第7話

 炎が、目の前に迫っていた。

 全身を痺れさせる激痛が彼女を苛み、引火したガソリンの悪臭が脳を締め付けるようだった。


 あぁ、まただ。

 記憶に焼き付けられた悪夢。それと近似する光景を目前に、そして死を予感した千明はぼんやりと噛み締めていた。


 けっきょく、自分はあの時から抜け出られていない。全てを忘れて明るく生きようとしても、ここに戻ってきてしまうのだ。

 根拠のない迷信じみた妄想だったが、千明は自分の人生をそう定義づけた。


「……い、おい、千明ッ!」


 自分を呼ぶ声に、千明は心の闇から意識を引き上げた。

 フードをかぶった黒猫の矮躯が、目の前にあった。だがその背に、盛る炎と自動車だった鉄塊が見えた。


 引きつった声をあげてパニックに陥りかけた彼女の正気を、ネロは肩を抱いて繋ぎ止めた。


「落ち着け! 俺を見ろ!」

 何かにすがるように、言われた通りに視線をネロに集中させる。


「何が見える?」

「……ネコ」

「そうだ。決して金髪碧眼のイケメン異世界人じゃない。キュートなネコさんだ」

「……それが?」

「つまりこれは過去の地獄なんかじゃない。今現在打破しなきゃならん煉獄だ」


 自虐混じりの冗談には、千明はクスリとも来なかった。それでも、彼女はその心に一応の平穏を取り戻した。


「でも、打破ってどうやって?」


 落ち着いて状況を確かめると、自分たちの周りだけ、炎が遠巻きになっている。

 おそらくはネロの魔法が、防ぐ止めているのだろう。あの時と同じように。


 だが、じりじりと炙られるような熱だけは、どうしようもない。その熱を背で浴びながら、

「手段は、ふたつ」

 黒猫は答えた。


「今のところ連中はお前が焼け死んだと思っている。その隙にこの場から離脱する」

「そっ、それだ!」

 千明は飛びつくようにその絶好の提案に乗ろうとした。

 黒猫は青い瞳を微動だにさせずに、続けた。


「けど、奴らはプロだ。後で確かめた時にお前の死体がないことに間違いなく気づく。そして、確実にトドメを刺しにくる」

「そんな……!」


 なんで、こんな目に合わなければいけないのか。事故に遭っただけでも不幸なのに、加えて殺し屋にまで命を狙われるのは、理不尽にもほどがある。


 どうすれば良い。再度そう問おうとした矢先、

「そこで第二の選択肢だ」

 と彼はすかさず提案した。

 傍に生じた空間のひずみに手を突っ込んだ。

 波打つ出入口から引き抜かれた手には、長細い筐体が握られていた。

 方形の容器にあしらわれた炎の装飾は、無骨な鉄錆色。基本的な骨格は自分の中に埋め込まれた『ケージ』と酷似している。いや、というよりもランタンあるいはカンテラを意識した作りになっている。


「それは……?」

「『ケージ』の戦闘用強化ユニットだ。回復した今となってはお前の身体に『鳥籠』のエネルギーは余りある。余剰分のリソースを魔力へ転換する分には問題ない。これで奴らを制圧する」

「強化ユニットって」


 ますます改造人間みたいだ。そう皮肉な言葉が出かかったが、笑いごとではないのでやめた。代わりに、引きつった笑みがこぼれ落ちた。


「ただひとつ忠告しておく。これを使えば、お前はこの世界の原則から完全に逸脱することになる。そして今抱えている喪失感以上の地獄を見ることになる」


 そして猫の目からも、すでに笑みや諧謔は消えていた。

 炎に照らされたその小さな背から生じた影が、触手か何かのように千明の膝下まで伸びてくる。


「あの時と同じく、選べ。いずれ確実に殺されるのを先延ばしにしながら、それでも人として生をまっとうするのか。それとも修羅の道に踏み込みながら、戦って活路を拓くか」


 千明は、考えた。いや考えるだけのポーズをとった。本当はすでに答えは決まっている。


「ずっるいなぁ」


 知らず、言葉がこぼれ出た。切り裂かれた腹から、臓物が押し出されるように。


「君は知ってるんでしょ。僕がどっちを選ぶかなんて」


 猫は答えない。ただカンテラを、無言で捧げ持つだけだった。

 それを強く鷲掴みにしながら、少女は己が口を強引に吊り上げた。


「僕はもう決めちゃったんだよ、君と出会ったあの時に。そしてこれからも答えは変わらない。これだけは変えちゃいけない……僕はっ……自分の命を諦めない!」


 千明は気炎を吐くと同時に、周囲の炎が彼女を取り込んだ。

そして最初の決断と同様に、明確な意思を持っているかのようにふたりを覆い包んだ。


・・・・・


 持蔵興業はその法人名とは別に『ノームズ』という異名を持っている。

 社員数は二十名足らずだが、こと『破壊』『解体』といった点においては右に出るものはいない。

 こと後腐れなく、そして確実に処理できる根回し手際の良さには一定の評価を得ていた。

 ――生物も無機物も問わず。


 ぞろぞろと、手狭な路地を縫いながら『従業員』達が燃え盛る自動車の残骸に集まりつつあった。それは俯瞰すれば、死骸にたかる蟻のようでもあっただろう。だが近づき彼らと対面すれば、鼻までプロテクトされたゴーグルの隆起や土の臭いが、それこそモグラを連想させただろう。


 彼らの一歩先に進み出たのは、黒髪を短く刈り上げた若い男だった。その髪を整えてからメットをかぶり直し、大儀そうに溜息をこぼした。

「社長、お疲れ様です」

 後に続く彼らは、その男に頭を垂れた。

 それをごく当たり前のように受け入れながら、社長と呼ばれた男は平坦な声で命じた。


「死体は回収して写真を撮れ。顔が潰れていたら特徴のわかるもので構わん」


「しかしオーバーキルやりすぎにもほどがありますよ」

 男たちはゴーグル越しにけわしい表情を浮かべていた。といっても、つい半年近く前に不幸に遭った少女が、またかくのごとき煉獄に叩き込まれたことに対する憐憫ではなかった。ただ純然な、職務への疑念と不満だった。

「というか、わざわざこんな死に方させることもないじゃねぇんですかね」

 別の男がそれに同調した。


「仕方ないだろ。これがクライアントの依頼だ。どんな状況にするかは任せるが、自動車を凶器に選べってのがあちらさんの注文なんだよ」


 マスク越しにくぐもった鼻音を鳴らし、『社長』は彼らに理解を示した。


「いったいどんな思惑なんですかね。事故に見せかけるにしても、もうちょっとやりようはあるってもんだ」

「さぁてね。正直あんな成りあがりの小者なんぞには、銭勘定以上に踏み込みたくねぇかな」


 ここが物証を残すことの許されない現場でなければ、メットを脱いで髪をかき回し、ラークの一本でも吸いたいところだ。

 まったく後味の悪い仕事を押し付けられた。そう愚痴をこぼしかけた瞬間、彼の感覚は変化を捉えた。


 焼ける風の流れが反転している。鼻先をかすめる土の臭いに、焦げ付きが感じられない。やがてそれは目前で踊る火の粉の動きにさえ異常をもたらしている。

 そして逆転した渦の中央に、何かが、居る。


 顔面の防護によって表情を完全には読み取れないまでも、周囲の状況と、彼の心境の変わり目は周囲の社員たちも悟ったらしい。


「社長……?」

 と指示をあおぐ彼らに、すぐさま『社長』は命じた。


「ハチ、『クルマ』を引っ張って来い。他の連中はあの中心から距離をとれ……何かが、いる」


 大まかな方針を飛ばせば。それだけで彼の忠実な部下たちは動き始めた。

 だが、まるでそれに呼応するかのように、未だ燃え続けていた炎が内側から大きく膨れ上がって天へと伸びあがった。


 残っていた燃料に引火したうえの二次的な火災ではなかった。それはあまりに力強い暴発であった。それこそ、焼かれていた自動車がその爆風によって天へと吹き飛ばされるほどに。


 唖然とする彼らの頭上へと伸びあがったそれは、そのまま急転直下。フロントは衝撃によってひしゃげ、ガラスが飛び散り、何人かの作業着にあたり、さらにそのうちの一部の肌が切り裂かれた。


 膨れ上がった火が、まるで台風の目のようにある一点へと収束していく。

 赤光に照らされながら輝く硝片が、その中心に立つ華奢な影を浮き彫りにした。

 腰まで伸びた水色の長髪。くすんだ赤色のケープ。フリルのついたミニスカート。すらりとした脚で屹立している。

 錆びついたような色合いの、用途不明の金具。腰には方形のカンテラがあしらわれ、その中に見たこともないほどに鮮やかなオレンジ色の種火が燃え盛っていた。


 少女だ。

 魔法でも使いかねない面妖な装束の、十五歳程度の女が、死んだはずの赤石千明に代わって、そこにいた。


 そこだけが、この工事現場を装った空き地だけが、まるで俗世から切り取られ、別の空間、別の時間に置き去りにされたようだった。

 ゆったりと推移していく時間の中で、マスクの下の口を目いっぱいに開け、驚愕とともに現れた少女を見守っていた。そして何より不可思議なのは、


「…………へ?」


 当のその『魔法少女』が、一番驚いていることだった。

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