第10話
あるいは、初めて車を運転する時が似たようななのだろうと千明は思う。
アクセルとブレーキのペダルの存在とその役割は知っている。ハンドルを左右させれば、それに合わせて車体も動作するということも。
だが、基礎の知識や最低限の技術を蓄えていたとして、それでいきなりハンドルを握り渡されても運転など満足にできようはずもない。
特に今の心境は、高級外車のキーを渡されたペーパードライバーと言ったところだ。
出来ることは、選べることは、進むことと、止まること。
その二択以外の微細な操縦は、まだ出来ない。
それでも、いつかは出来るようになるだろう。なんだって、可能になる。どこへだって行ける。
そしてその度に、自分は人ならざる領域に進んでいって、いつかは戻れなくなる。人の為し得ざる業を身につける代わり、人以外のモノに成りつつある。
「――それについてはもう腹をくくったぁ!」
何度だって言う。
今のように何度となく立ち止まって思い悩むという妙な自信があるから、その都度言い直す。
そして繕い直した覚悟とともに、翼を広げ、燃やし、空間を跳ぶ。
その覚悟に問題があるとすればそれは、
「全っ然技術が伴ってないことだぁー!」
結果、『跳び』過ぎた千明は相対するはずの鉄人の背後に回り込んでいて、天地が逆転した世界を認識するよりも先に地面に落下して転がる羽目になった。
「ううう」
唸る少女の頭上に、鉄拳が閃く。
慌てて跳んだが、行き過ぎてレールと背中とが激突する。
まるで馬力が違う。力の加減が分からない。
だがそれでも、やれることが分かる。取るべき手段は際限なく湧き上がるこの力が教えてくれる。
問題は、その精密さだ。
感覚としては自分を全力で投げつけたボールとして、塀に開いた穴を通過させるという具合だろうか。
今は不慣れな自分でも、近づけば近づくほどにその精度は増す。
問題は、その穴にどこまで接近できるかだ。
断続的な空間跳躍とともに、それを試みるも、そもそもそのジャンプそれ自体が不安定なのだ。進んだり下がったりと出るタイミングもまちまちで、一跳び一跳びの集中力が欠くほどにそれはひどくなっていく。
ようやく前面に躍り出ることが出来たかと思えば。それは眼前も眼前、拳も拳の前である。
折り曲げた一指が魔法少女の横幅に相当する。
逃れられない。潰される。
だがその拳の軌道上より、少女の姿は消えた。浮遊感とともに彼女を救ったのは、またも黒い獣だった。
その獣、言わずもがなの黒文は、ジグザグと蛇行しながら敵の追撃をかわしつつ、距離を稼ぐ。安全圏までに至って時、くわえていた千明を投げつけた。
〈……報酬分以上の仕事をさせるな〉
と苦言を呈する彼に、千明は苦笑した。
「なんだか、ネロみたいな物言いだ」
やはりなんだかんだ彼の乱暴だが嫌味のない正論は、人格的影響を及ぼすのだろうか。
〈あいつも苦戦中みたいだけどな〉
獣の面のまま、ふと目を逸らす。表情は見えなくとも、愛嬌めいたものは感じられる。
ただその一方で、外した視線の先にいるネロもまた、確かに苦闘の最中だった。
あちらの世界のものであろう金属で防護されたスーパーロボットは、地上空中を問わず縦横無尽に暴れ回り、
むざとはやられないはずだが、街の被害もこのままでは馬鹿にならない。
「黒文くん」
千明は傍の獣人の名を呼んだ。
〈なんだよ〉
「ネロを手伝いに行って欲しいんだけど」
〈はぁぁぁぁ!?〉
彼の不満と呆れの問い返しも無理らしからぬことだった。
彼はネロに指示されてここに来たと言った。
だがそれがクーリングオフよろしく突き返されたのだから、文句のひとつやふたつあることだろう。
思わず頓狂な声を発してしまった自身を恥じたのか。わざとらしい咳払いが獣面の奥で聞こえてきた。
〈けど、お前一人でどう接近するっていうんだ、あんなの相手に〉
わずかに落ち着きを取り戻した彼の指摘はもっともだった。あの巨体相手では、不安定な力を使っての単独突破は難しい。そのことを、今までの経験とここまでの戦闘で実感として確信していた。
だがそんな両者の間に、一台の車が停車した。
運転するのは、五龍恵紫門である。
その彼が、窓より半身を乗り出して「乗れ!」と鋭く声をあげた。
「えっと……どうします?」
〈そんなことお前が決めろ……と言いたいが、乗るべきだろう。ふつうこういう
「ええい、オトコノコめ」
とは言え手段は他にない。
なるようになれと、不審は頭の片隅に追いやって承諾し、乗車する。
ただし身動きが取れなくなるからシートにではなく、そのまま車の屋根の上へ。シートベルトはご勘弁。
「それで、このまままっすぐ敵の懐に飛び込めというわけか。そうすれば、アレをどうにかできるのだな」
ネロのところへ戻る黒文と入れ替わるかのような車の急発進。それに耐える千明に、足下の署長は確認した。
「はい、それも思いっきり、出来る限り近く」
自体が自体なので誇張も遠慮もない、等身大の感覚を風音に遮られない声量で伝えた。
再び敵の射程内に彼らは飛び込んだ。
当然、マヌケにも戻ってきた最大の標的相手に、間断無い攻撃が再開された。
「無茶を言ってくれるっ」
舌打ちを交えて毒づいたがそれでもハンドルを切り回す腕捌きは、荒事に慣れ切った、卓越したものだった。
法定速度には違いないが、わずかも速度を落とさず突っ込んでいく。
手数、一撃。技巧、力任せ。
腕から、触手から繰り出される多様性に富んだ猛攻を、ただドライビングテクニックだけですり抜けて、無限にも等しかった距離が目に見えて縮まっていく。
その波を凌いだ後、やれやれ、と言った調子で彼は深く息を吐いた。
「まったくお前らと戦っていると退屈しないで済む」
「……いや、なんか歴戦の味方アピールしてますけどつい数分前まで僕ら初対面かつ敵でしたよね!?」
結局何度か助けられてはいるものの、流石にそこにはツッコまざるをえなかった。
進路のすぐ前に、鞭のようにしなった触手が叩きつけられる。進むべき先を失って、車は急停止した。
だがこれで良かった。すでにこちらとしても射程内だった。
慣性に従い、千明が車より前方に振り落とされる。否、射出された。
可能な限り姿勢をまっすぐにして投影面積を小さくすることで空気抵抗を無くし、加速を十分なものとする。
触手が彼女に襲い掛かろうとも。そして実際にその服や肌を薄く切り裂こうとも、痛みに耐えて振り切った。
既存の物理法則に従うのはこれまでだ。
嵐の中のエアポケットとも言うべき地点へと到達する。だが安堵を感じている暇など元より一分もない。
すでに背より敵の攻撃が回り込み、無防備なその身体を貫通しようとしている。
必要なのは一回分の深呼吸。そして全身全霊の集中。自らを穴に通すそのイメージ。
それらを経て、魔法少女は最後の『跳躍』を行った。
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