第13話
「先にシャワー浴びて来いよ」などと少し前にどこかで聞いたような文句で促され、風呂場を借りた。
聞いたことも見たこともない銘柄のシャンプーやソープを使って香気と、乾燥機に打ち込まれていた制服をまとって出てくると、件の道具を持った鹿乃がリビングでちょいちょいと手招きしていた。
なんとなしに嫌な予感怯えながら鹿乃に身を委ねた。顔を突き出すと、怪しげなを浴びせられた。
「毒かーっ」
「アベンヌウォーターだよ……」
呆れながらも鹿乃は今度は乳液をコットンで肌に伸ばして広げ、クリームを塗り、下地を作っていく。「色が白いから」ということでピンク系統の液体がさらにその上から塗布されていく。
そうしてあれよあれよという間にファンデーションが、フェイスパウダーが、件のよくわからない道具や薬液が、用いられていく。
これが化粧と言うものか。
そうしみじみと噛みしめていると、そこで鹿乃の手が止まった。まるでスランプの石工のような悩まし気な顔をしてみせた。
「赤石さんって、肌キレイで美人なのに化粧っ気薄いからちゃんとメイクしたらどうなるのか気になってたんだけど……キレイすぎてやりがいないわ」
「さんざんイジっておいてそれですか」
「全然触ってないわよ。ふだんなんでメイクしないの」
「だってお金も時間もかかるじゃん。ていうか校則」
「いや、ケアするだけで全然違うでしょ。ハトムギ水とかならコスパ良いし」
「ハトムギ……そうか! 爽健美茶ならっ!」
「ん~? 使えば~? 頭から引っかぶれば~??」
「――コスメ舐めててすんませんでしたァッ」
表情そのものはフラット、日常でも人当たりは良い。
だが、対岸鹿乃には案外気難しいところあるのだと、今千明は身心をもって知った。
渡された鏡に映った自分の顔を、あらためて視る。
鹿乃はほとんどいじくってはいないと悔しがっていたが、自分ではない自分が鏡像としてたしかに存在していた。事故からこっち、いやそれ以前から千明につきまとっていた暗い陰が、いくらか払拭できていた気がする。
そのことが嬉しくて、つい口元はゆるく綻んだ。
これで自分もいくらか人間社会にようやく馴染める気がする。
「……なに?」
鹿乃が尋ねる。
「いや……ちょっと不安だったんだよね。僕ってひょっとして嫌われてるんじゃないかって。でも、本当は違ったんだ。壁を作ってたのは僕自身で、もっと歩み寄ってさえいれば」
「え? いやフツーに嫌われてるけど?」
馴染めるような、気がする。
気がした、だけだった。
「――マジすか……」
「だってあなた、かなり空気読めないし食らいし距離感おかしいし。さっきも言ったけどコスメとかもまるで興味がないし、それなのに努力もせず無駄に顔が良いからやっかまれてるし……まぁオタク趣味な男子の何人かは近寄りたいみたいだけど、たびたいの奇行でドン引かれてるし、あいつらにそんな甲斐性なんてないし。で、ダメダメムーブかましときながら中途半端に根強い人気がなおさら女子には気に食わないし」
そんな嫌われている相手に淡々とメイクの仕上げを施しながら、スクールカースト上位者は打ちのめされる千明に続けた。
「なにより一番の問題は、付き合いの悪さ」
でも、と。
千明から謝罪が告げられるよりも先に、言葉を区切る。
「こういう事情が、あったんだ」
しっかりと向き合って、彼女は声を引き締めて言った。
「いつああいうことに巻き込まれるかもしれないから、誰とも距離を取ろうとした」
「……」
「今日だって、『見たいアニメがあるから』なんてしょうもない嘘までついて、あたしを突き放そうとしたんでしょ? あの時はぶっ飛ばしたろうかコイツと思ってたけど、本当は赤石さんなりの気遣いだったわけだ」
「え? 今日のはマジで見たいアニメがあったんだけど」
「…………ああ、そう」
顔前で、鹿乃の双眸の光がすっと引いていくのがわかった。
ギリギリボーダーライン内に収まっていた彼女の好感度が、ワンフロア分ほど下降したのを千明は感じた。身をもって。ビューラーにギリギリと睫毛が引っ張られ、抗しがたい苦痛を断続的に彼女に与えてくれる。
「それで、いつからこんなことをしてんの?」
なんとなしに投げかけられたその問いに、千明はすぐに答えることはできなかった。
事の始まりから今日にいたるまで、どの記憶も鮮明に千明の脳に焼き付いている。
他人に打ち明けたところで解決しないことをあえて語るべきか、躊躇する。
だがそれでも、ややあって千明はゆっくりと語り始めた。
・・・・・
千明は今までのことを全て告白した。
事故のこと、そこで出会った『職人』を自称していた魔法使いの少年のこと。
ひっきりなしに仕向けられてくるヒットマンのこと。そして異世界からの来訪者のこと。そして告げられた真実と手酷い裏切り。
ネロは、余力を残していた。自分が生死の瀬戸際に立っていた時もそのことを黙って傍観していた。
ネロは、職人ではなく、元王様で、国家的な犯罪者だった。どれだけうさんくさくとも彼自身が誇りをもって称していたものが嘘だと知った時、千明の中で根底から何かが崩れ去った気がした。
どれだけ理解を示してくれたのか。いやそもそも鹿乃はそこまで深く聞き入るほどの興味を持ってくれていたのか。
それは千明にとってどうでも良かった。ただ、聞いてくれる、感情を率直にぶつけられる誰かを欲していた。かつてはそれがネロの、はずだった。
(こうやってもっとちゃんと話せていれば、僕はネロとあんな別れ方をせずに済んだのかな)
吐露を続ける最中に、千明はふとそんなことを思った。
「そう」
吐き出すべきものを出し終えると、そっけない返事が戻ってきた。
「話半分に、聞くようなことでもなかったわ」
だが鹿乃の伏せた顔には、ほんの少しばかりの動揺が見えた。
「……ごめん」
何故秘密を打ち明けた自分が謝らなければいけないのか。そう思いつつ、なんだか申し訳なくなって頭を下げた。
「で、どうすんのよ。これから」
鹿乃に対する問いは、千明にとっては想定の外にあるものだった。
「え?」
「え、じゃないでしょ。赤石さんを騙していた最低なオトコは、どうせいつかは捕まる。そうなれば、あの変態ゴリラにあなたが絡まれる心配もない。その刺客だかなんだかだって、だいぶ仕掛けて来てないんでしょ? もう諦めたんじゃないの」
その上で今後の身の振り方をどうするのか。きちんと話を聞いたうえで、鹿乃は真摯に尋ねていた。
「どうしたの?」
「僕って対岸さんに嫌われてんじゃないの」
「嫌いならこんなことしないでしょ。あたしは好きとも嫌いとも言ってないって。これでも助けてくれて、ちょっとは恩を感じてるし」
かと言ってあなたの事情に深入りする気もないけど。そう前置きしたうえで、鹿乃は言った。
「今こうしてるのも、ただもったいないって思っただけ。せっかく女のコに生まれてきたのに、何もしない、できないって人生。あたしならゴメンよ」
「……」
「赤石さんからみれば型にハマった生き方に見えるかもしれないけど、あたしには目的がある。人生設計がある。欲を言えばもうちょい広い部屋で一人暮らしがしたいし、いっぱい稼いで良い服も着たい。そのための努力内申上げたり部活で成績残したりとかは惜しまない。けど、先ばかり見てたら息が詰まるから、友達と遊んだり、あなたで遊んだりする」
「遊ばれてる……」
「つまりは甘味を噛みしめる時間もまた必要ってことよ。散々苦い人生を送ってきた今のあなたに必要なのは、そういう時間だと思うけど」
妙に達観したようなことを、クラスメイトは助言してくれた。
果たして彼女の言うことは是か、非か。
それさえも自分の頭で飲み込めないでいる千明に「じゃあ」と、鹿乃は用意した数の割にさして使わなかった化粧道具を片付けながら言った。
「今度どっかに遊びに行く?」
え、と声を枯らす。
「みんなからはあたしから言っとくからさ。あくまで楽しみ方のお手本的なあれで、楽しめばいいんじゃない?」
これは……と千明は声を詰まらせた。
あえて考察するまでもなくストレートに、ダイレクトにお誘いである。人生初の。
「でも」とまごつく千明に対して、鹿乃は微妙な苦笑を見せる。
「そこまでマジに考える必要はないわよ。すぐに答えろってわけでもないし」
そう言ってから、鹿乃は少しためらうようなそぶりを見せた後、テーブルの上に置かれていた、ツヤのない、黒く長細い小箱を千明へと手渡した。
「なにこれ?」
浦島太郎の玉手箱のようなものを千明は想起した。
だが千明にとって未知の世界の乙姫様が浮かべたのは、誘惑の微笑ではなく、いかにもつまらなさげな、困惑の渋面だった。
「渡しておいてくれってさ。赤石さんを助けた外人さんが、あなた自身に」
・・・・・
ネルトラン・オックスが道を行くと、向かいから来る人は皆うろんげな顔で彼の進路を開けた。
それは彼が異国の王者だからではなく、異邦人だからではなく、止血することもなく腕を負傷したままに、しかめっ面で道の中央を闊歩しているからだった。
(なぜ、こうなった……?)
柄にもなく、彼は思考する。
それについて後悔するかどうかは、またのちに考えるとして、とりあえず。
ここに至るまでに、細かいミスやアクシデントは生じていたものの、大きなミスはなかったはずだ。見落としがあったにせよ、それは十二分にリカバリーのきくものだったはずだ。
確固たる道理のもとに、順当な流れにおいて、人の意を汲んで事態を正答そのものではなかったかもしれないにせよ、それに限りなく近いものへ導いてきたはずだ。
王としても、謀反人としても、技術提供者としてもそして裏切者としても。
その結果、彼は何もかもを失い、クライアントに暗澹とした表情を作らせてしまった。
個人としての進退や生死などはどうでも良い。問題なのは、おのれの過失だ。その要因だ。
記憶をたどると、ふと行き当たることがあった。いまだ心に引っかかっていたのは、投げつけられたボールの硬さ、涙を浮かべた少女の怒り。
(どうして俺は、あんなことを言っちまったんだろうな)
磯の香りに足を向けながら、物思いにふける。
彼女を凶漢から遠ざけるためだとはいえ、いずれは別れを告げなければいけないのは確定事項だとして、その前置きは余計だった。
あのことは、千明にとっては与り知らない契約外のことで、自分の内に秘しておくべきことだったはずだ。
たしかにそれは、知覚できるレベルで、かつ自分にとっては取り返しのつかない大きな失敗だった。
なるほどそこは、ネルトラン・オックスにとって後悔すべき不純物に違いない。
自問に対してひとつの答えを得た時、ネロは足を止めた。
昼や夕方はランニングコースとなるが一転、日が没すれば無人の埠頭となる岬。そこが彼の逃走の終着点だった。
だが、無計画にここまで来たわけではなさそうだった。
人の密集地帯にあって手を出さなかったあの愚かな追跡者が、そろそろ痺れを切らして通行人を巻き込むのを覚悟で自分に仕掛けてくるかもしれなかった。その先手を打って、その忍耐力を読んで、あえてここまでたどり着いたのだ。
「よう」
突如降って沸いで出たように生じた光と熱と圧迫感を、彼は振り返ってみせた。
そしてネロの想像していたとおりの男の姿が、彼自身の作品を振りかざす所作が、そこには在った。
次の瞬間、鋭角を描いて焔剣が迫った。防ごうにも、右腕が言うことをきかなかった。
いっそ焼失してしまえば、まとわりつく激痛をもオサラバできるのだろうか。
ネルトラン・オックスは詮のない空想を切り捨て、今日三度目の爆発を従容として受け入れた。
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