第2話 深海の者


 ぼこぼことした水疱の視界が途切れると、辺りは形相を一気に変え、何事もなかったかのような日常が横たわっていた。

 僕はどうやら、椅子に腰を掛けて、机に突っ伏してしまっているようだ。恐らく、通っている中学校のものだろう。今いるのは自分のクラスの、自分の席のようだった。

 しかし、ぐらついた視界は未だに目眩のような苦しさを残し、耳に到達する音たちもかなり籠もって聞こえてくる。それこそ、プールから上がった後の状態でこの場にいるようである。特に音に関しては殆ど聞こえてこない。聞こえてくるのは、全てにおいて鈍い曖昧さを残す音だけで、自分の体に何かしらの異変が起きたのではないかと感じるほどだった。


「ねぇ、昨日屋上近くの踊り場で事故を起こした男子生徒、大丈夫だったかな……?」

 あれほどまでに籠もった音が、途端に鮮明さを帯びた時だった。後方からとある女子生徒の声が聞こえてくる。聞くところによると、何かしらのゴシップのようだ。

 僕は、未だに気だるい体を一切動かすことなく、聞き耳を立てて会話を識別する。


「菅谷君でしょう? イギリス人のハーフなんだっけ?」

「あんまり喋ったことないけど、カッコいい人だよね。屋上手前の踊り場にいたってことは……告白?」

「嘘、あの人好きな人なんかいるの? ほとんど人と関わらないじゃん。英語の発音とかめちゃくちゃいいし、母国語がイギリス英語だって言うじゃん。好きな人なんていないでしょ」

「学校でも、ほとんど錫野君と一緒にいるし、ちょっと想像できないよね……」

「でも、錫野君とは日本で喋ってるよね? ちょっと片言だけど」


 その会話を聞くに、菅谷という男子生徒が事故にあったらしい。それも、昨日の出来事らしく、さほど時間は経過していない。

 だけど僕は一つ疑問に残った。どうして屋上手前の踊り場にいたから告白になるのか、今ひとつ整合しない会話に頭を傾げる。すると、そんな僕の気持ちを察するように、会話をしている女子生徒は更に続ける。


「でも本当に告白なら、菅谷君も迷信とか信じるタイプなんだろうね。だって、わざわざあそこを選んだってことは、この学校のおまじないを知ってたってことになるし」

「あぁ、屋上手前の踊り場で告白して成立したカップルは未来永劫結ばれるってやつ? 嘘くせー」

「たしかに嘘くさいけど、これで成功したカップルが何人もいるんでしょう? しんぴょーせいはあるんじゃないの?」

「そういえば、あれって、男子側からしなきゃ駄目なんでしょう? 女子側がやっても効果ないって」


 この学校にそんな「おまじない」があったのか。僕はその話を聞きながら不意にそう感じるものの、自分にはほとんど関係のないことだと思い直し、更に聞き耳を立てる。


「嘘、そんなこと初めて聞いたんだけど……。でもそれならなおさら、菅谷君が告白した子、知りたいよね?」

「あのね……だから、菅谷君があそこで告白したなんてこと決まってないんだよ? そもそも菅谷君に釣り合う女子なんていないでしょ。菅谷君だってそう思ってるって」

「もしかして、このクラスの中にいたりして……」


 話がかなりゴシップめいてきたところで、僕は呆れるようにため息を付く。

 その時点で、体中の感覚は全て戻っていて、僕はようやく立てるようになっていた。未だに神経がつながっていないようないびつな感覚に襲われているものの、普通に歩くことはできるので、ほとんど問題にはならない。

 僕は自らの足で、ゆっくりと教室の窓ガラスの横に移動した。率直に、体調の悪さと先程までのことが非現実的すぎて、気分が悪い。それを補うために、少しでも外の空気が吸いたかった。

 しかし、僕を待っていたのは平穏な外の光景などではなかった。


 窓ガラスを覆い尽くしているのは、歪曲した太陽の光だった。まるで予め用意された大量のガラスに光を乱反射させているような不気味な拡散に加えて、外は異常なほど暗い。それに、窓ガラスには大量の水疱が満ち溢れ、海の中のような空間へと変わっていた。先程まで自分が見ていた光景と全く違う。一瞬にして現実味をなくした眼前の光景に、僕は驚いて腰を抜かしてしまい、大振りな仕草で尻餅をつく。

 不意に臀部を過った鈍痛に対して、僕は患部を押さえながらも立ち上がり、再び窓ガラスの外に視線を向ける。勿論、先程の光景は自らの幻覚であることを願っていたが、無残に広がる深海のような町並みは今なお現実のものとして広がっている。

 僕は、深い溜め息とともに、ほとんど空気を確保できていない呼吸をしながら窓ガラスに触れる。ガラスはドライアイスの如き冷たさで、もはや見慣れた光景すら現実であるかどうか疑わしい。


 いや、この時点で僕は気づいている。こんな世界は現実などではない。言うなれば、現実の一辺を持つ異形の世界だ。

 本当に海に沈んでいるのであれば、こんな窓ガラスは水圧により一瞬で破壊されているし、誰もこの惨事に気が付かず会話し続けることは不可能である。この世界は、先程目を覚ました「黄泉路の分岐点」の延長線上に位置するものなのだろう。

 だがそうであれば逆に疑問が残る。この世界は一体何なのだろう。僕にとって何がこの世界にあるのだろうか。少なくとも、今僕がここにいるということはこの世界で何かしらのことを達成しない限り外に出ることは叶わないはずだ。では、そうだとするならどうsれば外に出ることができる? 僕は何をすれば、外に出られる?

 僕は混乱する頭で必死に自らの記憶を手繰っていく。出てくるものはなにもないが、先程の世界で聞いた言葉は鮮明に覚えている。


「記憶が……ほしい。覚えていたいことがあったんだ。それが何なのかはわからない。でも、僕の人生を覚えていたい」


 僕は確かにそういった。そして、この世界に意識が来る前に、瑠璃が言っていた「僕が望んだ世界」というものがここに当たるのだろう。本当に、唯一つであるかすら謎であるが、今は目の前のことを片付けるしかない。

 心の中でそう復唱してから、僕はすぐに行動を開始する。とりあえず、校舎から出ることを目的に足を動かすことにした。


 教室を飛び出て、昇降口に向かったものの、その間の通路で何もすれ違うものはない。まるで最初からそこにはなにもないかのように、校舎内は沈黙を貫き通し、響き渡る自らの足音が波のように押し寄せては消えていく。

 やっとの思いで昇降口にたどり着くも、そこは完全に水没しきっていて、とても外に出られる様子ではない。それどころか、水位が次第に上昇しているようにも見える。

 どうすればいい、心のなかで自分の声が広がった。しかしそれに答えるものは誰もいない。この世界では、自らで決意しなければならないのだ。勿論それは理解している。だがこの状況を適切に打開できるものがない。このまま手をこまねいていれば、確実に上昇している水位により命を落とすことになる。


 僕はとりあえず、水位の上昇から逃れるため、今まで下ってきた階段を上っていく。水位の上昇は極めて緩やかで、時間はまだたっぷり存在する。

 しかしゆっくりもしていられない。3階にある自分の教室の時点で、外は完全に水没しきっていた。それならば、校舎そのものが丸々水没していると考えて差し支えない。つまり、この校舎から出ることは不可能である。どこから出ても、外の水をなんとかしない限り命はない。


 僕はふと、生じる死への恐怖に涙が溢れそうになる。でも、今泣いていても仕方がないという気持ちで自らを奮い立たせ、とにかく校舎の中で最も高い位置にある屋上を目指すことにした。

 このときの僕は、先程女子生徒が話していた「屋上手前の踊り場のおまじない」のことがすっかり頭から抜け落ちていて、状況と妙な整合性があることに気が付かなかった。それに気がついたのは、屋上へと続く階段に足を下ろしたときだった。


 どこからか、けたたましいオルゴールの音色が響き渡る。しかしその音色は、音が幾つも外れていて、原曲が何なのか全くわからないものだった。いや、外れているというより、櫛歯が幾つも折れていて、ほとんど正常に機能していないのだろう。

 僕はその音色に酷く懐かしさを覚えた。優しい音と、どこか聞き覚えのある音色に対して、強烈な心地よさと郷愁、それらに付随する愛おしさを抱いたのだ。それが何を指し示しているのかはわからない。でも、僕は永遠とこの音色を聞いていたいとも思っていた。

 気がついたときには、僕は自らの細胞を制御することができなくなっていた。体は勝手に足を前に踏み出し、虚ろな視線は体を動かすごとにグラグラと揺らぎを見せる。まるでカメラの映像を見ているようだった。強烈に離れていく自らの意識と、オルゴールが連動するように動き、僕は自らの意志とは関係なく、屋上の扉を開け放った。


 そこで、僕は自らの肉体を取り戻す。

 辺りは校舎の屋上だった。普段は施錠されていて入ることのできないそこに入るのは初めてであるが、眼前に広がっているものを見て、そんなことが頭から離れてしまう。

 一番最初に視界に飛び込んできたのは、巨大なオルゴールを回し続ける、全身の皮が剥がれたような人間だった。体長は小柄で、僕自身の身長と似ているようにも見える。その周りには相変わらず暗い水が屋上を侵食していて、軽度の水浸し状態だった。

「これ……一体、どういうこと……?」

 無自覚に飛び出た言葉を皮切りに、僕は一瞬にして意識が飛んでしまう。まるで事切れたように、体中の力が抜け、僕はその場に倒れ込んでしまった。

 水が、体内に入ってく。息もできないまま、僕は再び水疱に包まれて意識を失った。

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