第3話
事故から半年が過ぎた。
銀杏が散り、大雪が降り、そして桜のつぼみが膨らみかけていた。
そして赤石千明は、生きていた。
生きて、ふたたび故郷の土を踏んだ。
新幹線に乗って、世話になってきた都内の病院からおよそ三時間。
少女は、大荷物を引きずるようにして駅から出た。
さんさんと輝く太陽が、彼女を出迎えた。
春にしてが暑い日だった。陽光は容赦なく降り注ぎ、ガラス張りの窓がそれを照り返して少女の白い肌を苛んだ。
だが、その温暖が、穏やかで、緑を含んだ風が、タートルネックのセーターの間をすり抜けて、こそばゆさにも似た爽やかさに変化した。
病院を出てからすでに何度も屋内外を出入りをくり返しているけれども、何度味わっても飽き足らない新鮮さであり、感動だった。
大きく伸びをして、首を上下させる。
キャリーバッグを改めて持ち直し、よしっと軽く気合いを再注入。
古来より貿易港として栄えたいわゆる海の都である。
戦国時代においては四国との間に点在する離島は大名家与力の水軍衆や土豪、一揆衆たちの要塞として用いられ、江戸時代によってそれらが破却されて以降は本州側の入り江を拡張し、生糸や鉄鋼、塩などの販路として用いて藩や商家の蔵を満たしたという。一時期その産出量が落ち込んだこともあったが、藩で廃棄されていた牛骨はサトウキビの肥料として効能ありと珍重がられ、それゆえに幕末の騒乱においてはそれを薩摩藩へ売りつけて武器や軍艦を買うための資金源となった。
その後明治期においては軍港としてもたびたび利用され、さらにその経済を発展さ
せた。
大正も戦争経済で大いに潤い、昭和においても戦火にさらされたことは一度もなく、平成を迎えた。二十世紀末においては大地震が来るとの風聞がどこからともなく、まことしやかに流れたが、そんな天災も結局うわさばかりで起こることがなかった。
一切の大敗も挫折もなく、一五〇万人の人口を抱える海の商都。それこそが、この灯浄
市であった。
ほら周囲を見渡せば、洗練された港町の風景が……ない。背にそびえるのは山である。
いやいや前方を眺めれば、ヨーロッパの気風を感じさせる優雅な建物、文化を取り入れたオシャレな洋菓子店……ない。ありふれた住宅街とオフィス街の中間だった。
うん、と少女はうなずいた。
「どうした?」
足下から、そう問う声が聞こえてきた。
「いや、ふつう主要都市のついた駅名イコール交通の要衝とか思うじゃない」
その声に対し、彼女は自然に受け答えした。ほう、とその声は低く相槌を打った。
「新幹線だって停まりましたし?」
「まぁな」
「というか僕、暮らしてたのは五歳ぐらいの話で、あとはずっと親の都合で引越し引越しのまた引越しでしたし?」
「つまり?」
「降りる駅、間違えた」
しばし、沈黙の時が流れた。
「叔父さんとの待ち合わせ、いつだっけ?」
「十五分後」
宣告は、無慈悲、無機質、無常だった。
「ははっ」
千明は、かわいた笑い声を立てた。
「うぉぉぉぉぉっ!」
一瞬後、そこには帰郷の喜びを噛みしめる少女の姿はなかった。
全力疾走する、女子の姿があった。
・・・・・
アカシヤグループは、市内でも有数の総合企業グループであった。
江戸期には当時特産だった生糸や塩とは無縁の、オキアミや海草などを売って細々と利を得ていた仲買商であった。だがそれも今となっては昔のこと。
今では市の中央に三十階建ての商業ビルを構える、押しも押されもしない大企業へと成長していた。
「――で」
そのオフィスの最上階。その代表取締役である赤石
デスクの上を見た。スイス製の水晶時計は、彼女との面会開始時刻が五分オーバーしていることを示していた。
「一駅分走ってきたのか。わざわざ」
少女は、重々しくうなずいた。
彼女が何も言わないのは、そして眉間にけわしくシワが寄っているのは、酸素ボンベを口に押し当て吸入をくり返しているからだ。
「そんなことしなくても、電話をくれれば迎えをよこしたのに」
「いやだって、せっかくの故郷ですし? ちゃんと見ておきたいじゃないですか」
ボンベから口を離し、ふらふらとキャリーケースにもたれかかりながら彼女は答えた。
この強行軍でだいぶすり減ったのか、車輪の部分が彼女の体重にキュウキュウと音を上げた。
身体を動かしたせいか、朱の色が頬やうなじに差していたものの、その肌は白く美しい。
言い換えれば、吹けばかき消されるロウソクの灯のような儚さを持っていた。
儚さというのは外見だけの話だ。母親ゆずりの気品ある顔立ちで、笑いもするし、怒ったりする。その時には、相応の威圧感があった。
何より、納得できないことがあれば人一倍意固地になりやすい、我の強さを持っていると、生前の兄より愚痴めいた調子で聞いたおぼえがある。
永秀にとっても扱いにくい相手と言えた。
とにもかくにも、この見てくれだけは華奢なこの姪の完治を、喜んで見せることにした。
「よくあの事故を乗り越えてくれた。天国の兄さんたちも、きっと喜んでいることだろう」
「えぇ、それはもう。ワタクシどもも、手を尽くした甲斐があったというものです」
そう傍でおべっかを使ったのは、その姪、千明の主治医兼入院先の院長だ。
あまり外見には頓着しない性分らしく、ただでさえ薄めのシャツが、汗で透けて下着が見えている。
よしんばファッションに気遣っていても、磨く努力を怠った肥満体と気弱げな伏目が偉く見せることを許さないだろう。
町医者あるいは小役人が、何をどう取り違えたか大病院の主として担がれた。そんな印象を受ける。
「あれっ、先生? どうしてここに?」
そして彼の来訪は、千明は知らせてはいなかった。
彼女に関係あることで呼び出したが、彼女は知らなくて用向きだ。
「まぁお前の経過報告を直接お伺いしたくてな。何しろ、生存さえ絶望的な事故が、後遺症も残らず完治だ。気になるじゃないか」
院長は肩を萎縮させて微妙な笑顔を作ることで、永秀自身は適当な話をでっち上げることで誤魔化した。
手元のデスクから書類を引っ張り出してまとめた彼は千明の肩を抱いてそれらを手渡した。
「お前も今の今まで入院生活で疲れているだろう。長く引き止めるつもりはない。編入や新居の手続きはしておいたから、これからは自分の人生を謳歌しなさい」
そう優しく教え諭し、その背を押す。
真っ白なうなじが見える。全身を炎に包まれたはずなのに、焦げ付きどころか術後の痕跡さえ見つからない。感動とおぞましさが同居したような、奇妙な感覚に陥った。
「ありがとうございます、叔父さん」
丁重に礼を言って、かすかに笑む。細めたその目に、お人よしだった兄の面影があった。
部屋を出ようとする彼女の荷の上で、ぬいぐるみが大きく揺れた。
猫のような、フードをかぶった魔法使いの影ような、あるいは黒猫がそんな魔法使いのコスプレでもしているかのような、シンプルだが独特の意匠の、彼女の膝下ぐらいの背丈の人形だった。
だが妙にその質感には真実味や生物感があって、安直にかわいいと評することができずにいた。
たしかに愛嬌はある顔つきをしているのだが、そのターコイズブルーの両眼には奇妙な力があって、これまた持ち主同様に、きなくさいものを感じさせた。
「それ、ハロウィン用だったりするのか? 少し季節外れじゃないのか?」
頰を引きつらせて揶揄する叔父に、姪は嬉しそうに迷わず答えた。
「大事な友達」
と、本当に嬉しそうに笑うのだった。
・・・・・
扉が閉じた。
今度こそややぎこちない車輪の音と、彼女が履いていたドクターマーチンの、小洒落た靴音が遠ざかっていく。
少女の気配がそれらと一緒に遠ざかって消えていくまで、永秀は笑顔で見送った。が、すぐにそこに陰が差し込んだ。
「さてと、先生?」
笑みはたたえたままに、医者へ彼は振り返った。
感情を押し殺し、極力やさしく声をかけたつもりなのだが、彼よりも一回り年上の、それこそ老人と言って良い彼は、大げさなまでに総身を居すくませた。
膝の上で拳を握り固める彼を大きく半周し、その背後に回って彼の座るソファの縁を指でなぞる。
「ちょうど、こんなソファがなかったか?」
「は、は!?」
「いや先生と直接お会いした時さ。半年前、あの『事故』の直後、あなたとレストランに行ったんだ。そのVIPルームで、あなたは150gのリブロースステーキを美味そうに頬張りながらこう言われた。『あの娘の命はもって数日。ただ適当に放置していてば、直接手をくださずとも事は成ります。あとの始末は我々にお任せください』とね」
老医師は答えなかった。ただ震えていた。こちらの言わんとしていることは承知しているだろうに、その弁解ひとつ、言う能さえないと来た。
大仰に揺れる彼の背で笑い声を立てた。
我慢の、限度だった。
「……じゃあ、なんで! まだあのガキが生きてんだよッ!?」
表情を、一転。
永秀は鬼の形相で白髪交じりの後頭部をひっつかむとデスクにその顔面を押し付けた。
身もだえる医者は口を動かして何やら言葉にならない声を出していたが、そんなことはお構いなしに、彼はまくし立てた。
「もう待ったぞ、だいぶ待った! 脂まみれのお前の口から出たことを信じてなッ! そしたらあの小娘、一駅分の山道を荷物持って走って帰って来やがった! それとも何か!? 急にお前やお前の部下の勤労意欲や道徳心が芽生えて神業でもほどこしたってのか? 臓器の横流ししか頭にねぇようなヤブどもが、今更三流の医療ドラマのマネゴトか、あぁ!?」
耳元でがなる彼に顔をしかめ、医者は頭を動かして自分の呼吸を確保する。
それから、ようやく聞き取れるだけの言葉をつむいだ。
「そんなこと、しようとしても出来ませんよッ! 本当にわからないんですよゥ……確かに半年前まで、そんな状態だったはずなんです! 呼吸どころか、心肺だって止まって……脳だって……一時は完全に死んでいたはずなんです! ある日を境に急激に快方に向かい始めたんです! それでも、処方したのはせいぜい鎮痛剤と栄養剤の点滴ぐらいなのに……通常では考えられない速度で治癒していったんです!」
引き出した情報は、今までさんざん聞いた言葉だった。
舌打ちしながら永秀は医師を解放し、手で払って追い返した。
「『通常では考えられない』……ね」
兄に代わり自分のものとなったカーボン製のデスク。
その座につきながら、ふたたび舌を口腔で打った。
ならば、自分も正規ではない手段をとらざるをえまい。
もし兄や義姉が生きていればその手段の結果に何かしら感づいただろうが、もうすでに二人は亡い。死んでいるからこそ、自分はここにいて頭を痛めているし、彼らの娘は死なねばならない。
――そう、異をとなえる者は、誰もいない。咎める者は、誰もいない。
彼は嗤い、スーツのポケットから電話をとった。
「……あぁ、
手短にその依頼だけを伝える。あとは段取りはあちらが整えて、数日としないうちに成果だけがこの耳に入ってくる。そのはずだ。
「お前が悪いんだぜ、千明。あの時おとなしく死んでおかねぇから、もっとかわいそうなことになるんだ」
そう言って、喉の奥を震わせる。
高層ビルの最上階でひとり悦に入るその姿は、まさしく孤独な王のそれに違いなかった。
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