第10話 見えない傷跡


 朧気な意識の中、僕は自分についてどのくらい理解しているのかを考えていた。

 頭の中が錯綜とし続ける中、揺らがずに覚えていられている記憶が少ない。その数少ない記憶の中で、一番に感じるのは、自分自身の優一に対する気持ちだけである。愛おしくて、ずっとそばにいたいという感情が目の前にあって、届きそうで届かない不安定な場所に気持ちがある。だけど、肝心の彼がどうしても出てこないのだ。どんな人物でであり、どのようなことを僕に与えてくれたのか。そして、僕はどのようなことを彼にできていたのだろう。


 何もしてあげられていないのではないだろうか。頭に残るのは常にそんな、ありきたりな不安だった。僕は確かに、優一からたくさんのものをもらった。物質的なものだけではなくて、彼を想う心や生きたいと願う感情の羅列も、彼からもらった大切な日々の一つである。

 それに対して、僕は何をしてあげられたのだろう。

 もし、僕は彼を殺して自らも死のうとしたのならば、僕は彼から奪ってばかりじゃないか。そして、奪ったことすらも、今覚えていない。突きつけられる音色でしか、自分のしてしまったことを理解できず、また優一を傷つけようとしている。

 例え真実がわかっても、この罪悪感は変わらない。それどころか、おそらく更に強くこの心を蝕んでいくだろう。


 記憶なんて、取り戻すべきではなかったのか? このままなくしていたほうが、僕の精神が蝕まれることはなかったかもしれない。


 そんな感情が生じたときだった。僕はそれに対して、無自覚に大きくかぶり振った。

 それと同時に、再び手のひらに残る殺人の痕跡が蘇る。自分がこの感触を彼に向かっていってしまったとすれば、それを忘れることなんてできない。

 そうだ。僕は確かに、生きていた頃の記憶がこの中にある。でも、それを見つけるすべがない。だから無意識に、生前の記憶を求めたんだ。心の中で納得できる答えを見つけ、彼に対して償うために僕は今ここにいる。

 ここにいることそのものが、僕が弱い証拠なのだ。何度も、何度も逃げてきた分、僕は彼に対する償いをここでしなくてはいけない。そう思うことができれば、幾分気持ちが救われたように思える。

 これは確かに自己満足であろう。だけど、だからこそこの自己満足を完遂したかった。


 その願いが自らの身体に響いたのか、筋肉は軋むように声を上げて起き上がる。

 ふかふかのソファはこの状況では嫌味にも似ている感触を皮膚に残しており、ふわりと漂う柔軟剤の匂いが横をかすめていくようだった。微かに瀰漫した香料の匂いに頭がくらりと歪みそうになるが、すぐにその匂いに纏わりついている気配に耳を澄ませる。

 沈黙深まる室内の真ん中、つまりはこのソファのちょうど目の前に何かがいたようだ。


「誰か……いるの……?」


 自分の意識から離れるように、ぽつりと飛び出た言葉が反響した。

 その声が帰ってくるよりも先に、目の前に現れた人影に僕は圧倒される。その重圧に体が押しつぶされそうな程の苦しみを感じ、ひっそりと歪む輪郭に視線を合わせてみると、ふわりと一つ、喧しい香りが気配を主張し始める。

 辺り一面に散乱したのは、強烈な血の匂いだった。生ぬるさすらも感じられる鉄の匂いが辺りを覆い尽くしたと思えば、僕が眠っていたソファは不気味な錆色に変色していて、周囲は漆黒に染まっている。恐らくは再び世界が変形したようだ。

 眼の前に立ち尽くす謎の人影は、変形した世界に対して何も反応せずにただ呆然と立っているだけだ。その人影が何なのか、理解するまでかなりの時間を要した。


 妙に立体感のある光沢を持つそれは、あたりの漆黒に乱反射して徐々に人影を明瞭にしていく。

 この人影は、全身が血に覆われている。体中の皮膚が引っ剥がされているように、光沢の下に痛々しい真皮が垣間見え、けたたましい心拍の音が僕の体を鳴らした。

 一気に、体が泣き始めた。筋肉が揺れて上手く動かないのだ。眼の前の化物に完全に気圧されてしまって、その場から逃げようとしても上手く動けない。そもそも、辺り一面は深い闇が広がっている。ここから逃げることも難しいだろう。

 その答えが出るよりも先に、僕の心臓は破けるほどの叫び声を上げる。


 人影は、まるでコマ送りのような動きで眼前に迫ってくる。首を振りかぶるように回しながら、怪物の顔が僕の目の前に迫ってくる。それは、まるで糸が切れた操り人形の首がもげるような動作で、虚ろな顔が真正面に並ぶ。

 その顔を見て僕は心臓が止まりそうになる。なぜなら、その顔は間違いなく僕なのだ。勿論自分の顔なんてわからないし、覚えていない。だけど、これが自分の顔であることだけは確かにわかる。瞳は非常に虚ろでガラス玉をそのまま眼球にしたような無機質さを持っていて、表情そのものも強張っていてやつれた印象を受ける。おまけに恐ろしいほどに痩せていて、色も相当に白い。それを適切に表現する言葉が死体というもの以外浮かばず、人形にように蠢く首が不気味だった。

 それを見て、僕は言葉を失って、無自覚にソファの一部を握りしめる。誰かの助けを求めているのだろうか。眼の前の奇怪な存在に対して抱く感情は恐怖だけだった。深い苦しみを宿したその顔は、気味悪く笑っているようにも見え、底なしの狂気を感じさせながら大きく口を開いた。


「お前が殺した」


 同時に、再び狂った旋律が聞こえてくる。

 頭がおかしくなりそうなほどの不協和音とともに、更に目の前の怪物は続けた。


「いつもお前はなくしてばかり」

「愛していたはずの優一を、そして次は自分すらも」

「この音からすらも逃れようとする」

「弱い弱い、血まみれの僕」


 徐々に心拍数が上がっていく。眼の前の怪物が呟き続ける狂気の音色が頭に残って離れなかった。

 増えるほどに軋んでいく鼓膜が指先にまで震えを運んできているようで、僕は動くことができなかった。無意識に握りしめるソファの片鱗が手のひらに嫌な感覚を残す音が妙に頭に残るようだった。

 しかしそんな僕を無視するように怪物は奇怪な動きをさせながら僕に迫ってくる。


「誰もお前を愛さない」

「簡単に軋んでしまう不安定な僕」

「ぼくが僕を塗り替えてあげる」

「沢山の血で塗ってあげる」


 その言葉とともに、怪物の手が僕の頬に触れた。そこを起点に僕の頬は血で染まっていき、その大量の血は僕の衣服までも濡らしていく。

 自分に起きている異変がよく理解できなかった。眼の前にいるものが何なのか、僕はこれからどうなってしまうのかも、よく理解できずに視界が赤黒く変色していき、最終的に僕の視界は完全な赤に閉ざされた。

 気がつけば、そこに怪物はいなかった。まるで最初からそこには何もなかったような沈黙だけが残っていて、苦しみめいた不吉な赤色が広がっている。


 暫くの間、僕は動くことができなかった。あたりは見慣れた室内に戻っていて、優一の残り香が今にも漂ってきそうな優しい空気感が浮遊している。けれども、その色の識別は不可能であり、茫漠と赤色が僕の網膜にこびりついている。

 心臓の音色が落ち着くまでソファに蹲った後、ひっそりと立ち上がり、当てもなく歩き出す。


 この部屋に残されているのは、後は優一の部屋だけであろう。もしかしたら、まだ知らない自分の記憶がそこにあるかもしれない。そんな希望を抱えてゆっくりと彼の部屋の扉を開く。

 ドアノブに触れた瞬間だった。まだ室内に入っていないのに、彼の部屋が頭の中に流れ込んでくるようだった。扉を開いてその真正面にある彼の机や、異国情緒溢れる使い古されたベッド、大量の本棚にある医学系の本、殺風景という言葉だけで表現できる光景が目に触れた。

 それを感じたときには、既に扉を完全に開いていた。彼の部屋を思い出すよりも少し遅れて視界が目の前の室内を写真のように切り取り、赤黒い想像と同じインテリアが目に飛び込んでくる。


「優一の部屋……僕の頭に残っているものとほとんど同じだ」


 率直な感想を述べてみても、帰ってくるのは自分の言葉だけであり、他に帰ってくる言葉はない。少しだけ、再び優一の声が聞こえてくることを祈っていたのかもしれないが、落胆じみた苦しみが浅い呼吸となって肺を蠕動させた。

 しかし、一瞬にして色彩が変わっていき、先程までの鬱陶しい赤色は息を潜め、視界が生き生きとした色彩を帯びていく。その光景の片隅には、記憶に新しい僕と優一がいた。


 2人は、大量に携えた宿題を持って小さな勉強机に並んでいる。勉強こそしているのであろうが、会話の内容はとても楽しそうで、介入の余地のないものだった。


「夏休みの宿題、溜めちゃったね」

「遊びすぎたな」

「入り浸ってゴメンね……」

「いいんだって。することもないんだし、親もいないし」

「でも、優一のお父さんすごい優しいよね」

「適当なだけだって。なぁ、国語の問題、読んでもらってもいいか? 意味も教えて」

「勿論だとも」


 優一の願いを快く聞き入れて、記憶の中の僕ははきはきと長い文章を読んでいく。

 そのさまを見て、優一といるときの僕は、今の僕とは比にならないほど楽しそうであることに気づいてしまう。今までは音のみで聞いていた記憶たちであったが、目の前にそびえる視界で形成された記憶は強い後悔も混じっていた。

 彼のことを、本当に好きだったのだ。それなのに僕は、彼のことを突き落としてしまった。殺してしまった。それを思えば、この手のひらは再びあの忌々しい感覚に苛まれる。今まさに、彼のことを突き落としてしまったのような感覚が手に残っている。

 それを振り切るように、目の前に転がっている記憶に手を伸ばした。


「ありがとう。国語終わったら後は楽だからな」

「どういたしまして。僕はあと英語だけだから、優一に聞こうかな」

「何なら全部やってやる」

「わからないところだけにしてよ」


 その直後、優一はトイレにたってしまい、僕はひとり取り残されてしまった。

 その音までも聞こえてくる。何かを物色する音とともに、本を開く音が聞こえてくる。


 立体的に耳元で聞こえてくるあのときの音に、徐々に記憶が蘇ってくる。

 このとき、僕はしてはいけないことをしてしまった。手持ち無沙汰な短い時間、彼のつけていた日記を見つけてしまい、その中身を見てしまったのだ。

 だけど、それは見てはいけないものだった。直後に、本を落とす音と、乱れた自分の呼吸を気取り、僕はゆっくりと歩き出す。目指す場所は、空っぽの机に残っている彼の日記だった。


「今日、折人の元気がない。プール授業にも出なかった。体中に傷があることを知っているのは多分俺だけ。どうしよう。信一に話そうか悩んでる」

「折人は俺の前では笑ってるけど、時々表情が暗い。別れるときは決まって同じ顔をするのもいつもどおり」

「折人の腕の傷を見た。でもあれは、もしかしてリストカットか?」


 そこに書かれていることは、今の自分が知ることのない、自分の情報だった。

 それを見て、僕は手にとった日記を落としてしまう。あのときと同じように。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る