第3話
小学校の頃には運動会で一位を取ったし、陸上部で有名な私立灯浄湊学園に通い、短距離走でインターハイに出場し、それなりの成績を残した。
そのままエスカレーター式で高等部に上がった後も陸上を続け、スクールカーストおいても高位のコミュニティに属することに成功し、恋愛も多からず少なからず楽しんだ。
理想的なサイクルとフロチャートの上を行っていると思う。もちろんそれなりの挫折や不満はあるものの、それも客観的に見れば今後の成長や目標に繋がる、良いスパイスなのだろう。
つまり、完成された世界の中で、彼女は生きてきた。今後もずっと、思い描く将来図に従って理想的な生活を送ることだろう。
だから、背を丸めた筋肉ダルマが空間を引き裂くように目の前に、何の前触れもなく現れるなどというサプライズとは、無縁の人生、のはずだった。
自宅である団地近く。公園の砂場の上。
光と熱と蒸気とともに現れた男は、嵐の塊のようであった。森であり、焔であり、巌であり、雷であり影であった。
暴風のような強い息遣い。長い手足は古木の幹のように伸びやかで、その双眸には爛々と活力が燃えていたし、黒い詰襟の軍服に保護された肉体は、それこそ断崖の岩肌のように隆起していた。
総身からほとばしる威圧感は力自慢をしている同級生男子などとは、まず同じ生き物かさえ疑いたくなるほどに、生物としての格が違うことが見て取れる。雷のように、近づくだけで痺れてしまうようだった。
背を伸ばすように立ち上がれば、それだけで大きな暗影が生まれ、鹿乃を包み込んでしまう。
こういう男に妥当な言葉を、近頃古文に授業でで耳にしたはずだった。
猛者、という言葉では役者不足だ。もっと重々しい韻を持つ単語があったと記憶している。
あぁそうだ、と思い出す。
益荒男だ。
神話のテイストを含んだその三字こそが、この男には相応しいだろう。
その彼と、目が合った。立ち止まってしまった。
おそらくは十五年の人生の中で、今後百歳まで生きるとしても、今この瞬間ほど自分のミスを恨めしく思うことはないだろうな、と彼女は思った。
「おい」
男は名も知らぬ少女をぞんざいに呼ばわった。
「ここはアース1996。基本世界からレベルDクラスの局地的分岐、自然現象由来による特異点が発生した極東の島国ニッポンで相違ないな」
男の言語は鹿乃には通じていた。
口の動きと、頭に入り込んでくる情報には齟齬があったが、問題なのはそこではない。
ひとつ間違いないのはこの男が現実的な存在にせよ非日常の住人にせよ、『ヤベー奴』に絡まれたという、その事実だけだった。
「どうした、翻訳機はこの国のアーカイブにアクセスし、正常に機能しているはずだ。……ヤツの装置に頼るのは業腹だがな」
客観的に物事が見られないらしい。
正視しているにも関わらず、相手の顔色や様子にはまるで構わず一方的に続ける。
時刻はいわゆる黄昏時。標準的な下校時刻よりやや遅めの部活帰り。
走りやすいジャージ姿なのは幸いだが、もう散々走って体力はとうに尽きていた。
少し外れた公園を通過している最中にコレに出くわしたのだから、スマホ片手に遊ぶ小学生どころか、誰一人の気配さえもなかった。
無視して足早にすり抜ける。
男は、怒鳴ったりはしなかった。ただ鹿乃の後を追従する。
「おい、何故逃げる?」
その一歩は、彼女の小走りの二歩分に相当した。徐々に距離が詰められていく。鹿乃が足を速めれば、彼もまたそれに合わせた。
面倒なつきまといには今までも一度二度遭ったが、その時の嫌悪感とは訳が違う。
本物の威圧感。本能的な恐怖。
それが、彼女に逼迫した感情を植えつけた。
「さては……奴めのことに、何か心当たりがあるのかぁっ!?」
などと独り合点。
地響きのような足音とともに、大きく男は踏み込んだ。
表情、感情共にナチュラルかつフラットで通っている鹿乃だったが、この時ばかりは悲鳴をあげた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます