝える。着替えてからも姿見を見ながら全体の調和をじっくり確かめる。
御倉一律とは、そんな男だ。
一方、元町商店街は燃えていた。
牛頭の冥獣はアーケードに届きそうなほど高く跳び、一台のパトカーを踏み潰した。ガソリンの炎をものともせず、浮かぶ巨影は恐怖の権化だ。
無理だ、制服警官の誰かがそう零した。
「諦めちゃだめ! あんなのを街に向かわせる訳にはいかないの!」
一キロほどの商店街に範囲を区切り、人払いは済ませてある。だが、それを突破されたらどうなるか。東には朝まで賑わしい三宮繁華街がある。被害規模は予想だにできない。
しかし、牛頭の冥獣はこの場を去るつもりはないようだった。踏み潰したパトカーをべキリと半分ほど引き千切り、闇の深い二つの眼でもって七条愛理を捉えていた。
「ゴォアァァァァァァァッ!!」
咆哮と共に、鋼の塊が七条愛理に向けて投げ付けられた。
課長! 誰かがそう叫んだ。あるいは悲鳴を上げた。
一直線、高速で迫り来る鋼の塊を見据え、七条愛理は逃げる事なく深く腰を落とし。
「――人間を」
弓を引き絞るように、右拳を構え。
「舐めるなッ!!」
断!! と、正拳突きで鉄塊を撃ち落とした。
くの字に折れ曲がりガランと大きな音を立てて落ちた鉄塊を無視し、七条愛理は叫ぶ。
「包囲再編! ぐずぐずしないっ!」
「おっ、応ッ!!」
「いや、包囲は無理じゃないでしょうか」
突然の声に七条愛理が振り返ると、そこには細身のダークスーツ――あるいは喪服に身を包んだ御倉一律が立っていた。シャツと銀縁の眼鏡を除き靴まで黒尽くめだ。牛頭の冥獣を興味深そうに見つめている。
「それにしてもミノタウロスだけとは珍しいですね。主を護る性質が歪んだのか、それとも」
「先輩いつの間にっ!? さっさと片付けてください!」
「少し調べたいところですが仕方ありませんね。契約ですから」
そう言って御倉一律はジャケットの中から銃を取り出した。日本警察で採用されているものではない、赤い銃身の拳銃だ。
牛頭の冥獣に銃口を向け、躊躇いなく引き金を引く。
火薬による発砲音はなく、稲妻のような閃光が商店街から闇を拭い去った。
目を焼くような鮮烈な光が消えた時、牛頭の冥獣はもうどこにもいなかった。
「ミノタウロスの消滅を確認。あとはお任せします。料金は深夜手当も込みでいつもの口座に。それでは」
あっさり、あまりにもあっさりと。
日本は兵庫県、神戸市に多数の冥獣が現れ始めて数か月。専門家の指示のもと設立された冥獣対策課の面々が防戦一方だった牛頭の冥獣を、一撃。
しかし何事もなかったかのように御倉一律は踵を返し、七条愛理に背を向けた。
ガソリン火災は今も続いているが、それは彼の仕事ではない。
「せっ、先輩っ!」
七条愛理の声に御倉一律は振り返り尋ねる。
「まだ何か? 明日も九時から仕事ですので手短にお願いします」
「いえ、あの……いつものホテルですよね? お送りします」
「結構です。外にタクシーを待たせてありますので」
七条愛理はまだ何か言いたそうな様子だったが、御倉一律は構わずに去っていった。
少しの間を置き、七条愛理は燃え盛るパトカーだったものに目を遣り、ため息をついた。
「……報告書、書かないとなぁ」
遅過ぎるサイレンが聞こえて、牛頭の冥獣事件は一旦幕を下ろした。
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