第9話 熱鉄の道



 一瞬、僕の意識はこの不可解な現実ではなく、ずっと続いてほしかったあのときに戻ったようだった。かすかに響く優一の声に従って、僕はゆっくりと歩いていく。ほとんど何も見えない道を、道と言えるかわからないほど曖昧な世界の隙間を縫って、聞こえた声を目指して必死にもがき続ける。暫くの間歩を進めた後、たどり着いた世界は結局、自らの記憶の中枢だった。


 先程見たときと大分風景が変わっているように思えるが、本質的には何も変わらない不可解さの詰まる室内は、すっかり平常な形質を持っているようだった。大量に残る人の顔は何事もなかったように壁に戻っていて、無機質な視線をこちらに向けている。

 正面に鎮座していたハニカム構造のガラスケースは元に戻っている者の、中に詰まっていた臓物の類は存在せず、空っぽのまま僕を睨みつけているようだった。それに影響されているのか、後方のスペースはなくなっていて、学校に向かうことはもうできないだろう。


 一瞬にして振り出しに戻ってしまった、僕は勝手にそう解釈してしま、項垂れるように床に座り込む。床には、先程まで一麺を締めていた肉癖のようなものはなくなっていて、こちらも無機質なコンクリートの床が平常に広がっている。

 正直なところ、ここからどうすればいいのかわからなかった。完全な手詰まり、今の状況を表せばそんなところだろう。どういうわけか、進めど進めどここに戻されているようにも思える。

 ひとしきりそれについて考えてみても、この場所から抜け出す決定的なものにはならず、ただ長い混乱だけが頭の中を逡巡しているようだった。


 今自分にできることは2つある。一つはこの場所の管理者であり、何かしらの手段を講じる事ができる瑠璃を探すこと。もう一つは、先程の優一の声を探すこと。しかしどちらにしても、この息の詰まりそうな閉鎖空間から抜け出さなければならず、具体的な手段について知るところではない。

 結局、一周回って「どうすればここから出られるのか」という結論に戻ってしまい、深い溜め息に飲まれてしまう。

 そんな中、僕は弱々しい声で呟いた。


「……優一は今、どこにいるのだろう」


 連続して思い出してしまった優一への想いがあふれるようだった。

 もし、あの記憶の中での殺傷が本当に事実だとするなら、優一も死んでしまったことになる。自らの罪の意識に苛まれながらも、それと同時に湧き上がる彼に対する愛情が寂しさを呼びようだった。それと同時に、手にかけてしまった感覚は今なおこの手のひらに残っている。

 だからこそ、彼にもう一度逢って謝りたかった。彼が死んでしまっているのなら、彼もこの世界のどこかにいるかも知れない。都合の良い解釈であることはわかっている。でも、彼に逢いたくて仕方がないという気持ちは抑えきれず、僕は当てもなく立ち上がり、すぐに室内を調べようとする。


 その時だった。どこからか、声が聞こえてくる。



「折人……おいで、おいで、こっちへおいで」


 けたたましく響くその声に合わせて、辺りはどろどろに溶けていき、完全に闇に溶け切る寸前で花びらのようなものが辺りに攪乱される。それは、朝顔の葉だった。朝顔がこんなふうに舞い上がる瞬間を見たことがなく、僕は心打たれるように舞い上がり続ける朝顔の片鱗を見据え、ゆっくりと花の雨を掻い潜って真っ暗な異世界を歩き回る。

 行く末などわからない。けれど、今はこの花の雨に打たれて先に進みたかった。進む方向はこの花に委ねられ、ひっそりと作られていく花弁の道になぞられて先に進む。

 その道の突き当りには、闇に佇む扉が鎮座していた。その扉からは、再び誰かの声が聞こえてくる。


「折人、ここだよ。ほら」


 薄氷のようにか細い声だった。けれど、確かに聞こえてくるその声に従って僕は扉のドアノブに触れた。

 しかしその時だった。もう、何度めかわからないオルゴールの音色が響き渡る。


 それは今までに聞いたこともないほどの不協和音で、激しい耳鳴りを引き起こすには十分すぎる音色だった。モスキート音に匹敵する不快さを伴う音色は、明らかに僕の頭上から発せられていた。

 ゆっくりと、顔を上げて上部を見据えると、そこには頭部をがたがたと蠢きながら嗤う者がいた。相変わらず、その皮膚は引っ剥がされ、筋肉繊維のような赤黒い真皮を纏うそれは、けたけたと笑い声を上げるように頭部を揺らし、シリンダーオルゴールのクランクを大振りな仕草で回し続けている。その動作に合わさるように音は徐々に音量を上げていき、最終的には脳を揺さぶるような音量を当たりに撒き散らしていた。

 同時に、目の前の扉も溶け始めている。一瞬の迷いが生じたが、その音色から逃れるようにドアノブに手をかける。


 だが、ドアノブは焼け爛れたように熱く、一瞬その熱に圧倒されて手を離してしまう。

 すると、その瞬間音色が一瞬だけ正しい旋律をつないだが、音色は再び不協和音へと戻ってしまう。扉を開くには、灼熱のドアノブに触れて開かなければならない。

 この一瞬の時間に求められる答えに、僕は強烈な迷いが生じながらも、扉に入ることを決断する。


 大きく息を吸い込み、痛みを忘れるように祈り手のひらをドアノブに纏わせて思いっきり回し、その勢いで扉を開いた。

 なんとか扉は開き、勢いよく扉の中に入ることには成功したものの、手のひらは爛れたように熱を持ち、感覚すら曖昧な状態で鈍く蠕動している。次いで襲ってきた激しい痛みは、不思議と長くは続かず、ゆっくりと熱傷も酷くないように見える。

 どうにか窮地を抜けたようであるが、あまりの気味の悪さに息は絶え絶えで過呼吸を起こしそうになる。肺は強く攻撃を受けているようで、鬱陶しいほど鳴り響く心音に混じって、血液のような風味が舌全体に広がっていた。


 一方、扉の先にあったのは、どこかの民家のリビングのようなところだった。恐らくは自分の家ではない。整然としすぎていて妙に生活感がなく、本当に人が住んでいるのか疑問の思うほどだった。

 とりあえず、ゆっくりと立ち上がり室内を一瞥すると、空っぽのサイドボードに置かれていたフォトフレームに、白人女性が厳しそうな佇まいで写っているのを発見する。その女性に見覚えはないものの、どこか優一に似ているように思える。


「この人……もしかして優一のお母さん……?」


 無意識に飛び出た言葉に、僕は正直驚きながらも彼の面影を色濃く残している眼の前の女性の写真以外の写真を探し始める。

 どこかに、彼の顔が写った写真はないだろうか。盲目的とも言える仕草で必死に彼の顔を探している。


 どうしても、彼の顔が見つからない。頭の中で何度も何度も、彼の記憶を探っている。それなのに彼の顔だけがそこにない。

 まるで僕の頭の中から、彼の顔だけが抜けてしまっているようだった。見つからないその顔を求めて必死に写真を探しても、彼は見つからなかった。


 あまりにも、この場所は支離滅裂すぎる。嘆くようにそう思っても、現状は好転しないどころか、さらなる深淵に落とされている気分だった。ここでもがき苦しむ事自体が無意味に感じられ、僕はゆっくりとソファに横になる。

 どうすればいいのかわからない。その気持ちばかりが先行して、疲労が溜まっているのだろう。一度、ゆっくりと休みたい。その気持ちから僕は一旦瞳を閉じた。

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