第2話
「こっ……」
少年の冷たい眼差しに抉られる心地で、頬が強張る。
それを無理やりに笑みの形に作り替えて、千明は片手をぎしぎしと持ち上げた。
「コォンニチワー」
「なんで片言なんだよ。ていうかそいつ、おもっきし日本語喋ってたけどな」
ネロが脇からツッコミを入れる。対する反応は薄く、黒文はただ冷笑するばかりだ。
「日本語程度、マスターしている。英語もろくに読み書きできずにマイナーな母国語しか喋れない国民が大半なのに先進国を気取ってるのは、お前ら日本人ぐらいなものだ」
「えぇ……なんか唐突に差別発言し始めたんですけどこのコ……」
「気にすんな」
ネロはダイニングのチェアに腰を下ろして、少年を揶揄するように見返した。
「どうせ、お前だって母国語はジャパニーズだろ」
少年の表情から笑みが差し引かれ、冷たい敵意だけが残った。
「大方、日系の二世三世のそのまた炙れ者の
「黙れ」
「黙るさ。俺が言いたいことは言い切ったからな」
沈黙が流れる。
ここは自分の家なのに、どうしてこの居候たちは迂闊に触れるとまずい問題に足を踏み入れ、ノーガードで言葉の殴り合いをしているのだろう。
そう思わないでもなかったが、そこに千明の介在できる余地がない。
ソファの上にすごすごと戻り、身をかがめるよりほかなかった。
「けど、お前の方こそ、何か言いたいことがあるから死体抱えて留まってるんだろうし、そこのお人よしに言わなきゃならねぇことがあるだろうが」
……と思ったらネロがわざわざご丁寧で行先指定で飛び火させてくれた。
ますます委縮する彼女を脇目で睨みつつ、
「安心しろ。師父のご遺体は、すでにない」
「え、ない?」
「あぁ、俺が飲み込んだ。……これからは、その三魂七魄は我が心身と共ににある」
「飲み込んだ!? そんな、パズルのピースじゃあるまいし!」
「いや、パズルのピースも飲み込まねぇよ」
だが彼の宣言どおり、あのボスの肉体は千明のベッドからすでに消え失せていた。
葬儀屋を呼ぶ費用と手間と気苦労が省けた……と思いつつも言うのはさすがに不謹慎に過ぎるので止めた。
「また便利な能力だな。人間の死体の処理も跡形なくか。そりゃあ可愛がられるわけだな……便利な愛玩物として」
「うるさいっ! ……俺にとっては、『泰山連衡』こそが、家族だった……っ」
「鳳象さんも?」
思いがけず、問いが突いて出た。
だが千明が覚悟したような劇的な反応は見せず、ただ悲嘆に唇を噛みしめて、黒文は俯く。
「……素直に、言えば、兄だと思ってた。思ってたのにっ」
しかし実際は、曹鳳象はこの少年を弟だとは思っていなかった。理解者とも考えてはいなかった。
平然と切り捨て、蔑み……いや、憐れんでさえいた。
彼にとっては、無邪気に滑車を回して寿命を空費するハムスター、もしくは家の裏で残飯をあさる野良犬程度でしかなかったのだろう。
「なぁアンタ……その魔導の力を俺にもくれよ!」
唐突に、黒文はネロの肩にかじりつくように寄った。
迷惑そうな様子にも気づかず、畳みかける。
「その女の霊装だって自分の武器だって、アンタが作ったんだろ!? 金はいくらでも払うし作る! だから、俺を強化してくれ!」
「……それがここに居ついた目的か」
ネロは溜息をともに少年の手を振り払った。
「やだね、気分が乗らない。第一カネ積めばなんでもやらせられるって魂胆が気に食わねぇ」
どうやら彼の物言いは、ネロの職人気質を悪い方向で刺激したらしい。
椅子を逆向きにして座り直し黒文からは背を向け、頑なに拒絶のポーズを取る。
そのうえで、呆れたような横顔だけを彼に向ける。
「あの鬼も言ってたろ。復讐の道に入るのなら次こそ容赦しないとかなんとか」
「……望むところだ」
「勝負に引きずり出したって、装備だけ強くなったって、絶対にお前じゃヤツにゃ勝てん。復讐だの仇討ちだのってのは、奴の道だ。その領域だ。いくらグローブを新調して同じリングに立ったからって、入門生がプロボクサーとの差を簡単に埋められるわけねぇだろ」
ネロなりの助言を呈すると、少年はそれでも承服しかねるようだった。
「それにそんな身を滅ぼすような復讐なんてしたって、お師匠さんは報われないよ」
「貴様に何が分かる!?」
何気なく放った千明の所見に、黒文は今度こそ過剰に反応した。反転して彼女の方へ足早に詰め寄り、睨みつける。
「……分かるよ」
千明は逆上も悲しみもせず、淡々と静かに答えた。
「僕の両親は、叔父さんに……家族に殺された。生きたまま身を焼かれて」
少年の黒瞳が今まで失念していたその事実を告げられ、大きく広まりそして歪む。
「だから、似たもの同士なんじゃないかな。君と僕とは」
「……似ているもんか」
ひとまずの怒りは引っ込めて、少年は目を逸らした。
「その目、此処に在るのにどこか別の地点を見つめた目……曹鳳象にそっくりだ」
「…………ヤナコトイワナイデヨー」
千明、またも片言似非外国人になった瞬間であった。
――実際のところどうなのだろう。
千明自身は、決して相容れないとは思っている。だが、黒文の指摘した部分にそれとない自覚があることもまた事実だ。
自分の人生はまだ始まらない。現状を見ることにどこか浮足立っていることに、そのことが一枚噛んでいるのだろう。
だが、どうすれば区切りなのだろう。どこから始められるのだろう。
混沌とした状況において、その問いは後回しになり続けて保留され、未だ光明は見いだせない。
「そもそも、俺と似ていると自称するならわかるはずだ。親の無念を晴らそうとする気持ちを。家族だからこそなおさらに仇が許せないという怒りも。……貴様には、少しもないというのか」
「……それは」
それについては、すでに答えが出ている。応じようと開きかけた口を、出入り口から聞こえた破砕音が妨げた。
黒い丸太のような円筒を持った巨漢の西洋人が、ブーツも脱がずに、大股で侵入してくる。
ここではないどこかで、見た覚えのある、というよりも忘れることのできない魁偉な顔立ち。そして武器。
次いで土木作業員たちがスコップ片手に現れる。顔は見えずとも、その独特の仮装は忘れようがない。
――
そして最初に襲ってきた『モグラ』たちが十人前後。
彼らに負けず劣らず凶悪そうで、恰幅の良いスーツ姿の男たち。私服警官と言ったところか。
彼らは三者三様かつ瞬時に
「再契約したんだよ。『ファミリー』がケツまくって逃げたから、保釈の口添えを条件にな」
一気に密が増したその空間に、遅れて、かつもっとも親しんだ男が顔を覗かせた。
「叔父さん」
千明は、この中では比較的おとなしい風体の彼との関係性を、あらためて口にした。
知っては、いた。彼らとの関係性を。
だが日常にいたはずの彼と、自分の敵だった男たちとの取り合わせは、受け入れがたいほどに異様に見えた。
「……まったく妙な取り合わせだよな」
自嘲か、と思いきや、叔父の眼差しは千明たちを指している。
「ただの女子高生のはずなんだが、どうしたわけかそんなチンピラ……あ? あのガキどこ行きやがった」
「察して逃げたようだな。捜せ、まだ近くにいるはずだ」
気づけば、黒文の姿は室内から消えていた。
ベランダの窓は開けっぱなしになっていて、上司らしいひときわ強面の男のアゴに従って、何人かが部屋から出ていった。
残った悪党たちは、めいめいの銃器やシャベルをネロの喉元に突きつけて身動きを奪っていた。
千明もまた、それとなくゆっくりと、だが確実にベランダのほうへと足を擦っていく。
そのくるぶしの側を、銃弾がかすめた。
「動くな。通常のガサイレじゃあるまいし、威嚇射撃など期待するなよ」
スーツメンの上司が、拳銃片手にそう恫喝を加える。足のみならず、千明の指先にさえ警戒を傾けているようだった。
「まぁあの黒いガキがいようといまいとどうでも良い。……こうして派手なノックかましたんだ……用件は、分かってるよな?」
こらえきれない怒りを、かろうじて残った理性で抑えつけている。そんな体で、叔父は、引きつったような笑みを浮かべる。
彼に残されていたすべての手札が、今この場で一気にオープンされた。
そしてその開示は、こちらの持ち札をすべて見透かしたということを、憎悪とともに表すためのものだった。
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