第20話

 今まで不気味なほどに静寂を貫いていた曹鳳象が、ようやくその足を動かした。 

 ただ一歩、続いて連続的に数歩。それだけで、異様な緊張が周囲を制圧する。千明たちも、そして味方であるはずのマフィアたちも。


 だが、敵味方の中間に至った時、ふいに彼はその長い脚を止めた。

 そして身を翻し、千明たちに背を向ける。ひょっとしたら反転して一挙に奇襲を仕掛けてくるかもしれないが、その様子もない。むしろ、悪党たちの射線や敵意から、彼女たちを庇うような立ち位置に身を置いていた。


「鳳象さん……」

 千明はわずかながらに頬を緩ませる。

 それは、千明たちに敵意のない、彼なりの誠意だった。


「鳳象……何をしておる?」

 対して当惑したのは敵のボスだ。

 訝りながらも、部下のその姿勢に非難的に眼を尖らせる。


「くだらんっ、今になって人の情を取り戻したとでも言うのか!? 貴様はただ私の命に殉じる一拳士であれば」


 ころん、と石が鳴った。


 映画を乱暴に切り取ってカットしたかのような、刹那の推移だった。

 しかし後に続いたのは、永久にさえ思えるような、氷の一時だった。


 老人の声は絶えた。赤き華がその肺腑で咲いた。

 ――すぼめた拳が、老宗主の胸を抉っていた。

 一瞬にして間合いを詰められて、一瞬の隙を突かれて。


 その忠良な、部下であったはずの男によって。


「……え?」

 千明の微笑みが固まる。枯れた声が漏れる。

 たしかに自分は彼の翻意を促した。

 悪事に加担することを悩む曹鳳象に、自分の信念のままに生きて欲しいと。

 そして今、それが結実したのだと思った。


 ――だが、これは、違う。

 ここまでは、こんなことは、求めていなかった。


「すっかり御歳を召されましたね、師父。往年の貴方であれば、この程度の不意打ち、たやすく流せましたものを」


 どこか物悲しげに、鳳象は血の泡を吐く老人の耳元で囁いた。

 唖然とするのは千明だけではなかった。もちろん、老人の組織の構成員……そしてそれに属する黒い少年もだった。皆この世の終わりを突如として迎えたかのような顔をして固まっている。


 そして彼らの時は、望む望まずは別として、主人に従い停止させられた。

 一階層上。そこから降ってきた銃弾の雨によって、的確に頭部を貫かれて。

 ネロの足下に組み伏せられた少年を除き、彼らに引導を渡したのは、同じく東洋人の兵士たち。おそらくは、鳳象の直属の部下たちだった。


「そういうことか」

 納得したかのようなネロに、千明は忘我したまま「どういうこと?」と尋ねた。


「クーデターだよ。しかも、今日に至るまでに九割がた完了していたな。お前がどうこう言ったからっていうんじゃねぇ。ハナから混乱に乗じてこれをする肚だった」

 我に返ったら気に病むであろう自分を案じてか、気遣いらしきものを交えてネロは説明する。


「知らぬは本人と、そして……」

 フードの奥のネコの瞳が、量産された死体と、そして自身の足下の少年を見た。


 そして老人は、まだ息があった。否、生かされていた。

 突き破られた肺は、ろくに酸素など取り込めない。ただ逆流する血にむせ返り、溺れるだけの呼吸をくり返す。

 ただ渾身の力で、震える腕で、自信を裏切った男の袖口を掴む。

 伝えたいのは命乞いか、それとも恨み言か。

 鳳象の眼から、憐憫の色が消えた。


「貴方には、今日だけでどれほど失望させられたことか。ここが我らの梁山泊だと? くだらない」


 鳳象は静かに怒ってみせ、そして吐き捨てた。


「我々は隠れなき悪党だ。安住の土地など許されない。どれほどの血を流し、骨を砕き、塵芥と成り果てようとも、僕らは闘争を続ける。国家に、社会に、制度に法に抗い続け、弱きを食らい、強きを挫いていく。それを永続させていく。それこそが、僕らの戦いではなかったのか。貴方が僕に教えたことではなかったのか」


 ――自分がとんでもない思い違いをしていたことを、千明はここに至って初めて知った。

 曹鳳象が掲げるのは、正義でも博愛でもなかった。

 少なからず目的を持っていた、彼の主。それよりも、千明の理解をはるかに超えた、まごうことなき『悪』であったということに。


「だというのに貴方は、戦いに疲れてしまった。信念を放棄しようとした。多きに付き、権力に阿り、停滞と妥協の世界に生きようとした。――貴方はもはや、一拳一心によって大陸の死線を越えてきたおとこではない。この何もかもを歪ませ、我が物とするこのおぞましき島国によって飼い慣らされて腐らされた、ただの老いた豚だ」


 罵声とともに、老人の痩躯から血ぶるいとともに鳳象は拳を引き抜いた。


「貴方に忠義を尽くしたワン師兄はお先にお待ちです。どうか望みどおり、安息の地にて心安くお過ごしください」


 そして一応の体裁を整えた、だが血臭の濃い別辞を贈る。

 それを、残された千明たちは無言で見守ることしかできなかった。


 ――否、それを断じて看過できない立場の者が、ただひとり残されていた。

 彼は、その少年がいち早く、激情によって我を呼び戻していた。

 そしてその烈しさがなせる業か。ネロがこれ以上は無意味と悟ってあえて解放したのか。拘束から逃れて飛び出した。


「師兄……っ、曹鳳象!! 貴様ァァァァァァァァッ!」


 一吼。少年の華奢な肉体がふたたび獣に変異する。

 そして悲痛な声を断続させ、黒獅子は主人の仇を報ずるべく、人面獣心のその男へと飛びかかった。

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