エピローグ

(前)

 戦いが終わり、数月が過ぎた。

 少年少女が地獄の業火の中で出会い、ちょうど一年という辺りのその日、ネロは灯浄空港にいた。


 規模こそ大きくはないが、西日本の玄関口ともいうべき空港である。

 外国人観光客もよく利用するため、内装は清潔感があり、かつフェリー船浮かぶ美しい海と、滑走路。空へと間近に飛び立つ旅客機とを眺めることができる。


 旅行カバンを肩に担ぐようにしてそれら陸海の旅路を見遣っていたネロは、ふと視線を背に感じて顧みた。

 最上階の展望テラス。その片隅で、車椅子の老人が手を振っていた。

 少し引っ張り出すには早そうな厚手のブルゾンに、毛糸の帽子。とてもつい数か月前まではオーダーメイドのスーツに身を包み、時として銃火に身をさらし、社会の表裏双方の面に影響力を及ぼしていた金融機関の長とは思えない。


「よう爺さん、見送りかい」

「リタイアを決めてからやることもなくて暇でね」


 だがそうと見えず、誰にも注目されないあたりが、この老人、白泉内記の狡猾なところであろう。

 混乱の真っただ中、一応は責任を取るかたちで、しれっと自身を免職した。

 その後、ネットに放出された裏情報の全体的な輪郭を世間が掴みかけていた時にはすでに老人の影などなく、槍玉に挙げられたのは両トップが逮捕された警察機関と赤石グループであった。


 だがそれでも、内部からは相当なパッシングがあったに違いない。四半世紀をかけて築き上げてきた、彼がもっとも大切にしていたという信頼、人望。そのことごくを喪い、晩節に人生の汚点のことごとくが露呈した。

 そしてそれこそが、この老人の最大の罰であるはずだ。


 彼に限らず今なお、この事件の傷跡は深い。

 犯罪は軽重を問わなければ現段階で前年度の三倍に増加。検挙率は三分の一にまで低下し、司法、行政、金融、あらゆる方面で完全に人員が払底していた。

 この街は……黄金都市は、あの時を境に急速にその輝きを奪われて失陥しつつあった。


「爺さん、あんた託されたデータにこんな細工がされていたって、知っていたか?」

 内記は答えない。機密保持は、なお活きているのだろう。

 それに、たとえ知っていたとして、やはり死んだ男との約定は守り抜いただろう。


(その死者は)

 赤石永燈は、この結果まで読んでいたのだろうか。

 娘に宿阿を取り払った故郷で暮らしてほしい。本当に、ただそれだけのために?


 買いに向かわせていたらしい。地位や名誉を喪ってなお、忠節を尽くすつもりらしい。紙コップを持ってきた束本女史が、主人同様にやや野暮ったい恰好でエレベーターより現れた。


「じゃ、ごくプライベートな質問」

 目礼とともにそれを受け取った内記にそう前置きして、ネロは続けた。


「あんたから見て、赤石永燈ってのはどういう男だった」


 その問いに対しても、老人は黙秘した。いや、しようという心構えでいたようだったが、彼らの間をふいに通り過ぎた子どもと若い両親とが、何かの拍子にその向きを変えたようだった。


「真面目な男だったよ」

 内記は言った。

「言ったこと、心に誓ったことは必ずやり通す。それこそ信頼のできる男だった。……だが」

 と言葉を濁して、ややあってから続けた。


「そのためにどんな事をもいとわない男ではあった。その前途に何があろうとも排除し、どれほど大切なものを犠牲に捧げようと進み続ける。あくまで個人的な所感だがね、そういう向きのある男だった」


 そうか、とネロは短く答えた。

 ふいに投げた視線の先、彼の手に持つよりも大袋を両手に捧げ持った少女、赤石千明がよたよたと歩み寄ってくるのが見える。


「……なーんで、ヒトの見送りだってのにご当地空港限定グッズを買い込みますかね、あのお姫様は」


 軽く毒づき、それをちょっと負担してやるかと足を向ける。その最中、彼は老人たちに横顔を向けた。


「なぁ……実際のところ、どうなんだろうな?」

「何がだね?」


 言いさして止める。

 今となっては無益な問いであることだし、何より千明の聴覚の範囲に入りつつあった。


「じゃあな。せっかく拾った余生、大切に使ってやれや」

 と労いのみに留め、ネロはその場を小走りに駆け去った。


 ・・・・・


 いよいよもって、搭乗の段となった。

 目の前にいるネロは旅立ちの意向を告げた時と同様に平然と、かつ慣れた様子で、それでいて先に待つ世界の姿を愉しみにしている様子でさえあった。

 そのことが、千明には面白くもない。


「なんだ、まだグズってんのか」

 そんな千明の顔を軽く屈んで覗きこみながら、からかうようにネロは尋ねた。

 まるで赤子扱いだったけれども、名残り惜しいのは事実だ。


「……だって、唐突だよ。『やれることなくなったから、もう発つわ』とか」

「お前のゴタゴタはカタがついたんだ。これで契約満了だろうよ」

「んなことないでしょ。むしろ最近物騒だし」

「それでも、曹鳳象レベルのバケモノどもはいなくなって今暴れてんのはその絞りカスどもだ」

「あと、料理とか掃除とか、まだ翻訳化されてない洋ゲーの日本語化MODの作成とか」

「いやそれお前でやれよ……ていうか異世界人にローカライズ作業させんのやめてくれる!?」


 と言いつつネロは咳払い。

 それを機として顔を引き締めて、話を戻した。


「まぁ安心しろ。完全に力に覚醒したお前を脅かすようなモンはそうそう現れねーよ。使いどころを間違えなければの話だけどな」

「もし間違えたら?」

「殺す」


 ――本当は、軽い冗談のつもりだった。

 甘えと不安の片鱗をチラつかせただけのはずだった。

 だが、ネロは一切の躊躇なく即答した。ジョークでも脅しでもない。きっとこの『職人マエストロ』は、一線の超えた先に立った自分が誤った方向の暗路に足を踏み入れることがあれば、本気で実行に移すつもりだった。


「今回の件で、俺にも色々思うところがあってな。自分の選択に、仕事だからと言い訳つけて逃げてきた結果がイグニシアにオリバーから始まったこの街の崩壊だ。だからせめて、最後にお前のことぐらいは責任を取る。お前が本当に曹鳳象の同類と成っちまったなら、確実に殺してやる」


 ……それでもせめて、その『思うところ』に、わずかにしかめたその眉に、千明自身に対しての感情があって欲しいものだったが。


「そうなならないことを願うよ。まぁそれはともかくとして」

 適当な感じではぐらかしたネロは荷物カバンから何かを取り出した。

 当座の生活品などは、自分のプライベートな『異空間』にしまい込んでいるらしく、カバンの大部分を占めていたのはその、人形だけだった。


 最初にネロが使っていた、ネロ本体だと思っていた、あの猫耳フードのぬいぐるみ。

 病院で目を合わせた寸分たがわず繕い直されたそれを、千明の紙袋の空いたスペースにねじ込んだ。


「せめてものアフターサービスって奴だ。やるよ」

 とだけシンプルに言い残して、さっと身を翻した。すでに搭乗時間の間際であった。その時間配分さえも計算されつくしているようで、またむしょうに、泣きたくなるほど腹が立った。


 ――乗るものか、踊らされて、流されて泣き寝入りして、黙りこくってやるものか。


「ネロ!!」

 荷袋をその場に投げ捨て、声をあげる。彼の名を今生の別れのような、悲痛な調子をもって呼ぶ。周囲が驚き振り返るが、構うものか。


「未練だぜ、千明」

 その少年は足を止めない。その気取った物言いが、なおさら千明を苛立たせた。


「見くびんなこの職人バカッ、どこへでも行きなよ! どうせそれさえ君には必要な仕事なんでしょうが! 僕を殺すのなら……君の判断でそうするのならきっと正しいことなんだからそれでも良い!」


 駆け寄ることはみっともなくて癪だった。

 だからぎりぎり彼を上回る歩幅と歩速で距離を縮めつつ、なお声を張り続ける。

 その言葉に嘘はない。だがこのまま何もしないまま、一方的に言葉や物を与えられるままに見送れば、きっと自分の行動は、この先も何から何までネロの掌上に在り続ける気がした。

 その果てに待つのは……ネロの予測通り、自分の逸脱であるような気がしてならない。


「でも、だから! その『仕事』に対する手数料の前払いと言いますかね、そうはなるもんかとかそんな感じのあれやこれやの証明と言うかですねっ」


 ――そして今、千明は見返してやるというプライドと何か一つでも与えて、彼の中に残してやりたいという欲求を、本音ではあっても自分でも良く吟味していないから支離滅裂な理由をまくし立てながら体現しようとしていた。


 ネロは一方的にまくし立てられた物言いに怪訝を隠さず足を止め、顧みる。

 まさに一気に踏み込むにはベストなタイミング、ポジション。

 千明は飛翔するがごとく勇気をもって踏み込んで、そして自分の一線を越えるべく、ネロの手首を掴んで渾身の力で引き寄せた。近づいた顔に、口に、唇を押し当てた。


 ――ここまでの過程で、それとなく通じるものはあった。自分から伝わる何かがあったはずだ。だからこの行動や気持ちは決して突発的だったり衝動的だったり、一時の舞い上がりではなかったはずだ。

 それでも、千明が自分から行動に出ることは、ネロにとっては予想外であったらしい。彼のターコイズブルーの瞳が、これ以上ないぐらい大きく見開かれた。


 そして、刹那的な衝撃が奔った。その一帯のみ、時間が停止した。

 いや、心情や感覚から来るものではなく……物理的に。

 有体に言えば……前歯同士がぶつかった。

 あるいは外に漏れ聞こえるんじゃないかという、硬い音がした。


「~~~~~~ッッ!」


 ガードやケアのしようのないところに生じた鈍痛に、ふたりは揃って身もだえた。


「ばっかお前バッカ! キスのひとつも満足にできねーのか!?」

「うるさーい! とにかくっ、これで再契約完了だ、良いね!」


 聞いたことのない悲痛な裏声を発するネロに気恥ずかしさも手伝って、くるりと身を翻して言い切った。まったく我ながら何という、下手くそで乱暴なファーストキスの捧げ方であったことだろう。


 今にも駆け出そうとしていた千明を「おい」とネロは乱暴に呼び止めた。


「何?」と振り返る間もなく、彼女の肩は掴まれ、半ば強引に身体の向きを戻された。

 軽やかに、だが抗しがたい力を伴って、まるでアイスクリームをスプーンですくうかという扱いで。


 ネロは、千明の顎を摘んで唇を奪った。触れるか触れないかという、微妙なタッチで。

 それでも千明を襲った衝撃は、今度こそ感覚的なものだった。

 一気に血流はうなじから急上昇し、髪の毛が逆立つ。


「こういうのは、ちゃんともらっとかないとな」

 バババ、と吸われた唇より震えた呼気を断続的に発する千明に、ネロは不敵に笑い、固まる彼女の隙を突くようにしてさっと搭乗口へと消えていった。


「……めっちゃ慣れてやがる、腹立つ」

 もはや引き留める名分も理性も少女にはなく、ただゴシゴシと袖口で口を拭い、悔し紛れに恨み言を呟くのだった。


 ・・・・・


(ま、あのオマヌケ小心っぷりなら、大それたことなんてそうそう出来ねぇだろ)


 乗った飛行機がすでに空に打ち上がってから、ネルトラン・オックスはそう考えた。

 考えはしたがそれでも一抹の不安は拭いきれない。またその一方では、それが現段階では杞憂に過ぎないとことも知っている。

 他に優先すべきことは山積している。

 グラシャからの逃亡。ともすればこの世界への侵攻さえ考慮に入れている彼女と自分の故国に対しての、迎撃の準備。

 ……そしておそらく生きているであろうの追跡。


 それらを考えると、さしものネロでも気が滅入る想いだ。


 ――だが。


 歯に残る長い痛み。唇に残る甘やかな柔らかさ。

 それを指でなぞり上げながら、咳き込みにも似た呼気がつい漏れた。


「なにニヤついてんだ、薄気味悪い」


 ふいに隣からかかった罵声が、持ち直した気分に水を差した。

 離陸から海上に出るまで、二人分取っていたその席には誰も座っていなかったはずである。

 にも関わらず、そこには黒髪の少年、黒文が座っていた。


「チケットちゃんと買ったんだろうな、チンピラ」

 いつもの仏頂面に戻ったネロは、皮肉で返した。

「お前こそ、パスポート偽造だろうが異世界人」

 とこれまた冷ややかな皮肉でレシーブを打たれる。


「約束を果たせ。このまま高飛びなんて許さないぞ」

 と、獣の少年は瞳を険しく歪めて凄んだ。


「わーってるよ。一度引き受けた仕事はちゃんとやる。ただ、今はまだ気分が乗らん。『職人マエストロ』ってのは、まぁそんなもんだ。どうせお前の方は急ぐ旅でもねぇだろ」

「……この際だから言っておくけど」

「なんだよ」

「『マエストロ』を『職人』ってニュアンスで使うこと、あんまないぞ」

「………………マジか」


 かくして再び追われる身となったネルトラン・オックスではあったが、かつて国家犯罪者であった時とは違い、孤独ではない。

 心も体も遠く離れてようとも仲間がいる。打算で付き合う伴がいる。

 

 彼らであれ、敵であれ、よく分からない意図で動く暗部の者たちであれ、きっとそれぞれが回り続けていれば、いつか歯車が噛み合う日が来るだろう。


 そう信じて、自分も自分の役割を果たし尽くそうと、ネロは決心を新たにした。


「……『職人《マエストロ》』としてな!」

「いや、だから使わないって」

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