駅での巡り合い
青キング(Aoking)
駅での巡り合い
山間にある人気のまるでない駅のベンチに、無精ひげを顎の周りに蓄え継接ぎだらけのぼろで貧相ななりをした中年の男が疲れ果てた顔で座っていた。
男の座るベンチに、都会らしい背広を着た貧相ななりの男より大分若い青年がゆったりと腰を落ち着けた。
男は青年に奇異の目を注いだが、すぐにその目をプラットホームの下の無為に草生える線路に移した。
心ここにあらず破れて開いてしまっている懐から、男は汗の若干染みた丁寧に折り畳まれた書簡を抜き出した。
男が書簡を広げると、青年が身じろぎして、
「奇遇ですね」
と物珍しそうに男の書簡を見つめ、背広の内側から薄い茶封筒の角を少しのぞかせた。
「僕も持ってきているんですよ」
男は青年の茶封筒に人生を投げ出した者に特有の疲れた目を注ぐと、しわがれ声で尋ねた。
「何が入れてあるんだ」
「原稿です」
「そうかい」
男は青年を文筆家か何かなのだろうと、青年の若々しい瞳に前途の輝きを見て取った。
青年は男の書簡を興味の体でまだ見ていた。
「あなたは書くことが仕事の方ですか」
「どうだろうな、君の目に任せるよ」
「そうなんですか、もしよかったらそれをお読みしていただくことってできませんか」
「これを読むのか、俺からしたら君の原稿の方が気になる」
青年は目の前の男に、快い笑顔を向けた。
封筒から何度も書き直したのだろう、あちこちに皺のある幾数枚の原稿を取り出すと膝で高さを揃える。
「気になるのでしたら、お読みします」
青年が目の前の原稿を読み始めた。
「生まれてこの方、少年は自分が何者なのか知らなかった。誰と誰の下に生まれ、誰に愛され、誰のために命を一日ずつ費やしているのか。それでも少年は幸せだった。家族もいる、食事にも困らない、自由な遊びもした。しかし少年はいつの間にか、家族も食事も自由な遊びも自分が何者であるべきか答えるのに不十分であることを知った。そこで少年は勉学に励んだ。自分が何者であるべきか、答えが見つかると思ったからだ。やがて少年は青年になった。さらに多くのことを知って、恋愛にも通ずるようになった。次第に青年は少年の時に答えられなかった、何者であるべきなのかという問いに、経験ととりまく日常が答えを導き出した。青年の
出した答えは、自分は自分であるべきなのだ。他人とは違う自分であるべきなのだ。その答えに青年は満足した。だからこそ青年は、家族を持ち、食事を与え、自由な遊びを子どもにしてあげた。とある日、子どもの読んでいた雑誌にどこかの駅の写真が載っていた。青年はその写真に見覚えがあった……どうでしょう、文章おかしくないですかね」
青年は原稿の途中で読むのをやめて、男に訊いた。
男は聞き入っていて、短く感想を述べた。
「おかしいところはどこもない。いい文章書くなぁ」
「ありがとうございます、僕こんなに長い文章書くの初めてだったので、きちんと書けているのか不安でした」
男の褒め言葉に、青年は嬉しく目に見えて恐縮し頬を掻いた。
男はその仕草が、遠く朧げな彼の記憶の中にいる少年と奇妙なほど似ていることに驚いた。
青年が男の書簡にはからずも惹きつけられる。
「迷惑でなければ、あなたもご自身の書簡をお読みしてくれませんか?」
「しゃーねえ、俺の人生のまとめを若者に聞かせてやろうじゃねーか」
青年の懇願に根負けした男が、ものぐさな動作で書簡を広げてとうとうと読み上げる。
「生を受けたが最後、人間は死ぬのだと今更に気付かされた。忍苦にまみれた、酷い人生を歩んだ。俺は村の末っ子として育てられた、いや半殺しで生かされていたとでも言い換えよう。人心を弁えぬ悪鬼のような父と、その父に追従する小鬼のような兄、二人から苛め抜かれて俺は何故か生きていた。そして若い頃の俺は一人の女性に心の今まで触れたことのない部分を打たれた。それは愛慕という、人間にあるべきはずの人間らしい感情だった。俺は鬼ではない、そう途端に思い知った。それからの俺は、自身を人間と知るに至った愛する一人の女性のために生を全うすると決めた。人間であることを知った俺と元来人間である女性の間に、人間の子が人間らしい産声をあげた。それはたまらなく嬉しかった。だが悪鬼は俺を人間だとは解していなかった。悪鬼が俺の愛する女性の生命を冷酷無比で残虐な鬼の手で絶やしてしまった。悪鬼は子どもにまで鬼の手を下そうとした、人間のはずである俺は無論抗った。そして人間の子どもはこの駅で俺ではない別の信頼できる人間の手に渡った。俺は人間として人生を全うした……どうだ、中々に凝った文だろう」
男は書簡を読み終え、青年の方に視線を戻した。
静かに傾聴していた青年が賛辞を送る。
「すごい壮絶な物語ですね。あなたみたいな方が僕のお父さんだったら、僕はもっと早く自分が何者であるのか気付いていたかも知れません。ほんとうにいいお話を聞きました」
「そうかい」
青年の明朗な面差しが、ふと人生に疲れた男の虚ろに空いた心を充溢した。
男が俄かに立ち上がる。
人気のない駅に村の寂寥にふさわしく乗客の数少ない列車が一両、到着を告げ知らせるように耳に障って鉄路を滑る音を響かせて入ってきた。
「鬼の子は、どうあっても鬼の子だ。俺は人生なんて持ち得ていない。だからな若いの」
書簡が青年の方に放られる。
青年は書簡を危うく手の上で躍らせながらも、しっかりと手中に握った。
「なんで僕に」
「お前さんに会えて決心がついたぜ」
男の姿がプラットホームの縁から消えた。
列車が何か危険を察してか、急に制動をかけた。
「ああ」
青年が唖然と口を開けるが、消えた男は無残にも列車で轢死していた。
瞬きせん間の衝撃に、手にしていた書簡を青年は取り落とす。
青年の足下で、書簡から一枚の写真が抜け出た。
その写真には、この駅のプラットホームのベンチで精気に満ちた相貌の若かりし時の男と、男に寄り添い幼い頃の青年に似た幼児を腕に抱く、瑞々しい笑顔の女性の姿が写っていた。
駅での巡り合い 青キング(Aoking) @112428
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