第4話

 ――自分のことを、憶えているか。


 どこか挑むような問いかけに、フルネームを言い当てられたネロは、しばらく黙り込んでいた。

 ややあって、少し視線を外して己の手首、袖と手錠の合間の陰影をじっと見つめながら、


「……『お前』か」

 とだけ言った。


 谷尾は軽く鼻を鳴らすと、脚を組んでふんぞり返った。


「そうか。さすがに自分が免職クビにした祖国の技術顧問ぐらいは頭に入ってるかよ。……そう、ご承知のとおりオリバー・アローテイルですよ公王陛下。いや、『元』という接頭語が要りますなぁ」

「で、職がないからこんな場所で小者のお世話係にまで零落したってわけか。ドロップアウトした同郷人としてワインのボトルでも空けてやりたいところだが、あいにくと栓抜きもボトルもグラスも持ち合わせなくてな」

「お気遣いどうも……でもね、そりゃ無用の世話ってもんですよ。何しろあんたが今そんな風になっちまったのは、俺の根回しによるもんなんですからね」


 自分の性質を読んで先回りした、ゆえに赤石は自分たちを捕縛することに成功した。

 ……というニュアンスかと思ったが、どうやら得意げ満面の様子ではそうではないらしい。

 となれば、言わんとしていることは一つだ。


「あぁ、お前か。グラシャ・ブランツィアに讒言のネタを提供してくれたのは」

「枢機卿は聡明な御方だ。あんたと違ってな。たかが数年単位の『ポケットマネー』を咎められたぐらいで俺ほどの才が世に埋もれることを恐れ、またあんたを引きずり下ろすための切り札として、この世界に身分を用意して匿ってくださったのさ」

「……で? 『お前』は何しにここに戻ってきたんだ? て、聞くのも馬鹿らしいか」

「言うまでもないことだろ? あんたが逃げた後、その逃亡先の候補に回り込ませた網の一本として俺がここにいる。そこにお間抜けにも引っかかる最上の獲物がいたってわけ」


 ネロは哂った。可動するかぎり手を叩いて、その能天気さを皮肉を交えて称賛

した。


「本気でそう思ってるなら、まったく似合いの主従だよ……赤石永秀と」

「なんだと?」

「まぁそりゃいいが、問題はその赤石のことだ。聞きそびれてたが結局、永燈の遺産ってのはなんだったんだ?」


 谷尾歳則あらためオリバー・アローテイルはニヤついたままに答えようとしない。自分で考えろということか。あるいはこれから死ぬ人間に刑事ドラマよろしく答える義理はないか。

 どちらにせよ、悪意に満ちた表情には違いない。


 ネロはふたたび視線を落とした。手錠を揺らし、そこに出来る微妙な影の動きを目で追いながらアァ、と声を漏らした。


「――そういうことか。いや予想の一つには入っていたがな」

「なに?」

「まさか赤石の情報とはな。たしかにそれが固有の兵力を持たない赤石の対抗手段になっていたわけだ」


 あっさりと真相にたどりついたネロを、オリバーは薄気味悪そうに見返した。

 警戒したのかもしれない。魔術でもって自分の内心が読まれているのではないかと。

 あらためて防御性の魔術プログラムを組み直した気配が、車内を駆け巡る。

 その徒労に思わず失笑をこぼしながら、ネロは忠告した。


「じゃあ、そっとしといた方が良いってご主人様に電話しておけ。その遺産は多分、赤石永燈が用意したパンドラの箱だ」


 ・・・・・


 もう一方の車内は、いたたまれない空気になっていた。

 残酷な事実に打ちひしがれ、何者をも正視できないでいる赤石永秀の浅い呼吸の繰り返しが、ただ響いていた。

 それがあまりにも見ていられない無残な有様すぎて、何かを言うことさえ躊躇われた。それでも、言わねば話が進まない。終わらない。

 だから千明は前へと踏み出した。


「……もう、止めよう。叔父さん。こんなのもう意味ないよ」


 そう言ったは良いものの、これより先の具体的な結末が見いだせないでいる。

 適当な場所で解放してもらい水に流すか。警察に出頭……そもそも隣の人が警察の元締めだった。

 とにかく千明の方から事をこれ以上荒立てるつもりはなかった。呆れと虚しさから、そんな気さえ、起きなかった。


 力なく見返す叔父ではあったが、皮肉にも、千明が埒を開けたことでその隣で黙っていた五龍恵が口を挟んだ。


「要らん、というのなら俺がもらう。あんたには無用のもので、その意義の大半が喪われたとしても、その残りは我々警察にとっては有用だ」


 恐喝ともとれるその言葉に、怒りとともに永秀の目の色が蘇ってくる。


「……てめぇ、同じ穴のムジナだろうが」

「勘違いされては困るな。私はあくまでこの街の均衡のため、犯罪率の管理のためにあんたがたに加勢している。そのために悪党と手を結ぶこともいとわないというだけだ。先代以前はどうだったか知らんがな」


 叔父に向ける視線には、一点の曇りもない。何人もの怪人悪党と命のやりとりをしていた千明には何となくわかる。その眼力は、彼らの殺気に相通ずる部分がある。本気で、それが灯浄の為になると信じているようだった。


 だが自分にその眼が向けられたことが、なおさらに叔父を頑なにさせた。

 聞き分けのない子どものようにかぶりを振り、そしてノートPCを取り寄せた。件のメモリの端子を小銃のマガジンのようにその脇の口に差し込む。


「叔父さんっ」

「うるせぇっ! ……うるせぇ」

 必死に止めんとする千明を、彼は拒む。

「こんなの……こんなの叔父さんのすることじゃないよっ!」

 なお食い下がる姪の言葉に耳を貸さず、まるでカルネアデスの板のごとく、キーボードにかじりついて入力を始める。


「どいつもこいつも好き勝手言いやがってっ! 勝手に押し付けておいてどいつもこいつも離れていきやがって!! 器じゃねぇ? 実力不足!? んなことは俺が一番分かってんだよっ! でも無理やりやれって言われたんだよ!! じゃあどうすりゃ良かったんだよ!? 一体何ができたってんだっ! 答えろォ!!」


 その言葉は底からの慟哭。おそらくはずっと立場が吐露することを許さなかった絶叫。

 最後の最後になって決壊した感情とともに、入力画面の千明の鼻先に突きつける。


「つめこべいわずやることをやれっ! いまさら勿体ぶってんじゃねぇぞ!?」


 言われずとも、やる。拒む気さえ起きなかった。もはやそれをしたところで、自分には損にも得にもならないことなのだから。


 千明は文字だけを拘束された指先で、不器用に打ち込んだ。

 その打たれたキーを一個一個目で追うごとに、叔父の表情は呆れを深めていく。


「なんだ、この数字は……!?」

「ウチの前の車のナンバー。僕が決めたから覚えてたんだ」

「……ふざけんな……彼氏のスマホ開けるんじゃねぇんだぞ」


 おそらくは番号自体は、永秀にも心当たりがあるものだったのだろう。だからこその憤慨だ。

 自分は、そんなも数字の羅列のために、今まで頭を痛ませていたのかと。

 

 しかしそう詰られてもこれが白泉老から口伝てに教えられた答えなのだから信じてくれとしか言いようがない。

 そもそもは叔父にもおそらく継承権があって、そのために自分を消そうとしたのだから、彼自身が知る情報でないといけないだろう。


 それはそれとして、たしかに内容物に比べロックがあまりに緩いのも事実だ。

 その違和感に対して、千明はひとつの推理を立てた。そしておそらくそれは当たっていて、そのために忠告する。


「あとはエンターキーを押すだけだろうけど、やめておいた方が良い」

「あぁ?」

「……きっと、誰でも良かったんだ。開くのは。でもきっと、本当は自分で終わりにしたかったんだと思うその次に来たのが、僕で、叔父さんだったってだけで。下手をすれば他の連中にだって」

「何を訳のわかんねぇこと言ってやがる! 寄越せッ」


 話を聞く一時さえ惜しみ、叔父はマシンをもぎ取った。


「終わらせたかった? じゃあ俺が終わらせてやるよっ! これで何もかもおしまいだぁっ!」


 おそらくは父の亡霊に怒号を飛ばし、勝利の優越をもって歪に笑い飛ばし、彼はエンターキーを押した。


 次の瞬間、彼の表情が凍りついた。上昇していた血の気が抜けて、顔色が真っ白になっていく推移が見て取れた。


「おいっ」

 その尋常ならざる様子を見て、五龍恵がその肩を揺さぶる。


「何が入っていた!? フェイクだったのか」


 そう言っ河面を横合いから覗き込んだ彼も、同じような流れで表情を冷たく硬いものとしていった。


 彼らが見ているのは、本物のデータだったのだろう。

 問題は、彼らを唖然とせしめたのは、ということ、その一点に尽きた。


 それをモニターの見えない千明から確認することはできなかった。それでも予測はついた。そしてすっかり青ざめた薄い唇で、永秀が忘我したままにか細く言葉を紡ぎ、ワンテンポ以上遅れて五龍恵の問いに答えた。




「……内部のデータが、ネット上のあらゆる場所ににアップロードされた……」

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