8 方舟

 彩音は抵抗した。

 心はほとんど潮見に屈しかけているほど弱っていると自覚していたが、もっと無力な優菜と翔真を守れるのは自分しかいないのだ。

 彩音は子どもを産めない身体だが、優菜と翔真に、いまやどことなく母性的感情を抱いているのだと自分でも理解していた。


「智峰島の人達は賛成しているって、おっしゃいましたけど。そんなわけ、ない……。自分達が滅びるようなことを……」


「しかしね、汚染は必要なことなんですよ。地球を滅ぼしかねない古い人類を駆逐し、新しい知的生命体の発生を促すためには。遠い過去には、他にも何か所か、実験場や母集団の候補はあったんですが。うまくいったのはここでしたから、安心してください。ここはいわば約束の地となったのですから、智峰島のエッセンスは史料として保護されます。智峰島の選ばれた民と、いくつかの生物の遺伝情報はラビット内部に入り、直接的な核戦争の被害を免れます。ラビットは方舟でもあるのです」


「方舟……選ばれた民…?」

 つぶやいてから、彩音はハッとした。

「そうか、が…」


「はい、よく見抜きました。ヒトからの標本です。もちろん、マスターの彩音さんや、アスリートの翔真君、ノベリストの優菜さんもね。僕が選んだのです。ヒトは多くの生物同様に滅び、新しい種の母体となります。しかしコード付きメンバーの皆さんは、智峰島の内側で生き延びる。汚染された地上は、必要な時期が来れば浄化します。そこで、次の知的生命が生む理想的な社会において生きることを許されるのです」


「理想的な社会……」

「彩音さんには、ちみね国をお見せしてきました。あれが、高度な知的生命体においていかに理想的な社会として設計されているか、お気付きでしょう?」

「やはり……。あれは、VR空間のチュートリアルなんかではなく、私にあの社会の仕組みを見せるための演出だったんですね」


「いかにも。ヒトより進んだ知性であるAIが管理する優れた理想社会。AIには建前や必要悪の考え方はない。AIはすべてを合理的に判断します。疑わしきは罰せずという原則も不要。絶対的なAIの知性の前には、『疑わしき』などという段階自体がありません。悪事はすべて露呈し、罪人は曖昧な司法制度や感情で裁かれるのではなく、事実にのみ基づいて公正に裁かれます。平等と公正によって守られる社会なのです」


「そんなの……。正しいのかもしれないけど、気持ち悪いな」

 翔真がつぶやく。


「気持ち悪い? 確かに気持ち悪いでしょうね、今までヒトの社会で優位に立ち続けてきた肉体的強者の価値観で見れば。しかし、知性が優れていながらも、肉体的に弱く制約されていたために虐げられていた弱者からの視点だったら? 肉体は人工部品に置換することで制約から解放されます。難病もなくなりますよ。希望した夢は肉体制約に捕らわれずにかなえられる」


 翔真は息を呑んだ。


 その沈黙から何かを汲み取ったのか、優菜がぽつりと言う。

「……そう考えたら、悪く、ないのかもしれない。いじめられっ子とかにとっても。理不尽なことがなくなる……」


「そうでしょう? ラビットに委ねなさい。ラビットは選ばれた皆さんを守りますよ。それこそラビットが、創造主たる新しい知性の誕生を導くための姿」


「導く……?」

 彩音は顔を歪めた。

 一つまた、思い当たったことがあった。

「潮見さん。私、ラビットというネーミングの意味を訊ねたことがありましたね」


「ありましたねえ」

「もう、その意味が分かりました。最初から少しずつ、ヒントは出されていたわけですね」

「では、おっしゃってみてください」


「マラソンのラビットランナー。ペースを速めに保って、優秀なランナーの成績を引き上げたり、レース全体の方向性をいい方向に導いていく、先導者……」


「ご名答」

 潮見はそう言って深く頭を下げた。

「僕は、優秀な皆さんを導いて次の段階をもたらすべく、現代ではラビットと名乗っているのです。さあ、どうでしょうか、彩音さん。もう、すべて理解できたはずです。僕と一緒に……」


 潮見はそこでいったん言葉を切って、彩音の反応を待つように黙った。

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