第14話
赤石千明は、空っぽの自宅に足を踏み入れた。
だが靴を脱いで、無人のリビングの、フローリングに足をつける勇気がなかった。その冷たさが、怖かった。
朝から照明を落としたままの暗い室内に、その虚空にしばし泳がせた視線は、餌に釣られたメダカのように、あるいは犬か鳥の帰巣本能のように、手に握りしめたままの箱に向かって落ちていった。
自分を介抱したという、その外国人からの置き土産。
箱を開けると、はらりと紙片が落ちた。
だがそれは本命ではなかった。箱内部でウェイトとスペースを占めていたもの、それはキャンドルのような、細い銅の棒だった。
磨きあげられた鉄片が、歯車が……たしかウォームギアと呼ばれる類だったものが取っ手の縦横で噛み合って、リング型のハンドルと連結していた。
「その外国人はね」
対岸宅を去り際、名を伏せたままに鹿乃はこれを預けた人物について語った。
「あたしが赤石さんをどうやって運ぼうか、それとも見捨てようかと迷っていた時に現れたの。いかにも厄介な追手を振り切ってきた、って感じのボロボロっぷりでね。で、自分の傷も気にしたふうもなく、あなたを抱き上げてあたしに匿ってくれってさ」
当然、最初は渋った。クラスメイトはともかくほぼ見ず知らずのその彼を、ましてあの兇漢に追われてるともなれば、家においそれと上げるわけにはいかなかった。
「大丈夫だ。だいぶ距離をとった。あの単細胞が、一度見限ったこいつのとこに帰ってくるなんて考えを持てるはずもないし、歯向かわなければあんたらに危害は加えねぇよ。目が覚めたら、適当にほっぽり出してあんたはいつもの日常に戻りゃいい」
「どうしてこの娘を助ける気になったの?」
至極当然の問いかけに、その金髪碧眼という、見てくれだけは貴公子然とした少年は、いかにも今思いつきましたという雑な調子で「気が変わったんだよ」などと吹かした。
渋々承諾した鹿乃は自身の部屋のベッドに彼らを招き入れると、千明をそこに寝かせるよう指示した。着替えまでさせようとする彼を押し留めて。
「面倒ついでにひとつふたつ頼まれちゃくれねぇか」
その去り際に彼は頭を下げた。
ひとつはこの新たなデバイスを彼女に託すこと。もうひとつは、
「こういうことは個人間の問題だからできればで良いんだが……こいつのこと、もう少し気にかけてくれるとありがたい」
というものだった。
「お察しのとおりだとは思うが、こいつほんと人付き合いが苦手でさ。本当は寂しくて、人並みの幸福をどこかで求めてるくせに、自分からそれを出したがらない。それを求めることが悪いことだとさえ思ってる。たく、とんでもなくめんどくさい女だ」
そう毒づきながらも、優しい口調のまま。わずかに乱れた前髪を指の背を整える。
「でも、人間ってのは本来幸福であるべきだ。少なくとも、それを追い求めるために生きなきゃならんと思っている」
臆面もなく、恥ずかしげもなく彼は理想を語った。
そしてそれは、鹿乃の抱負や理念に相通ずるものがあったと言ってよかった。
「だからあなたにメイクをしたってわけでもないけれども」
鹿乃は、話の最後をそういう文句とともにまとめた。
そして彼は去っていった。
「せめて一緒にいてあげれば?」
そう非難する鹿乃に対して、肩をすくめて少年は答えた。
「あんたが言ったことが起こる可能性は、イグニシアが見境なく再度襲ってくる可能性は、たしかにゼロじゃない。だからその可能性をできるかぎゼロにしてくる」
「どうするの?」
「まぁ捕まるしかないだろうな」
これもまた、事もなげに答える。
処刑が待っているにも、死ぬかもしれないにも関わらず。
「これが俺と、俺の国に対してはベストじゃないにせよ、こいつにとっちゃベターなのさ。まぁだからちょっと行ってくるわ」
まるで買い物にでも出かけるような気軽さで手を振り、彼は退出した。
途中、隣のドアに大きな金属音が響いた。おそらくは彼の身体が傾いた拍子にぶつかったのだろう。
それなりに身を案じて鹿乃が外に出た時には、彼の……ネルトラン・オックスの姿は、どこにもなかったという。
意識は、追憶から再度、彼の残したものへと戻った。
〈よぉ〉
開けた箱から、彼の声が響いて、部屋の空気に溶けていった。
「ネロ!? 今どこに……」
〈あぁ悪いがコレは隠れながらの録音な。だから一方的に話させてもらうぞ〉
録音とは言うが彼女の思惑を先読みしていたのか、スムーズな受け答えととともにそう前置きした。
〈まずそいつは、新しいデバイスだ。奪われた場合を想定して、あらかじめ作っておいた。操作マニュアルは同封しておいたから用法を守って正しく使え〉
キャンドルのようなものを、彼の声が示す。
〈形状から察せられるとは思うが、それはあのデカブツが持っていたものと同じ機構となっている。魔力を推進剤としてこの世界で言うところのきわめて小型化したホールスラスタ……いや良い。時間もないしどうせ言ってもわからん。だが発生させた魔力はそのまま火力として出力するのではなく、変換器によって純粋な運動エネルギーに転換され、それをもって推進力や物理防壁とする。……言いたいことがわかるか?〉
ただ聞き手に回っていた千明に、ネロが尋ねる。
〈つまりそいつは、防御と回避に特化したデバイスだ。他のふたつと違って魔力使用の痕跡も抑えられる。これからお前がひとりで、難を乗り切るためのものだ〉
ひとりで、という部分に特別強調した様子はない。それでも石の杭のように、千明の頭と心臓に強く重い衝撃となって打ち付けられた。
〈お前の命を狙った奴がここまで性急に動いていたのは、おそらく連中にとってタイムリミットが迫っているからだ。つまり、そこまで耐え忍べばお前の勝ちだ。お前はふつうの女の子の生活に戻れる〉
「ふつう……?」
当惑を素直に口にする少女に、またも先読みした調子でネロのログは応じ、続けた。
〈そう、ふつう。命を狙われることもなけりゃ、俺らみたいな魔のモノと関わり合いになることもない。ガールズトークに華を咲かせ、オシャレやゲームを楽しむ、ただの女学生。それに戻れ〉
沈黙が続いた。彼が身を隠しているとおぼしき雑踏の足音。汽笛。それらがこの合間から漏れ聞こえてくる。
そしてややあってから、彼は今までにないぐらい感情を込めて言った。
〈俺はかつて、後戻りはできないと念押ししたが……そう言った俺自身が、お前がそれを本心からじゃなく承諾したことが納得できなかった。かえって追い詰めちまったようで、悪かったな〉
「――それは、違う」
苦さを噛みしめながら、暗い世界で少女は小さく呻いた。
〈もう俺なんか信じちゃいないだろうし、義理もないだろうがあらためて念押しするぞ。……俺を追うな。お前がいるべき世界に留まれ。ここが日常と非日常、最後の別れ道だ〉
雑音もろとも、彼の音声は途絶えた。
「ネロ……!」
その彼の残影を掻き抱くように、箱と、そこに入った彼の作品を腕の中に納めた。
〈あ、言い忘れてた。あとお前さ、オタクの輪にもなじめないからってマイナーとかレトロな作品ばっかチョイスして通ぶるのやめとけよ。そんなんだから日陰者なんだ〉
「死ぬほど余計なお世話じゃっ!!」
そしてそれを、床にたたきつけた。
ネロの残響が途絶えた時、千明の内に残留していたのは純粋な不満と怒りだった。息を荒げそれらを爆発させた。
「なんなんだよ君はっ!?」
人のことをなんにも気づいてくれなかったくせに。
――自分のための朝食を用意してくれながら、彼はここのリビングで「言いたいことがあるなら言え」と言ってくれた。
まるで心配してくれなかったくせに。
商店街で彼は、自分のためと言いながらどう考えても千明のためのゲームを買ってくれた。
そのくせ余計に干渉してくる。
かと思えば自分のことには踏み込ませない。
「打ち明ければ不都合があったから正体は黙ってた。……それ以上の説明がいるか?」
正論だった。
彼にとっての不都合ばかりではない。もし本当の素性を打ち明けていれば、口でどう言おうとも千明は彼を信じなくなっていただろう。信じなくなれば、いかにその指示が正当なものであっても、その道を外れてかえって自分の生命を危機にさらしていただろう。
「大事なことを何も、言ってくれなかったくせに……っ」
「無理に明るく振る舞うんじゃねぇ! 心が壊れるぞ!」
そう言って、彼はここで、自分を抱きしめてくれた。
千明の心からの叫びは、まるで虚言のように、反響もせず闇へと消えていく。
違う、とみずからの本心はその感情を、言い分を否定する。
彼は大事なことを言わなかったのではない。大事なことだけは、言ってくれていた。
自身の事情が許す限り。彼女のためになることに関しては。千明以上に千明の想いを汲み取って。
本当に何も言わなかったのは。
自分や相手を恐れて身勝手に心も口も閉ざしていたのは。
「僕の方だ……!」
そんな自分を、ネロは常に気にかけていた。自身に無理を強いてでも、彼女の幸福を追求しようとしていた。
「ただひとつ忠告しておく。これを使えば、お前はこの世界の原則から完全に逸脱することになる。そして今抱えている喪失感以上の地獄を見ることになる」
それが、契約だったはずだ。納得づくで、その手を掴んだはずだった。
でも本当は怖くて。辛くて。痛くて。いつもふとした拍子に泣きそうで。誰かにそれをぶつけたくて。けれどもそれを我慢し続けなくてはいけなくて。
それでも生きたくて。たとえそれが間違った延命だったとしても、生きて幸せになりたくて。
それでも何も言えない自分の本当の願いを、彼は知っていた。千明の泣いたあの夜に、気づいてしまった。だから、契約の分限を超えて、彼は身を削る思いで無理をしてきた。
「俺の務めは、お前を幸福にすることだ」
きっとあの言葉こそが、今までそんな自分の矛盾に答え続けてきた、彼の本心の発露だった。今まで千明を傷つけないよう、胸の内に納めてきた誓いだった。
それこそ、自分がどれほど憎まれようとも。
〈俺が何者かって? なぜお前を助けるのかって? 知れ切ったことを訊くんじゃねぇ。すでに何度も言ってるだろうが〉
そんな彼は、自分の求められたことに対して目標以上の成果を導き出す彼は。
〈俺は顧客のニーズに応える。俺を必要としている人間に、必要とされるサービスを施す。契約外のアフターケアだって欠かさない。客の引き起こしたアクシデントも好手に変える。自分と客の理想に近づくために最高の仕事をする〉
王である前に、罪人である以上に、常にそう名乗っていた。まるで自分に十字架のごとく課すように。そういう宿命だと言うように。
「俺は、
そう、いつだって応えてくれていた。
「でも、やっぱり納得できない」
不満や怒りはまだ、自分の中で燻っている。
だが、泥のようなものではない。決して払拭できないものではない。
むしろそれを前へと力へと換えるべく、魔法少女は彼の託したものへと手を伸ばした。
今からすることが、選んだ道が、彼の望むものではないことを承知で、すべて呑み込んで。
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