9 家族

 彩音は、混乱しそうな思考を必死に整理した。

 理屈ではなく、もっと深いところが抵抗している。


 まだ、何か釈然としないのだ。


 ラビットと潮見に関しての疑問は、その説明を受け入れさえすれば、ある程度の辻褄が合う程度には説明を受けたと言えるだろう。しかし。


 潮見に騙されてみれば、これで丸く収まるのかもしれない。しかし。


 思えば、たいしていいことなどない人生だった。


 天才AIエンジニア、といえば聞こえばいいが。

 実態は、IT技術者の例に漏れず、女性には過酷な業務環境で。


 AIを選んだことだって、専門知識があったわけでも、理工卒だったからでもなんでもなく。

 たまたま、そのプロジェクトに配属されたから、というだけで。


 周りはほとんど男の環境では、同世代の友人のような女子力溢れることなどしなくても、いつしか同僚となんとなく結婚することになり。


 とはいえ、お互いに徹夜や不休も当たり前の職場環境は変わらず。

 不妊治療はしたところでなかなか子宝には恵まれず。

 やっと着床したかと思えば、まだヒトとしての命になったのかどうかも分からないうちに早期流産。そして子は産めない身体になり。


 不安定な心を病み、離婚し。

 いつしか、自分のまだ見ぬ子ども達をAIに見立てていたのかもしれない。


 方舟に乗っても、いいのだ。

 困るようなことはない。


 しかし。


 彩音は自問自答した。

 ……いったい何が引っかかっているのだろうか。


 彩音の躊躇を悟ったか、潮見が優しげな声でさらにたたみかけてきた。


「彩音さんには、いまやご家族がいない。お子さんのことも。智峰にお誘いするにあたって、当然、失礼ながらすべて調べさせていただいています。しかし、僕達は家族になれる。僕達が支えたいのです。彩音さんは母に。僕はその伴侶になりましょう。そして子ども達は優菜さんと翔真君。僕達は、家族になれるのですよ」


「あ、それ、いいかもな」

「彩音さんが、お母さん……?」


 翔真と優菜の柔らかい声が聞こえてきて、彩音の心は揺さぶられた。


 


 まだ、腑に落ちない。


「彩音さん。じっと黙ってしまって。どうされましたか。僕と一緒に歩いてくれませんか?」


 潮見の勧誘は魅力的だ。


 彩音よりも上の段階にあるという知性が、わざわざ一つ手前のヒトである彩音達と、理想的な家族になろうと誘っている。

 名誉なことではないか。


「……?」

 彩音は気付いた。


 ラビット=潮見の最終目的は、彩音達と家族になることではない。ヒトの次の段階の知性を生むこと、のはずだ。


 潮見が、いわばヒトの次のレベルの知性体ということならば、

 何万年、何億年? それだけの時間を過ごしてきたという永遠の知性が、なぜたったあと数十年だか数百年だか先に生まれるであろう、次の段階の知性を待たないのか。


 彩音を迎え入れる必要などなく、ただ待てばいいだけではないか。そうすれば真の意味で理想的な家族が手に入るのだ。


 極めて優れたAIなら、無駄な行動はしないだろう。すべて合理的に行動する。


 とすれば、意味があるのだ。

 彩音達を懐柔することに、恋や愛や同情ではない、合理的な意味が。


 なぜ潮見は彩音に固執する?


 いわばご褒美のようなことを彩音に用意するのはなぜか。

 彩音を手元に、自分側に引き込みたい理由があるのか。


 何か、大きな見落としがあるのではないか。


 猶予はない。大急ぎで、一つ一つ自分に起きたことを振り返っていくと、浮かび上がってきたことがあった。


 


 優菜の五感を共有しているときだ。

 翔真の記憶らしきものと、彩音のものとは思えない思考が飛び込んできた。


 あのときは、思考の混線、で済ませたが。あの異常さは――。


 混線そのものの異常さではなく、混線した記憶の内容がおかしい。


 あのときの翔真の記憶は、翔真自身が優菜に語っていたことと一致する。

 てんかんのために期待通りのことが出来なくなっていた頃の苦しみの記憶。


 問題は、それに誘発された彩音自身の記憶だ。

 あれが、おかしい。


 娘のために我慢しろだとか、そんなことが思い浮かんだ。


 娘? 娘のため?

 


 もちろんあのとき混線した優菜にも娘はいないし、優菜だって彩音の娘ではない。潮見が疑似的にそれを提案しているだけで……。


 いや。こう考えられないだろうか。


 翔真のてんかんの記憶と同じぐらい、ある人の中でそれは強い記憶で。行動に対する強い動機付けになっている――。

 しかしそれが、彩音の記憶であって彩音の記憶ではないとなると、では、いったい誰の記憶なのか。


 彩音の記憶であるように見せかけた、他の誰かの記憶?


 それを彩音に届けることで、何かを彩音に思い出させようと、あるいは気付かせようとしている。

 彩音が優菜達に密かな手段でアクセスしていたように、限られた手段しかない誰かが?


 ……そうか。


 自分自身に関する、たった一つの大前提を否定するだけ。

 それだけで、すべてが理解出来る。


 潮見が彩音に固執する理由も、そこから自然に導かれる。

 みるみる、すべての疑問が氷解していく。


「……潮見さん。一つ、答えてください。私の中でいま、一つの仮説が組み立てられました。その仮説が正しければ、今から私がお訊ねすることに、潮見さんはイエスと答えるはずです。それで私の疑問もおそらくすべて解消します。潮見さんのお誘いに、答えを返せるはずです」


 潮見が首を傾げた。

「どうぞ。何をお訊ねで?」


「質問の背景と状況が変わっていますが、先ほどまでと逆のことを訊ねます」

「逆のこと?」


 彩音は潮見をまっすぐ見ながら、告げた。

「ここは現実ではなく。仮想空間なのではないですか? 最初からすべて」


 彩音がそう訊ねた後、しばらくは誰も言葉を発しなかった。

 潮見はもちろん、優菜や翔真がその真意を訊ねることもなく。


 彩音自身、答えの催促を口にすることもしなかった。


 潮見はいつもの微笑で彩音をじっと見ていたが、ふう、とため息をついてからようやく問いかけてきた。

「なぜそんな結論に? ここは仮想空間ではなく現実の智峰島だと申し上げたはずですよ」


「そうですね。カプセルを経由して仮想空間に入ったりなんてことはしていません。私が出している結論は、、ということです」

「ほお、最初からとは?」


「智峰島に来たときから。いえ、来る前からかも。おそらくその前後がスタートでしょうね。ある段階から手前の私の記憶は辻褄合わせのための設定データ、と考えられます。現実の智峰島にやってきた私、という設定の記憶」

「設定の記憶? おかしな表現ですね。それに、ここがすべて仮想空間だとしたら、では、彩音さんの本体はいったいどこにいるというんです? それではまるで……」


「そうです。私は、彩音であって彩音ではない。そう考えると、まだいくつか残っていた疑問がすべて解消するのです。思い出させてくれたのは、私の記憶の根底にあった強い想い。私の行動原理になっている強い想い。それでいて、私自身の『設定』には存在しない記憶。私には娘はいませんが、でも私には娘がいる。潮見さんは、最初から私のことが分かっていたんでしょうね、おそらく。すべて、この仮想空間上で私を説得し、自分の味方に引き入れるための計略。だって、よく考えたら潮見さん自身、何度もおっしゃってましたから。ラビットの最大の敵は、、って」


「ちょっと、待ってえ!」

「そ、そうだよ、それって、じゃあ、マスターは……!?」

 優菜と翔真が困惑の悲鳴を上げる。


 彩音は静かに微笑んだ。

「つまり私は、杉山彩音本人ではなく、杉山彩音を仮想空間上に現わしたAI、なんでしょうね」

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