第21話
獣の爪が、鳳象の痩躯に迫る。
その初撃を、彼はわずかに体位を変えただけですり抜け、二撃目は片手でそれ受け止めた。
〈何故……っ!〉
獣の唸りの間隙を縫い、少年の声が鋭く問う。
彼の兄弟子であっただろう男は、涼やかな目をして言った。
「何故とは? 師を裏切った理由か、あるいは……君を除け者にしたことに対してかな?」
挑発的な物言い。獣は背の毛を逆立て、さらに猛る。
だが、体格的に圧倒している彼が強くその腕を圧そうとも、曹鳳象の軸がたわむことがなかった。
「後者についてはシンプルな理由だよ。君は……役に立たない」
〈ガァッ……グッ!〉
「師父に対する忠誠心のため? いやいやそうじゃない、黒文、君は弱いんだよ。たとえ人外の能力を持とうとも、この場にいる誰よりもね。実はさっきのアレ、皮肉で褒めたのだけれども、真面目に信じてたのかい?」
誰よりも巨大で殺気をまき散らして爪牙を立てて暴れ狂う凶獣。ソレに対して、彼は死にかけの小動物へ向けるかのような、憐れみの感情を浮かべた。
「力に溺れ、
獣の姿が文字の通り霧散する。
自分も攻撃できない代わり、決して敵方からも触れることのできない、気体の肉体。
それが縦横無尽に、鳳象の周囲を駆け巡る。
瞬間瞬間に獣の爪牙を物質化させて切り刻む様は、嵐そのもの。並の人間が生存を望めない空間が、そこには形成されていた。一歩でも踏み誤れば、それは瞬く間に、ミキサーに入れられたがごとくに、骨肉を攪拌されていたことだろう。
だが、男は生きている。
傷一つ負わず、衣服さえ綻びを出さず、必要最低限の一挙一動でもって、その猛攻を無意味な行動としてしまっている。
「攻撃も直線的。パターンも単調。角度、タイミングもあからさま。何より度し難いのは、今もってなお、そこなネコ君に、追い詰めていたのではなく誘導させられていた自覚がないことだ」
語り掛けながら、回る。独楽のように、黒い旋風の中を。いや、その黒文という名の旋風こそが、彼を基点に踊らされている。
ふいに、その鳳象が逆向きに回った。
さほど力みがあったようには思えない。だがくるりと翻った裏拳の軌道上に、獣の爪があった。それが弾き飛ばされ、逆の手から繰り出された打撃が、仮面を穿ち抜いて少年を引きずり出した。
「君は安物の月餅のようだ。甘ったるくて重くて鈍い。おおよそ侠者の器ではない。老年の師父の悪いところだけを汲み取ったな」
淡々と、ともすれば優しく音調で罵りながら、その手腕は苛烈を極めた。
折檻という言葉さえ生ぬるい。魔法少女が一撃で過去最大級の苦痛を受けた彼の拳が、蹴りが、少年の痩躯を打擲していく。精神を磨滅させていく。
「悪いことは言わない。君は
彼にとって、かけがえのなかった人物を殺した張本人が、諦めろと情緒深く説く。
その屈辱的かつ一方的な締めくくりに、黒文は噛みつく牙を失っていた。嗚咽とともに涙を流して打ち震えた。
前後の事情を見ていない人間からすれば、苦しむ人間に優しく手を差し出す聖者のようにも見えただろうが、実相はおぞましい。
「もういいだろ、さっさと逃げるぞ」
大勢が決したのを見届けたためか。ネロは千明の背を押して促す。だが、千明の身体は動かなかった。自覚のないまま魂が、そこから甲斐なく逃げることを拒絶した。
その意図を、千明自身よりネロが先に察した。
「あいつらは、敵だぞ」
その通りだ。
彼らは亡父の遺産目当てに、ここまで千明たちを追い詰めた。大切な者を傷つけ、さらに多くを殺すと宣言し、現にこうして街に甚大な被害を及ぼしている。
ともすれば殺されていたし、殺しても彼らは罪の十字など決して負うことはない。
逆に自分がそこに介入すれば、一方からは敵意を抱かれ、そして助けようとしている少年は感謝もせず、むしろ逆恨みするだろう。
(それでも)
魔法少女は思う。
(彼は、僕だ)
ついさっきまでの、理不尽に奪われる自分。
あの事故の時の、焼かれる両親を前に何もできず、無力感と悔しさを抱いた自分。
安い感情移入と言われるかもしれない。言われたら、返す言葉もない。
だが、そんな虚言よりも、千明は自身が心動かれたことのために、自分が追い求める
「……こと、わる……!」
そして満身創痍の彼が見せたなけなしの意地が、スイッチとなった。
ネロの制止を振り切って、千明は手元に転送したランタンに心火を灯した。
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