煉獄のオルゴール

古井雅

第1話 寂水の瓶


 僕はこれからどこに行くのだろう、意識が戻ってから最初に過った羅列はまさにそんなどうでもいいことだった。体が浮遊しているような開放感と、心の底に広がる寂寥感の灯火が妙に心の内側を刺激している。

 ゆっくりと瞳を開き、一番最初に視界に映ったのは小さく笑う少年だった。薄茶色の髪の毛と、日本人的ではない顔立ちはどこかの異国を彷彿とさせる。勿論、僕にその子が何者かはわからない。しかし、彼の笑みから迸る甘い感情は表現しきれぬ複雑さがあった。

 少年は、僕が目を覚ましたことを確認すると、僕の額をゆっくり撫ぜた。

 ふわりと皮膚を掠める少年の手のひらはとても柔らかく、それでいて少しゴツゴツとして男の子らしい。可愛らしい少年の笑みとは逆行するような感覚に、僕の体は全体的に火照ったように熱を帯びてしまう。

 特に彼に触れられた額は焼石のように熱を持ち、顔中がゆでダコのように薄紅色に染まっているだろう。


 僕の想像は当たっていたのか、少年は、その手のひらを今度は頬に持っていき、両手で包み込むように僕の頬に触れた。

 そして、彼は今までで一番やさしい笑みを向け、「おはよう」と呟く。その声はどこか聞き覚えのある声で、自らの心臓は破裂しそうな爆音を奏で始める。心が大きく軋む。眼の前の少年に何を思っているのか、自分では認識できない理性のかけらを識別するまではかなりの時間を要したが、認知は終わることなく、僕は彼に向かって首を縦に振った。

「……君は、誰?」

 掠れたような声で捻り出した言葉は、あまりにも在り来りである。しかし少年は、そのまま放置されてしまいそうな言葉すらも、優しく拾い上げる。

 そして、少年は僕の体を強引に起こし、ちょうど対面になるように座らせた後、ゆっくりと自己紹介を始める。


「僕は……瑠璃。この世界の管理人といえば、端的かな」

「管理人って……ここはどこなの? 僕に、何が起きたの?」

 急かすようにそう尋ねると、瑠璃と名乗った少年は、「落ち着いて」と言いながらビクついている僕の体に触れ、ゆっくりと呼吸を促す。

 そして温和な調子でゆっくりと語り始める。

「ここは、黄泉路の分岐点。黄泉の世界の一つ手前の世界かな」


 瑠璃が語った内容を聞いて、僕は少しだけ動きを止め、自らの身体をゆっくりと一瞥する。見えている光景は明らかに質量をもってそこに在る。しかし、彼の言葉に従えば恐ろしく今見えている光景が曖昧になる。果たして、この手のひらは、この足は、本当に存在しているのだろうか? 沸々と想起されていく感情はあっさりと自らの気持ちを乱していった。

 そして、飛び出た言葉は全くもって現実味のない感情の一端である。

「それって……僕は死んだの?」

 僕の言葉に、瑠璃は少し儚げに笑い「うん」とだけ告げ、すぐに訂正するように満面の笑みで僕の手を引いた。


「落ち着いて、大丈夫。君が過ごした現世はきっと、君にとってそこまで大切なものでもないのだから」

「……そうなのかな……」

 瑠璃の言葉の背景には、「くよくよするのは良くない」という類の真意があるのは理解できる。だが僕からしてみれば、それをすぐに理解しろというのは無理な話だった。

 感じているすべての感覚が一気に薄らいでいく感覚は、心の何処かにポッカリと空いた穴を覗き込むような感覚で、思考が追いつかない不思議な状態に陥る。

 そして、次に表出されたのは涙だった。やけに重いような気がする水の雫が頬を掠めるように流れ落ち、それが地面に着地した瞬間、何もなかった辺りに光景が生まれ始める。


 闇に落ちた水を起点として、微かな光の破片から土が生まれ、植物が形成されていく。生まれたのは、広大な森だった。しかしそこに太陽はなく、にもかかわらず光源不明の灯火がふらふらと宙に浮かんでいる。やがてその灯火は爆発するように粒子へと変わっていき、最終的には現世と何ら変わりない世界へと形相を変えた。

 すっかり変貌を遂げた森は、僕を取り囲むように大木の葉が鬱蒼と天を覆い尽くし、見たこともない花々が隙間を埋め、目の前に一本の道を作っている。

 そのさまを見た僕は、すっかり混乱しながら怪訝な素振りで辺りを見回した後、瑠璃に尋ねる。

「これは……何?」

「君が望んだ世界だ。この黄泉路の分岐点は、死者が最も理想とするものを作る。この先に進めば、君が更に求めているものがあるだろう」

「僕が、更に求めるもの……?」

 瑠璃の言葉を反復すると、彼は楽しげに笑い、僕の手を引きながら奥へと続く道を進んでいく。

「ほら、行こうよ」

 彼の言葉に、僕は小さくうなずきながら道を進んでいく。



 森は、先に進めば進むほど変わっていく。生命力あふれる木々の世界は次第に肉片が飛び散る不気味な世界へと変貌し、最奥に至るまでそれが続いている。しかし、それ以上に驚いたのは、最奥に鎮座していた不気味な門だった。

 それは、まるで生きている扉だった。細胞を想起させる赤黒い素材で形成された扉は、よく見ると血管のようなものが浮き出ており、確かに脈動している。加えて、それらの血管を辿っていくと、縦長の扉の、ちょうど真ん中に存在している心臓に行き着く様になっている。扉の心臓は人間同様、少し真ん中からずれた位置にあり、不気味な冠動脈を震わせながらこちらを一瞥しているようだった。

 だが、僕以上に驚いているのは管理人である瑠璃の方だった。

 それが強烈な違和感となって僕の思考にこびりつく。どうして管理人であるはずの瑠璃が、目の前の光景に対してここまで驚く必要があるのだろうか。その疑念を表出するように、僕は彼の名前を呼ぶ。


「瑠璃……?」

 僕の声がけに、瑠璃はワンテンポ遅れて反応する。すぐに表情を翻したものの、その顔はどこか繕ったものであり、明らかな動揺が感じ取れる。

 でも、瑠璃はそれを気取ったのかすぐに喋り始める。

「なんでもない。ごめんね。こういう生々しいの苦手なんだ。これは君が中に入りたいと願えば開けてくれるよ」


 本当にそうなのだろうか。彼の言葉に怪訝さを強めながら、僕は扉の中に何があるのかを尋ねた。

「…………何があるの?」

「さぁ。この中は、あくまでも君の領域だからね。僕には見当もつかない。逆に、君は今、何を望む?」

 質問を質問で返され、僕は首を傾げる。彼の言葉の意味、それはどこか表層的で、何かを隠しているようにも見える。

 しかし、それについて考え始めれば何も手につかなくなってしまう。僕はすぐに、彼の質問に対して答える。

「記憶が……ほしい。覚えていたいことがあったんだ。それが何なのかはわからない。でも、僕の人生を覚えていたい」

 僕は淡々と、しかし強くそう言った。


 それを聞き、瑠璃は今までの笑顔を一切曲げることなく、強く首を縦に振った。

 でも、どこかその仕草には陰りがあるように見えたのは、僕の気のせいだろうか? 今はそれを肯定するものも、否定するものもない。その曖昧さが僕の心を揺さぶるようだった。

 微かな沈黙の隙間に想起されていく思考を止めたのは、ぐちゃぐちゃと咀嚼音のような音を奏でて開く扉だった。

 開いた扉は、恐ろしげな暗闇を引っさげて大口を開けている。引きずり込まれるような深淵の境界線に立ち尽くす僕は、伺うような視線で漆黒を見据える。その先に何が広がっているのか、隣接する僕にすらわからない。感覚としては、なにもないように思える。しかし一瞬で内部へ引きずり込まれるような威圧も孕んでいて、正反対な心境を想起させるものだ。


 一方の瑠璃は、悶々とするように縁に立つ僕に対して先に進むように促してくる。

「大丈夫。この先に存在しているのは、きっと君を拒まない。ほら、一歩踏み出してごらん?」

 若干他人事のような瑠璃の言葉に、僕は不意に怪訝な表情で彼の顔を見る。そして、深く深呼吸をした後、ゆっくりと暗闇に足を踏み入れる。


 最初に襲った感覚は、何かの肉片を踏むような不快な感覚だった。靴に隣接する皮膚の接触面を突き破るような、嫌悪感たっぷりの感覚を一旦喉元に引っ込め、目を大きく瞑り、荒っぽく唾液を飲み込み走り出す。少しでも足底に広がる不愉快極まりない感覚を薄れさせるためであったが、強く踏みつければ踏みつけるほど感覚も比例することがわかれば、すぐに速度を落とし、諦めるように一度足を止め、再び呼吸をした後にゆっくりと歩き出す。

 下に広がっているものは何なのだろうか。それを考えると、恐ろしくなる。強烈な吐き気を催すような感覚の後、その場に瀰漫している匂いを感じ取り、心を揺さぶるような感覚を齎された。

 というのも、漂っている匂いは明らかに柔軟剤だ。下に広がっている、恐らくは何かの肉だろうが、それが発している臭いとは到底異なるものであることは一瞬で理解できる。だからこそ、自分がどんな世界にいるのかが不安定になり、堪らなく僕を不安にさせる。

 そんな思考とは裏腹に、辺りの暗闇は一瞬で消え失せ、強烈な光が瞼に飛び込んできて、微かな間の明順応に意識が飛びそうになる。

 漸く目が光に馴染んだところで、僕は眼前に広がっている狂気の光景に身を震わせることになった。


 一番最初に見えたものは、ハニカム構造のガラスケースだった。ガラスケースと形容することはあまりにも不適切であったが、恐らくは何かを保存するためのものであることから推測するに、強ち的外れとも言い難い。透明感のある膜を持つ小部屋が六角形状に並び、その一つ一つに眼球や耳、臓器を細かくばらしたものが保管されている。妙に浮遊して見えるのは、小部屋それぞれが何かしらの液体で満ちているためであろう。それにしても、部屋の中心を浮遊し続けるという異常なほど安定した浮力を持たせる液体が存在するのだろうか。

 存在するわけがない、頭の中に過る思考はまさにそれだった。こんな光景が存在していいはずがない。心が踏み荒らされるような感覚の後、その光景によく似たものを思い出す。気がついたときには、それを口走っていた。

「細胞みたい……」

 骨伝導で聞こえてくる音を認知した途端、僕には目の前のそれが細胞にしか見えなくなる。ちょうど中心で浮遊し続ける物質は、核を示しており、ハニカム構造のガラスケースはすべてで一つの生物のようだった。

 そう思えば、目の前に存在している異形に対する恐怖は一瞬で途絶えていく。


 僕は無防備に、それに近づいていく。一歩踏み出すたびに、威圧する重苦しい空気が更に質量を帯びるようだった。それなのに、僕は先に進むことを止めることができなかった。

 そんな僕を引き止めたのは、瑠璃だった。


「危ないよ。眼の前をよく見るんだ」


 その声に従い、僕は虚ろな瞳で視線を落とす。

 すると、そこに広がっていたのは半透明の液体が入った大きな瓶だった。いや、その大きさは瓶というよりは小さな池である。底は一切識別することができず、どの程度の深さがそこに存在しているのかわからない。それに、今にも引きずり込まれてしまいそうな凄みが感じられるものだった。

「……これは、何?」

「これが記憶への扉。君の知っている世界への入り口だ」

 瑠璃は小さくそう告げると、池の淵に腰を下ろして、半透明の液体に人差し指を落とした。

 そして、そのまま片方の手で僕に手招きした後、水を掬い上げ、僕の前に翳した。


「さぁ、この水を飲むんだ」

「飲むの?」

「うん、大丈夫、心配ないさ」

 瑠璃の無責任とも言える言葉に対して、僕は一切疑うことなくその水を口に含んだ。

 意識というよりは、体が勝手にそれを選択したような感覚だった。


 口に含んだ瞬間、体中が痙攣するように軋み、その後僕は強い呼吸困難とともに大きく倒れ込む。

 勢いよく池の中に倒れ込んだ僕の視界はぼこぼこと上昇していく泡に飲まれて、僕は、静かに意識を手放した。

 これから先に広がる、悲痛な記憶を知らずに。

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