第11話

 いよいよ、約束の刻限が近づいてきた。

 それき比例して千明の腹痛度合いもいよいよもって深刻なものとなり、じわじわと汗が額に玉となって浮いていた。

 往復する施設の内外の温度差もあって、不快指数がかなり高い。ぐるぐると鼻先に、熱病に浮かされた時のような落ち着きのない感覚がつきまとっていた。


「トイレ、行ってきて良いっスか……」

「ダメに決まってんだろ」


 対するネロの反応は無慈悲そのものだった。まるで彼女の提案が、ただ催したわけではなく、ただ逃れようのないプレッシャーから無理やり脱しようという無駄な足掻きでしかないことを見抜いているかのように。


 うううー、と犬のように唸る千明ではあったが、いつまでも沸きらない自分に非があるのはわかり切っていたことで、せいぜい「意地悪っ」と少女めいた抗議を囊中の相棒にぶつけるぐらいだった。


 だがしかし、真実を知り、父親の遺産とやらを手に入れた後、どうすれば良いのだろうか。叔父が父殺しの犯人だということが、確定すれば。


 その罪を告発し、警察に突き出すのか。

 それとも彼が奪ったものを取り戻すのか。父が本来座るべきである社長の座から、追い落とすのか。

 ――あるいは、仇を討って……?


 芽生える程ではないが、ふと脳裏をよぎったその物騒な一字を全力で消し去る。


(でも本当に、どうしたらいいんだろう。どうすれば、ちゃんと向き合えるってことになるんだろう)


 土壇場になって、いや土壇場であるからこそ、彼女は生来の臆病を強め、逡巡し、煩悶していた。

 そんな彼女に声を掛けかけたネロが、荷袋の中で固まった。


「――おい」

 張り詰めたような声色。何事かと正面を向けば、ひとりの男がいた。

 だが彼とは知らぬ仲でもない。敵でもなかった。

 アイスクリーム屋に案内した、あの異邦人だった。


 つい先ほどまで穏やかな微笑を浮かべていた彼は、どことなく気落ちした様子でベンチに腰を下ろし、背を丸めていた。

 そして千明の接近に気が付くと「やぁ」と、一段階トーンを落とした声をあげた。


「先ほどはありがとう」

「あぁ、えっと……お土産、喜んでもらえました?」


 彼の手にアイスがすでにないことを確かめながら、千明は尋ねた。

 だが彼が漏らすのは、苦笑ばかりだ。


「実はその件で咎められてしまいましてね。まぁ重大事に悠長に菓子など買っていた僕が悪いんだが、ツレの子にも気の毒な目に遭わせてしまった」

「それは……えっと、ごめんなさい?」


 千明は小市民的な肝の細さのために、頭を下げた。

 よくよく考えずとも、当然彼女に非などないわけで、男もふ、と微苦笑を柔らかく浮かべたまま、首を振った。


「君が悪いわけじゃないですよ。ただ、まぁ」


 言葉尻を濁し、ふたたび項垂れてしまう。

 どちらからも話を進めることのできない、気まずい空気が流れ、それを処理するコミュニケーション能力を持ち合わせない千明はふたたび窮地に立たされた。


(助けて、ネロ)

 脳裏で枯れたような呻きを漏らすも、肝心かなめのこの時に限って、彼は無言だった。


「君は」

「ひゃいっ!?」


 過剰な反応。上ずった声。返された側が少し意外で怪訝そうな目つきをしたが、それでも彼自身の言わんとしていたことを優先させた。


「君は、自分の家族が、かつて信頼していた人間が、自分の意志から遠いところに行ってしまった時、どうします?」


 おもむろに、石のように投げつけられたその問いは、少女の動揺をむしろ鎮め、パニック寸前、オーバーヒート同然だった彼女の頭に理性を取り戻させた。


「かつて僕は、その人のためであれば自らが汚れることを厭わなかった。その人の信念に強く魂が共鳴し、在り方を見失った僕が救われる唯一無二の法であり、師だった。だから、彼にそうせよと命ぜられれば、ためらいなく身を焼くことさえできたと思う」


 だが、と男は空の手の平を見つめながら、嘆きを落とす。


「――今のあの人は、間違ってしまった。老いへの焦りからか、道を違え、美しくない生き方をしている。僕は、こんなことはしたくない。僕は、僕の進むべき道を、行きたいと願っている」


 問いかけ、というよりもそれは、自分の中で繰り返される悩み事を、言語化したに過ぎなかった。

 それでも彼の繰り言は千明の胸を打ち、かつ真摯に受け止めた。


(――だって同じだ)

 叔父と真実の間に立つ彼女と、事情はよく分からずとも自分の夢と恩義の間で揺れ動いている目の前の男とは。


 そして、自らの悩みを客観視することでようやく、千明は迷いに、ゆるやかながらも出口を見つけられた。


「自分の道を行くしか、ないと思います」


 男は顔を上げ、少女を見た。


「その道がその人と目指すものと違っていたとしても。嫌われちゃうことになるとしても、自分の目指すルートが見えちゃったならもうそういう付き合い方しかできないじゃないですか。たとえぶつかったとしても、自分が誇れる道を進んだ先でのことなんだから、少なくとも自分は、スッキリできます。くすぶらせちゃったら、余計にこじれるだけで誰も得しないんで。っていうかもうアレです。なるようになれって感じです。つい最近のコトなんですけども、僕はそれでうまくいきました。結果的に」


 とりとめのない説明。釈然としない締めくくり。

 それでも、少なくとも千明にとっては、気持ちの整理を完全につけるには十分な過程ではあった。


 彼にとってもためになったかはともかくとして、その男はじっと目を凝らし、耳を澄まして彼女の言葉に意識を傾けていた。


「スッキリ、なるようになれ、結果的に、か」


 ワードを拾い上げて笑みを綻ばせる東洋人。その滝の水のごとく細められて澄んだ眼差しに、千明は冷静に顧みて、自分が多弁に過ぎたことを恥じた。


「す、すみません! なんか素人意見デスケドモ」


 いったい何の素人だ。いつものネロであればそう鋭く指摘しただろう。

 だが彼は、黙したまま。


「いや……そうだね。実は僕の中で片付いていた問題だったんだよ。欲しかったのは、きっと誰かのもうひと押しだった」

 若干砕けた口調でそう言うと、男は笑って手を差し伸ばした。


「ありがとう。君のおかげでようやくその道へ踏み出せそうだよ」

 それが握手を求めるサインだとワンテンポ遅れて千明は握り返した。

 優男然とした、役者のような顔立ちとは裏腹の、細かい傷のある大きな手。骨格もまるで、鉄骨でも組み上げられてできているのではないかというぐらいガッシリとしていた。


 そして運命めいたものを感じながらも少女と男は、別れた。

 遠のくその背を見つめながら、千明は奇妙な充実感に包まれていた。


 魔法少女オーバーキルとしての、なかば力づくのものとは毛色は違うものの、これも人助けの一環なのかもしれない。


「僕、がんばったんじゃないの?」

 と珍しく虚勢でなく素のポジティブさで自らを誇った千明だったが、相変わらずネロは寡黙なままだ。

 ちょっと拗ねて苦言でも呈しかった、そんなタイミングで、ようやくネロは口を開いた。


「――――おい、なんだ。今いたモノは……」

 妙に張り詰めたような調子で。


「なにって、いやただの……そういや名前訊いてなか」

「そういうことを言ってんじゃねぇッ」


 彼の裏返った怒声が、千明の脳内を揺さぶった。


「なんだ、アレは……なんだってあんなンがこんな世界にいる!?」

「アレって、なんか知ってるの?」

「知るわけねぇだろ! 魔力も持たない人間で、あの領域に到達したヤツなんてなッ! 一体……只人の身で、どれほどの苦行を積めば……いや、あんなモンになっちまうんだ!?」


 彼にしては珍しく剥き出しの感情をぶつけられ、千明は当惑した。

 ただ一つだけ分かることがある。


 ネルトラン・オックスが、焦っていた。

 ――怯えていた。


 すべてを焼き尽くす炎王の前でさえその不遜さで真実をひた隠しにしていた魔王が。

 自分が百年の汚名を着せられて死ぬことさえ職務の内だと言い切っていたあの天才職人が。


 でもいったい何に?

 ……あの人に?


「『ワンショット』を敵戦力の基準に考えてたが、大誤算だ。いくらなんでもアレは無理だ。とにかく、一刻一秒も早くこの場から離れろ!」

「え、でもまだ約束が」

「良いから言うとおりにしろッ」


 ネロが檄を飛ばす。最終的には正しい決断を常に下してきた彼が、体面を切り捨ててまで忠告したのだ。それは是非を問わず従うだけの価値がある。


 ――だが。

 千明は、常日頃から多分に、自らの星の巡りというか、運の悪さ、間の悪さというものを自覚しているが、今日は特に極め付きだった。


「赤石千明様、ですね」

 逃げ支度を整える前に、妙齢の女性が彼女たちの背後から声をかけた。


「お待たせいたしました。こちらは浄都銀行頭取、白泉内記です」


 明らかに大物の気風を落ち着きぶりから感じ取れる、車椅子の老人に随伴して。

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