第10話

「何をしている? 鳳象、文」


 ベンチに腰掛け、仲良くアイスを食べているところに、野狐を想わせるひとりの老人が顔を出した。


 黄泰全。彼らの頭目だった。

 鳳象と同じく、ダブルのスーツ姿でいるが、それでも控えめに見ても会社の重役という体でオーラを放ち、見る者を圧している。

 これで一般人に擬態をしているつもりなのだろうか。鳳象は苦笑をこぼした。


「師父! あの……これは」

 あわてて黒文が立ち上がる。親の貌さえ知らないこの美少年にとって、彼こそが唯一の家族であり、そして絶対服従の恩師であった。

 かつての自分と、同じように。


 その少年の前に立った瞬間、ふたつの乾いた音が両者の間で鳴った。

 一度目のそれは、アイスを叩き飛ばすためのもの。そしてもう一度目は、文の頬を張った音だった。


 あわれ支えを失ったコーンとアイスは、熱を持ったタイルに溶かされていく。

 通行人の衣服にかからなかったのが、せめてもの救いか。


「文、お前は遊びに来たのか。それとも戦いに来たのか」

「……ごめんなさい、でも」

「答えよ」

「……戦うためです、師父」


 赤く腫れた頬に触れることなく背を伸ばし、少年は勇ましく答える。

 まさしく戦士としてはこれ以上のないシンプルな正答だったが、それでも師の怒りは収まりを見せる様子はない。

 そこで鳳象は助け舟を出すことにした。


「それは、僕が一方的に与えたものです。なのでお咎めは僕に」

 地面に落ちたチョコアイスへと視線を落としながら、鳳象は彼らの間に割って入った。自然、文に向けられていた怒りの眼差しは遮った鳳象が受け持つ形となった。


「鳳象。分かっていような? ここに来た訳を。この争奪戦の重要性を」

「理解は、しているつもりですよ」


 赤石が諜報、流通機関として用を為さなくなって以降、自分たちが独自にこの街に、他の組織の内外に張り巡らせた情報網。そこに、ある情報が絡みとられた。

 すなわち今日この場にて、赤石千明と白泉内記が面会をするという。


「なので物見をしてきました。まだ千明嬢は氏と会ってはおらず、そもそも何を遺されたのかさえ気づいていない様子。永秀氏とブルーノ氏、そして所轄の刑事の姿も幾人か見つけています」

「そのすべてが、『アレ』を収めれば我が手中となる」


 すっかり肉は削げたが骨組みはしっかりしている拳を握りしめ、老人は言った。


「さすれば、この灯浄はすべての組織の首根を押さえた『泰山連衡』一強の、不動の居城と化すのだ。国を逐われつつある我々が、何者にも脅かされない、何人にも侮られない、絶対強者としてあらゆるものの生殺与奪を支配できる都市としてな。ここが我らの梁山泊となろう」

「……梁山泊、ですか」


 鳳象は静かに目を細めた。細めながら、拳を握り固めた。揺れるおのが心中の基盤の上。そこで転がり続けていた硝子玉のようなものが、ぴたりと、穴に入って収まった気がした。さながらルーレットのように。


「そのためにうろつく有象無象に先駆けて赤石千明と白泉内記とそれが手にするものを確保せねばならぬ。ゆえにこの場にいる全員を恐慌に陥れねばならぬ。そこで貴様が何をすべきか。その大義を、その意味を、理解していような?」

「相手は老人と姑娘でしょうに。それに我々の作戦は多くの来場者を巻き込むこととなりましょう。その避難の手配は?」

「手は抜くなよ」


 鳳象の問いかけは無視された。

 事の善悪、是非の問答は無用と、鳳象は会話を打ち切り、背を向ける。

 その痩せた肉体がわずかに丸みを帯びているのを認め、鳳象は深いため息をついた。


「あの、ありがとうございました」

「うん? いやいや、僕のほうこそ済まなかった。君に余計なことをしてしまった」

「とんでもない! ……でも師兄は、どうかしたんですか?」

「どうして」

「なんだか顔色がすぐれないように見えて」

「いや、老いられたな、と思って」


 そうつぶやくようにして言った彼に対して弟弟子は納得と悲哀を表情に隠さず浮かべた。


「……だからこそ、無理をして欲しくない。師父にはこの一戦を最後に安穏の日々を送ってほしいものです。師兄! ともに邪念を捨てて共にかかりましょうっ!」


 やはりこの少年にとっては、あの老人に対する感情の度合いは、畏怖より敬愛の念のほうが強いらしい。いくら頬を叩かれたところで、その忠誠心は小動もすまい。


 その純朴さを愛でながらも鳳象は、彼と自分とは決定的に在り方が異なっていることを実感した。

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