第10話

 道中で放り捨てた荷物を回収した後、変身を解いた千明とネロは家へと帰った。

 今日入ったばかりの新居の扉を後ろ手で閉ざすと、重く冷たい音が帰ってきた。馴染みのないマンションの一室に、安心感は存在しない。

 玄関先でへたり込んだ千明は、震えの止まらないおのれの腕を押さえつけた。


「安心しろ。尾行はない。部屋の中も検閲済みだ。……大丈夫か?」


 リュックから這い出て、案じるように声をかけるネロに、千明は震えを止め、顔を上げてみせた。


「いやー気持ちよかったー!」


 と、はしゃいで。


 は? と訝る黒猫に、拳を突き出し、満面の笑みを張り付かせ、

「いやー、見た? 見ちゃいました? 僕の活躍。パンチにキックで凶漢を撃退!」

 身振り手振りで、興奮したように彼女は言った。

 しかしネコは笑わない。碧眼以外が、闇の中に埋もれていた。まったくノリの悪い。


「……千明」

「意外な才能だね。まさか僕に魔女っ子の資質があったとは。このまま人知れず戦うヒーローになるのも良いかもね! いやヒロインだよね、これでも女の子ですよオンナノコ」

「やめろ」

「これはグッズの販売とかも考えなきゃならないね! ねぇ、ねろネロってそういうのも量産とかできたり」

「もういいから止めろッ!」


 この五ヶ月間、聞いたことのないほど荒げた声でネロは遮った。


 だが、闇の中に肝心のネコの姿はない。

 代わりに長い腕が伸びて、正面から抱きすくめた。

 厚みのある外套に覆われたその腕が、濡れている。いや、彼の衣服を濡らしているのは、とめどなく自分の頬を伝うものだった。

 

「無理に明るく振る舞うんじゃねぇ! 心が壊れるぞ!」

 腕の主は、ネロの声で言った。

「ったく、俺がどれだけの晩、ベッドの中のすすり泣きを聞いたと思ってんだ」

 ただ、そう毒づく彼の言葉は、湿り気を帯びている。泣きたいのはこちらのほうだ、と言わんばかりに。


 顔の形、表情の作りまではわからない。見ようにも、まず自分がこのぐしゃぐしゃな顔を見せたくなかったし、そんな自分を問答無用にあやすかのように、自身の二の腕に千明の目元を押し付けていた。


「……いつから……」

 自分が狙われていることに、気づいていたのか。

 ようやくのことでそれだけ千明は問うた。


 少なくとも、この家に来た時点で、いやそれを見越して強化ユニットあんなものを作成している段階で、今回の襲撃を予期していたはずだ。


「……あの事故の時からだ。明らかに、エンジン部分とブレーキに弄られた形跡があった」

 ごまかしもなく、ハッキリとそう答えた。根拠までは、口にしなかった。

 ただ彼女の頭を押さえる力は、ぐっと強まった。


「だから、あの時選ばせたんだ。『生きたいのか』って」


 頭上から落とされた言葉には、独語のようなニュアンスもあり、どことなく遁辞じみた身勝手で卑劣な響きもあった。だがその自覚もあったのだろう。自嘲めいた気配もあった。


「――いや、そうじゃないよな。あの時、今夜も、お前には選択肢なんてそもそもなかった。けど俺には、お前を助けるだけの技術ちからがあった。そのうえで、見殺しになんて出来やしなかった。結局それが、俺のエゴでしかないなんて、知れ切ったことだったのに」


 違う、と返すことはできなかった。

 千明を抑えつける彼自身の力が、そんな口ばかりの安易な慰めを許さなかった。


「だからお前は、俺を恨んでいい」

 とさえ、ネロは言った。せめてそれだけは、覚悟をしているのだと。


「いやだ」

 顔を埋めたまま、少女は言った。

 肯定も、否定もしなかった。ただ素直な感情を、絞り出した。


 きっと自分には彼を責める資格があるのだろう。

 そしてそれを明言することは、クッキーを割る程度には容易なことのはずだった。

 いや、容易過ぎるからこそ、それは決して言ってはならないのだ。


「きっと君を赦せなくなったら、僕はその瞬間から僕自身を赦せなくなる」


 だから、と袖を握りしめる。ますます、腕をすりぬけた彼女の額は、男にしては薄く華奢な胸板に叩きつけられた。すがるのではなく、挑むように。


「それでも悪いと思ってるなら、今はこのままでいて」


 答えはなかった。

 ただ彼の手の中からは自罰的なまでの緊張は解け、代わり、思い出したように、彼女の肩回りを消極的に撫でつけた。


 月のほのかに照る部屋の中で、ひとつに重なった影はしばらくそのままだった。

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