第3話 アラベスク


 水疱に飲まれてしまった自らの意識は、次に視界が景色を取り戻すまで、僕は途絶えた記憶の片鱗を集めていた。

 しかし、何をしても自らの記憶に行き着く事はなかった。行き着いたのは、真っ暗な海だった。僕は深海に沈み、光届かぬ世界で揺らぐ海面を眺めているのだ。

 どうして、自分はこんなところにいるのだろう。水と隣接する自らの皮膚は熱を感じることなく、手を伸ばした感覚は水疱に触れ、美しく浮遊する棚引く光が僕をさらなる深淵へと誘い込んでいるようだった。でも、そんなものに誘われることなく、僕は重力に従って深海へと降りていく。


 その光景が何を象徴しているのかはわからない。だが、その海はまるで鏡のように水の粒に何らかの映像が反射している。

 この世界は僕の記憶を象徴しているのだろうか。それにしては、自分の中に混在しているあらゆる記憶が薄すぎる。明確な記憶がここまで少ないのは、僕に問題があるのか、それともそれ以外に問題があるのか。それすらもわからない曖昧さが、僕にとっては苦しかった。

 認識することなく心臓が詰まりそうになる苦しさを胸に、僕はゆったりとした動きで深海に到達する。

 背部いっぱいに触れたゴツゴツとした岩肌が妙に擽ったい。辺りは真っ暗だ。完全な闇と言っていい。無限に匹敵するほどの暗闇の中、僕は無自覚に小さな涙を流してしまった。その涙は、眼前に広がる大量の水疱と混ざり合い、一瞬で世界を一変させた。


 水風船が爆発する映像をコマ送りで眺めているようだった。一瞬世界が停止したと思えば、そこから波紋状に光が撹乱し、ゆっくりとあの世界へと戻っていく。

 変形した世界は、先程まで自分が突っ伏してた机だった。また、同じ世界に戻ったのか? その気持ちとともに周りを見回せば、誰もいない教室が視界に残留していた。先程までとは違い、そこは現実的な日没後の教室であり、既視感を感じさせる孤独がひっそりと佇んでいる。


「……ここは、現実なの……? それとも、まだ、夢の中……?」


 混乱するような声が、ただ徒広いだけの教室に木霊した。反響して帰ってくる声は、妙な質量を持っていて、そこが絶対的な現実であることを無理やり強調しているようだった。

 見渡す限り、そこは絶対に現実の世界だった。少しだけ見覚えのある光景が乱立した教室内と、その外側にある在り来たりな町並みは自分の住んでいた街であるように見える。しかし、どこか現実味を享受することができなかった。

 こう何度も、非現実的な世界と現実的な世界を往復させられれば、今見ている世界に現実感を持つことができないのは必然であろう。でもそれが、自分を救っているような気もしている。


 僕はその時、初めて自らが壊れることを想定して恐れを抱いた。

 今まで、何が起きているのかよく認識できないでいたが、この不安定な現実性が今の自分を保っていることを知る。これ以上、現実に近づけば確実に自分が壊れてしまう。つまり、この不安定な世界はそれを暗示しているのだ。自らの精神状態と合わせて変質しているといえばより直感的であろう。

 つまり、僕が追い求めている記憶は自らにとって、大きな打撃になることなのかもしれない。そんな仮定が脳裏を掠め、僕は小さな身震いとともに、これから起きるであろう苦しみの記憶が怖くて仕方がなかった。


 自分にとって、死ぬということはそこまで深い意味を持っているわけではない。ただ消えてなくなるということだけ、どこか死にたいしてドライな気持ちは、ここに来ても変わることがない。

 しかしその反面、記憶をたどっていることへの強烈な不安感は拭えなかった。この不安定な世界の乱立から推測するに、その先に広がっている記憶は確実にいいものではないだろう。それでも、僕は無意識のうちにその記憶を求めて彷徨することになる。それは、記憶が完全に戻るまで永遠に繰り返すことになるだろう。

 ここに来て死をより遥かに苦しいことが待ち構えている、それを認識した僕は、足取り重くゆっくりと教室を後にする。


 とぼとぼと教室を後にすると、僕は多くの人とすれ違った。学校の教員、同学校の生徒、用務員、それぞれそう推測できる者たちと行きずりになるが、そのどれも顔が見えない。まるで相貌失認のごとく、顔のパーツが認識できないのだ。顔に視線を移せばぼんやりとした輪郭が内部に至るほどに醜悪な歪みを残して闇を浮かべる。

 その様はどういう表現をすればいいのか悩ましいところだ。顔の部分だけ抉り出されればこんな具合に変形をすることになるだろうか。

 不思議なことに、そのすべての人間がコマ送りのように動いていて、時折聞こえてくるオルゴールの音に従って動いているようだ。


 そういえば、校舎の中を定期的に流れているオルゴールは、意識が失われるより前に屋上で鳴り響いていたオルゴールとほぼ同じものだろう。

 しかしその時とは異なり、時折正常な音を繋いでいるように思える。部分的に整合した旋律を長く聞いていると、オルゴールがなんの曲なのかを知ることができる。

 この曲は、ドビュッシーのアラベスク第1番だろう。かろうじて整合している部分が、最も有名なところであるからこそ気づくことができた。でも、どうしてこの曲が校舎の中に、しかも音を外して流れているのかはわからない。この学校には、オルゴールを流すということはなかったはずだ。ましてや、他の学校では絶対にしていないことだろう。

 少なくとも、この音が外れたオルゴールに関しては現実のものではない、この世界特有のものであると推測するのが妥当である。それならばどうして、このオルゴールは延々とオルゴールを鳴らし続けるのだろう。

 僕の疑問に答えるものは何もなく、疑問を抱えたまま、学校を後にすることになる。


 校舎を出ると、道が二股に分かれている。確か、自宅に帰るには左の方向に進まなければならなかったはずだ。

 僕はそれを思い出し、左側に進もうとした時だった。

 未だに鳴り響いているオルゴールの音色が一際強く内耳道を通り、鼓膜に触れた。その瞬間、頭の中に大量の石が転がるような痛みを覚える。激音を捉えた前庭神経は多く痙攣しながら視界の揺らぎを出現させる。

 その音は、一般的な楽譜と寸分違わず演奏されたアラベスク第1番だった。それはもはや音楽を楽しむという音量ではなく、まるで警鐘のように脳内に鳴り響き、僕の行き先に大きな変化を生じさせた。


「どうして……こっちは家じゃないのに……」

 僕の足は、轟音で鳴らされる楽曲に従うように、本来行くべき場所ではない方向へと歩を進めていく。

 しかも先に進めば進むほど、どこからか聞こえてくるアラベスク第1番が大きく、そして強くなっていっているようだった。しかも、演奏される場所は決まって同じ場所であり、最も有名な冒頭部分ばかりがループする。ループする毎に、音にさらなる現実味が生じ始め、今見ている視界と重ねるようになにかの映像が生じ始める。

 それは、僕がもうひとりの男子生徒と話している光景が断片的に繋げられたような不可解なものだった。


「何……これ……なんなんだよ!!」


 僕の声をかき消すように、アラベスク第1番は更に音を強めて主旋律を弾いていく。もはや吐き気を催す程の音色に、僕はぐらぐらと揺らぐ視界とともに道なりに進むことを繰り返している。

 そして、とある位置に来た途端、突如音が消え去り、僕は道路の真ん中に立ち尽くしていた。

 意識が戻った眼前には、大きなトラックがけたたましいクラクションを上げながらこちらに迫ってきていた。

 それを視認する事はできても、回避することはできない。僕はショックで動けなくなり、そのまま呆然と道路の真ん中に立ち尽くすばかりで、それが激突するまでの隙間、僕は自らがこうなってしまった直接的な因子を理解する。


 このトラックとの事故により、僕は死ぬことになったのだ。

 激突の後、僕は血まみれの自らの肉体とともに、血液により浮き彫りになる、オルゴールを回すものをみた。その人物は相変わらず人間の皮膚を引っ剥がしたような異形の存在であり、こちらに向かって笑いかけているようにも思えるものだった。

 その映像を最後に、僕は再び完全に意識から手を離す。

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