第17話

 自らを墨と化す少年と対決しているネロの眼下、一階で、老人とその女守護者の逃避行が続けられている。


 風を切って旋回する鉄鎖が並居る構成員たちを寄せ付けない。

 もっとも、常人の域を超えた彼らが警戒しているのは、チェーンそのものではなく、それを得物とする束本の手練であっただろう。


 一定の距離近づけさせないまま、彼女はハンデ持ちの上司を護衛しつつじりじりと後退していく。その一振りは、弾丸さえもはじいてのける。

 だがその先に待つのは先と同様に店舗。行き止まりだ。

 束本の無策さゆえか、あるいは敵集団がそういう指向性を持たせた行動によってそこまで追い詰めたのか。


 それは定かではないが、その銀行員たちは反転した。弾丸の追撃も無視して奥の闇へと進む。

 じっくりと、心理的圧迫を与えて降伏を促すように、あるいは闇からの奇襲を警戒するように、マフィアたちは半包囲の陣形を取りつつそのテナントの口へとにじり寄っていく。


 だが彼らが店の口に至る前に、それは、彼女らは飛び出てきた。

 束本は自転車ママチャリにまたがって。

 そして白泉老はカゴに尻を収められて。

 読唇で、その会話を聴き解く。


「束本くん、これはいくらなんでもあんまりではないかな」

「舌噛みますよ」


 ……とまれ、意表を突くインパクトと速度でもって包囲を強引に突き破った束本は、視界の不自由さにもオフロードを超える荒れ道と化した亀裂だらけの回廊もものともせず、ギアを上げて最大速度でペダルを漕ぐ。


 残された『泰山連衡』たちは、どうするか。

 彼らは直接ターゲットを追尾しなかった。彼女の足跡を遵守するかのように同じ店に突入した。

 そして次の瞬間には、彼らもまたマウンテンバイクを駆って、騎兵のごとく鋒矢の陣を取り、追走を始めた。


「お前らマジメにやれぇっ!」


 と突っ込みたくなる気持ちもあるが、ネロは納得とともに正面の敵へ向き直る。

 元より理性的な人間は自分しかいないと彼は自負していたし、どうせこの場はすでに秩序など喪われた乱痴気騒ぎだ。そもそも、目の前にいるのがこの世においては非常識な存在だ。


「ていうわけで、お前も一肌脱いだらどうだ?」

 少年の、黒い眉が歪む。瞳が眇められる。


「墨汁になってすり抜けるだけが能ってわけじゃないんだろ? 見せてみろよ、お前の本当の面を」


 試すような物言いに、少年の手指が機械的に蠢いた。


(人、それ挑発に乗ったと言う)


 だがそうするのは、その『真相』に絶対に信を置くため。

 それを強いては秘さないのは、それ自体が覆しようのない絶対的な戦力差であるがため。


 少年の右手に、黒い粒子が渦巻く。

 いかなる成分が気化したものか。学術的な興味はあるが、それは彼の手の内で半月の形に凝固し、黒の濃淡を駆使して彩られる。

 京劇で用いられるような、独特のパターンの化粧が施された、半面。

 それを鋭くネロを正視したままの目元に添わせると、その接着面から黒霧が吹き出て全身を覆う。その体積は段階ごとに倍化し、ついに五倍の大きさに至った時にようやく全身像を確かめられた。


 四足を突いた、巨獣。

 黒い鬣、黒い毛並み。黒い爪、黒い牙、面。

 彼の生国の伝説になぞらえるならば、さながら饕餮トウテツといったところか。


 想像を上回るスケールに、ネロはマスクの奥で頬を引きつらせる。


「なるほど、こいつは」


 独りごちかけた彼の足下に、爪が食い込む。

 どうやらそれ以上の冗談口は許してくれないらしい。

 だがそれはあちらの都合。自分の悪癖である毒のある正論家ぶりは、生死の境に立っても治らない。


 ひらひらと身体を舞わせて猛攻をしのぐが、足場ごと打ち崩していく爪撃は、彼の逃げ道それ自体を奪っていく。

 なるほど、と逃走劇の中軽く頷くネロの手には、魔導書が転送されていた。


「『カタログ』No.121……転身」


 音声認証でもって、時空間を転移、いや『転身』する。

 獣と化した少年の目には、にわかにその姿が消え、かつ消失したポイントから蛇のごとく、ツタのように、太いパイプが這い出てきたように思えただろう。

 その円筒の隙間をゲートに、換装したネロが現れた。

 前方に突き出た三角帽。猫をあしらった紫色のスカーフ。その狭間にてに黒ネコの目が黄色く閃く。

 多少ダブついた緑のスーツ。腰にダイアルのついた矢筒。手には片手では少々余るコンパウンド付きのクロスボウ。


「獣には狩人だろ」


 そう吹いて見せるネロに、黒獣は烈しい気性を露わにしてみせる。面と墨とであの表情の乏しい素体は隠しているのに、奇妙なことだと内心で揶揄する。


 パイプは絡み合い、枝分かれしながら鉄の要害を築いていく。

 相手のペースに乗せられまいとしてのことか。饕餮は一、二人分の肉体よりも太い剛腕で薙ぎ払っていく。


 その攻撃と鉄枝の隙間より、ネロは魔力で精製された矢を射込んだ。

 着弾とともに火が巨獣に巻き付く。だが、さして効果があるようには見えず、後ろ手で矢筒のダイアルを回し、矢の源となるエレメントを転換する。


 冷気、電撃、ヒュドラ毒……実験も兼ねて打ち込まれるそれは墨の外皮にダメージを与えない。というよりも、貫通はするがすり抜けてしまう。おそらくは攻撃の瞬間のみ、硬質化しているのだろう。


〈無駄だ! おそらくはそれがメインの武装なんだろうが、そんなケチな攻撃を何発食らったところで、その妙なパイプごと根こそぎ食らってやるっ!〉


 獣が甲高く人語でもって吼える。


「メイン、このボウガンが? 食らう、この『森』を?」

 その認識の甘さを、ネロはせせら笑う。

 ついにパイプを足場に立つ彼が発見され、爪がパイプを突き破って伸びてくる。


 刹那、千切れたパイプが寄り集まって、有効化したその腕を絡めとった。


〈なんだと!?〉


 爪撃によって引き裂かれた傷口からは、気化した魔力がスチームとなって溢れ、獣の面に吹きかけられる。


 生じた動揺を突く形で、きつく彼を拘束する鉄の枝は、壁へと叩きつけた。床に転がした。

 階層そのものを揺るがす衝撃によって崩壊は進み、もはや一帯において既存の足場は無くなったも同然という状態となったが、今のネロには問題がなかった。


「違ぇよ。この『森』こそが本命だ」

 枝は分化する。壁に縫いついて固定しながら、さらに自身を成長させて、虚空に根を張っていく。


「さしづめお前は狩人のテリトリーにウカウカ入り込んだ、哀れな子猪ってところだな」


 その分枝の一本に足をつけ、ネロはさらに煽る。

 獣が唸る。牙を剥く。殺意さえも黒く色づくほどに、その巨体より発揮する。


〈吐かせ!〉

 一吼とともに、その背に猛禽の翼が生える。

 そしてネロへ向かって飛翔する。

 航空力学的に到底その肉体を支え切れるものではないが、まぁ図体同様にあくまでイメージ的なものだろう。


〈そんな攻撃で倒せるはずがないだろ!〉

 これはまったくその通りだった。彼の見立ては正しい。

 だが言ってて気づかないのか。頭の中から抜け落ちたのか。肉体と等しく理性も蒸発したというのか。


 彼らの狙いは千明と白泉の確保であって、ネロを討つことではない。

 そしてネロの目的は彼らが危険領域を脱するまで、この危険な異能者に陽動を仕掛け、遠ざけること。


 黒獣の少年はみずからの優勢を確信しているだろうが、対するネロの中でいずれが勝利者たり得るかは明白だった。


 ネコの魔人は自身の仕事に徹するべく、伸び上がった別の枝に飛び移る。

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