第33話 茜は何度世界を救ったのか
かしゃかしゃ、じゅ、じゅじゅーっ。
目の前で、卵が油を多目にひいたフライパンの上で踊る。素早く混ぜてからコンパクトに折り畳み、そこにまた卵を入れて折り重ねていく。
焦げ目をつけないよう、焼き加減に注意したおかげで、鮮やかな黄色に染まっただし巻き玉子を皿に移した。
ことん、とテーブルに置くと、だし巻き玉子は僅かぷるるんと揺れ、湯気を立てた。
んー、これは良い匂い。
嗅ぐだけで美味しいと確信できる。
我ながら良い出来具合じゃないか。あたしはお箸を用意して新庄課長に手渡した。
「どうぞ、食べてみてください」
「え、ええ、ありがとう」
新庄課長はおそるおそるだし巻き玉子に箸を入れる。
柔らかいだし巻き玉子は簡単に箸を受け入れ、切り分けられた。じゅわっと出汁が染み出てくる。
綺麗に切り分けられた一切れを、新庄課長は口に含んで、咀嚼する。
「わっ、ふわふわ」
驚いて口元を隠しつつ、新庄課長は食べ終える。
「美味しい……すごい、お祖母ちゃんの卵焼きにすごく近い! うん、うん!」
「良かったです。やっぱりだし巻き玉子だったんですね」
おそらく味が微妙に違うのは調味料の配分と、出汁のちょっとした違いだろう。今回、あたしは顆粒だしを使った。お祖母ちゃんというのだから、そこそこのご年齢だったのだろうし、綺麗にかつお節から出汁を取っていたのだろう。
もしその出汁がかつお節だけでなく、昆布とかからも取っていたら、もっと違ってくるものだから、きっとかつお節だけだと思うけど、これは色々と試行錯誤するしかない。
けど、問題はここからだ。
だし巻き玉子となれば、難易度は飛躍的に高くなる。確かに出汁と混ぜて焼いて巻くだけといえば簡単かもしれないが、それだけに腕が問われるのである。
料理のしっかりした基礎が無ければ、まともに作れまい。
新庄課長にそんなものあるはずがないのは語るまでもない。
つまみ食いのようにちゃっかり食べていた上道係長に、あたしは視線を送る。
「ああ、すまん。人生最後の晩餐と思うと感慨深くてな」
「何でもう人生の最期を悟ってんですか」
分からんでもないけど。
「とにかくやってみないと話になりませんね。まずは卵を割るところから始めましょう」
「分かったわ!」
やる気を最強に見せる新庄課長。お祖母ちゃんの味が再現できるかもとなれば、尚更気合いが入るのだろう。それが空回りしないようにしなければ。
まずはあたしがやってみせて、それを真似してもらう。
こうすれば、リスクは結構減らせるはずだ。
「まず、卵の割り方なんですけど、カドにコンコン当てるんじゃなくて、これを使います」
あたしが取り出したのは、瓶詰の料理酒だ。
大きさはワインくらい。あたしはその瓶の局面に卵を少しだけ勢いをつけて当てる。
乾いた音がして、卵にヒビが入った。
「あら、カドじゃなくて良いの?」
「はい。カドだと、予想以上に割れたり、殻が中に入ったりしますから。逆に平台だと、思ったよりも割れなかったりして、力加減が難しいので」
「そうそう、そうなのよね、どうしてかグチャグチャになっちゃって」
共感してくる新庄課長に、あたしは引きつり笑いを返すので精一杯だった。いやちょっと待ってねぇな。グチャグチャってなんだ、グチャグチャって。
どんな勢いで叩けばそうなるのか。
全力でツッコミを入れたいのを我慢しつつ、あたしは力加減まで言及することにした。
「卵は軽く持つくらいで良いです。力むと良くないので」
「わ、分かったわ」
「言う手がすでにプルプル震えてるし指先に力入ってますけど」
爪の部分が白くなってますぞ。いやまって、まって、もうヒビが入ってるし!
「ど、どど、どうしよう、緊張しちゃって、あああ……」
「新庄課長」
ぐしゃり、と卵を潰してしまった新庄課長へ、あたしは能面のような無表情をぶつけた。
「次、食べ物、粗末にしたら泣いても許しませんからね」
「……はい」
とりあえず罰として新庄課長には自分で後片付けをしてもらう。
緊張しちゃって卵潰すような握力はまず発揮しないでいただきたい。それ以上に、もっと敬意を払うべき。
片付けを終えたところで、あたしは改めて卵の割り方をレクチャーする。新庄課長は真剣な眼差しでそれを見てから卵を優しく掴み、大きく振りかぶった。
「おい待てどこに大リーグボール投げるつもりですか!? 卵を消してどうするつもりですか! そんな魔球いらんっ!」
「落ち着け相沢、ネタ古すぎる!」
「世代じゃないあたしでも知ってるってことです! っていうか、昔よくやってたじゃないですか、テレビで。アニメ特集みたいなの」
「ああ、このアニメの最終回、みたいなやつな」
上道係長は懐かしそうな表情を浮かべつつ現実逃避している。
「いや話題逸らしちゃダメです。とにかく! 新庄課長、投げない!」
「……はっ、つい」
つい、でその投球フォームかい。
「フツーにやりましょ、フツーに。こう、コンコンとしてヒビを入れるんです。ほら、真似してください」
あたしはもう一度実践する。
新庄課長は恐る恐る、あたしの行動を真似て、料理酒のビンに卵を当てる。瞬間、上道係長が両手を合わせて拝みながら膝から崩れ落ちるのを視界の端で捉えたが、とりあえず無視しておく。
だって、今のは。成功させるはずだから。
「おお、おおおお! ヒビ、ヒビが入ったわ! ワンダーだわ!」
「な、なんだって……!?」
いや待って、卵にヒビが綺麗に入ったくらいではしゃがないで? 上道係長も世界が救われたかのような表情を見せない!
だがツッコミをいちいち入れてばかりでは話が進まない。あたしはぐっと飲み込んで、どんどんと卵を割っていってもらう。
「で、できたわ!」
一仕事終えた感じのある新庄課長がふうと大きく息を吐く。
あたしも実は手汗びっしょりである。秘密だ。
「じゃあ、カラザ、取っちゃいましょうか」
「あ、この白っぽいやつね」
「中には気にしちゃう人もいますしね」
ちなみにあたしは一切気にしない。
「じゃあ、次。卵とこの調味料を使いましょう。今回は出汁から取っている余裕はないので、顆粒だしを水で溶いたものと、みりんで。あと、ほんのひとつまみの塩。小麦粉を使うと上手くまとまるようになりますけど、味がちょっとぼやけちゃうので使いません」
もちろんその分難易度は上がるのだが、お祖母ちゃんの味の再現のためである。
あくまで今回は、だし、使っちゃダメ、というルールはどこにもないので、使う派の方々はがっつり使って頂きたい。
「これを混ぜていきます。こんな感じでお箸で卵を切るようにしてから、全体的に混ぜていく感じ。しっかり混ぜても良いですけど、あたしは混ぜ切る手前にしてます」
この方が、ふんわりとする感じがするからだ。あくまで体感である。調味料と卵が全体的に絡めば良いと思ってる。これも好みだ。
「わ、分かったわ」
「はい肩の力抜いてくださいねー、ちょっと、ボウルをつまんでるトコちょっと変形してるし菜箸がヒビ入ってるし!」
あたしが指摘した瞬間、上道係長がキッチンの下に隠れる。どんなんやねん。
いや、それだけ新庄課長が悪夢を植え付けたんだろうけどね。
「で、でもね、茜ちゃん、混ぜるのよね? だったら、この世の終わりかってくらい勢いをつけないとダメなんじゃないの?」
「地球の一つや二つ割るつもりですか課長は。柔らかいんですから、そんなことしなくていいです。実際、あたしはそんな力入れてないでしょう?」
「ほら、茜ちゃんは野生で野獣でウゴッホだから」
「その三段活用に否定できないあたしもあたしですけどね? でも失礼! いや、ほら、さっさとしましょう」
「わ、分かったわ」
ちょっぴり泣きそうだ。くそぅ。絶対女子力取り戻してやる。
本気で思いながら、あたしは調理の続きをする。
卵がしっかり出来たら、次はフライパンだ。さすがに役所だけあって、卵焼きようの長方形型がある。もちろんそれを使わせていただく。
「じゃあ、まずは薄く油を引いてから、火をつけてフライパンを温めます。いきなり強火にするんじゃなくて、弱火から中火で……ってちょっと待て?」
解説している傍から新庄課長はやらかす。まって、なんでフライパンの面を直火であぶってらっしゃるのかな!? 危ない! 危なすぎるから!! テフロン加工剥げる!!
あたしは慌てて新庄課長の腕をつかんでコンロから離す。
「え、だって、その方が早く温まるかなって」
「だからってそんなアクロバットいらん! っていうか燃えたらどうするんですか!」
「……はっ、だから毎回」
「毎回やってたのか。毎回燃やしてたのか。学ぶって心はどこにいった」
「あは、あはは……」
ごまかし笑いを浮かべおった。これは相当重傷では。
思いつつ、あたしは正当な手段でフライパンを温めさせる。
「少し温まったら油を足して、出汁巻き卵なので、多めにしましょう。じゃないと焦げ付いちゃうので。手をこう翳して、これくらいの加減で十分温まってます。間違っても煙が出るくらいまで温めちゃダメですからね」
すると、新庄課長がちょっと顔を反らした。絶対毎回やってんなコレ。
絶対アレだ。強火はコンロの火力最大とか思ってるパターンだ。違うぞ。火の強火ってのは。そこまでいくともう強火ってレベルじゃないから。チャーハン作る時くらいしかしないから、そんな火力。
「じゃあ、卵を入れますけど、お玉一杯分くらいで十分です。多く入れ過ぎないように」
「お玉一杯分」
「それボウル」
ボウルを両手に持った瞬間、あたしはツッコミを叩き入れる。
「じゃあ、焼きますよ。こう入れて、最初は軽く混ぜます。卵が少し固まってきたらお箸で、綺麗に形を整えて、こう折り畳んでいくんですけど、難しいならフライ返し使っても良いですよ」
あたしは説明しながら綺麗に形を整えていく。
この時、火力が強すぎると一気に固まってしまって、形成までの時間が短く、焦げ付きやすい。テフロン加工がしっかりされてるフライパンなので焦げるまではないだろうけど、卵の色が茶色っぽくはなるので、やはり気を付けたい。
かといって火力が弱すぎるとこれまた失敗しやすいので、最初の火加減は重要である。
「はい、これぐらいのサイズで綺麗にまとまったら、卵をまた流し込んで、少し火が通ったらこうして折り畳んで、と。これを何回も繰り返します。途中、油が足りなくなってきたら足していきましょう」
「わ、分かったわ」
「最初はちょっと不格好になっても大丈夫なので、ゆっくり目にやりましょうね」
アドバイスを落としつつ、あたしはしれっと少しだけ火力を下げておく。
新庄課長が卵を焼き始める。
じゅ、じゅじゅーっ。
心地よい音が響いて、卵が固まっていく。
新庄課長は悪戦苦闘しながら卵をまとめ、そしてまた卵を流し込んで重ねていく。
不器用なのが丸わかりな歪な感じだけど、それが良い。
「で、できたっ……!?」
「マジか、スゲぇ」
思いっきりビビって逃げていた上道係長が、そろりそろりと近寄ってきて、お皿に鎮座している卵焼きを見て、感動の声をあげた。
「で、でも、茜ちゃんの方が遥かにキレイだし」
「そりゃ年季が違うからだろ。初めて作ったのでこれなら、スゲぇだろ」
「あら、そう? ありがと」
新庄課長は顔を赤くさせながらお礼を言ってから、いつもの笑顔になった。
「その割には、ずっと逃げ回ってたみたいだけど」
「そ、そそ、それは! お前っ……わ、悪かったよ」
上道係長は頭をがしがしかきながら謝った。いや、でも悪くはないと思う。あの悪夢を見せられたら、あたしもそうなってただろうから。
「ともあれ、これで成功、なのか?」
「そうですね。後は繰り返し練習すれば、上達していくと思います」
「そう……ねぇ、早速食べましょう」
待ちきれない様子で新庄課長が提案してくる。もちろん拒否する理由はないので、あたしたちは頷いた。
さぁ。実食と行きましょうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます