第2話 夜の章②
視線を感じる。
ちりちりと胸を焦がすように。それは、気味の悪い痛み。
日直の仕事を終えて教室に戻ると、残っていた数人の女の子がわたしを見てぎこちなくお疲れ様、と言った。
クラス替えをしたばかりの放課後はどこかよそよそしい。スカートから伸びる2本の足のが、いつもより不自由。
このまま教室に入ってあの子たちの話に混じるべきか、帰るべきか。迷いながらドアのところでまごついていたとき、後ろから肩を叩かれた。
「帰るの?」
振り返ると、スポーツバッグを肩にかけた深雪が立っていた。わたしは笑って、うーんと首を傾げた。彼女は背が高いため、話すときはいつも見上げる形になる。
「煮え切らないね。迷ってるなら、あたしが部活終わるまで待っててよ。一緒に帰ろう」
「そうだね、クラス変わってからゆっくり話せてないし、教室で待ってるよ」
深雪はあっさりとした女の子だった。短く切り揃えた髪が小麦色の肌によく似合っている。遠くから彼女を呼ぶ陸上部の女の子たちが見え、深雪はからりと笑って走って行った。
ちょうど、クラスの女の子たちがまたね、と教室を出て行った。わたしも笑って手を振り、自分の席に戻る。
わたしは鞄から一冊のノートを取り出した。
夢を見なくなってからのことを整理してごらん、とカウンセリングの先生はノートをくれた。そのまっさらなページに、4月からの変化を書き出してみた。
・同じクラスの野瀬豊とよく目が合うこと
・隣のクラスの坂口洸太は屈託無くわたしに笑いかけること
・吉森千穂がわたしを一度も見ないこと
そこまで書き出して、わたしはペンを置いた。野瀬豊、の文字をそっと人差し指でなぞる。
野瀬は目立つ。男子たちの中にいても頭ひとつ分出ているから。それから手が大人の男みたいにごつい。特別整っているというわけではないけれど、その横顔だけは完璧なラインを描いている。そしてそれはすべて許容しているようで、何にも興味がないのではないかと思わせる、冷たい空気を醸し出していた。
そんな彼を知らない。夢の中の小さなわたしがそう叫んでいた。
窓の外へと目を向ける。放課後のざわめきの中、グランドには生徒たちが溢れている。わたしは深雪を探した。彼女の明るい空気が無性に恋しかった。
けれどわたしの目に飛び込んできたのは、別の女の子だった。グランドには他に何人もの生徒がいたのに、わたしには彼女しか見えなかった。彼女は今でもわたしの視界を簡単に奪ってしまう。
下駄箱から軽やかに飛び出してきた吉森千穂は、止まって後ろを振り向いた。長い黒髪が風に煽られる。それを抑える手は白く、細い。まるで守られないと生きていけないと全身で主張しているような、華奢な身体。彼女は後ろの誰かに向かって、微笑んだ。それさえも美しく、隙がない。
彼女を追うように、2人の男の子が出てきた。白いスポーツバッグが映える、爽やかな男の子と、背の高い男の子。彼らが両脇に並ぶと、また吉森千穂は歩き出す。
息が速くなっていくのがわかった。夢の中のわたしがぐずり出したのだ。わたしは自分が高校3年生であることを忘れる。彼らを見ていると、布団の中で泣いていた子どもになる。
そのとき、男の子の1人がふっと立ち止まり、こちらを見上げた。
頭ひとつ分抜けた身長。広くなった肩幅。大きな足。
野瀬豊がわたしを見ていた。
もう青年に近づくその身体の中で、目だけが行き場をなくしていた。
その不自然な目がわたしに向けられている。ほんとうに見えているのか不安になるほど、暗い色をして。
気味が悪い、と感覚的に思った。
わたしはその場にしゃがみ込んだ。呼吸がさっきよりも速い。目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をする。
野瀬の目はわたしをあの夜に連れ戻す目だ。
子どものわたしの泣き声が聞こえた。
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