6 教育と福祉

「これで、チェックポイントをこちら側に取り返した、ということですか?」


「そうなりますね」

 潮見が頷いた。


「……」

 彩音は首を傾げた。


「特に隠されているわけでもない。無防備に置かれている端末に触れるだけ……。これが、アナログ的な侵入者を想定したシミュレーション? 実際には、暗号鍵に当たるものはこんな風に剥き出しではないですよね。鍵をかけてしまわれているとか…」


 いまの彩音の行動が、非常事態でのラビットの行動を模したものだとして。

 こうして象徴的に置かれているチェックポイントのやり取りごとき行為が、いったい何の学習につながるというのだろうか。


「このプロセスはラビットにとって必要なことなんです。先に進めていただければ、意味が分かりますよ。次のチェックポイントに移りませんか? または、先行しているアスリート達に追い付くか……」


 彩音は挑戦的にうなずいた。

「いいでしょう。ラビットの学習にこのシミュレーションがどう生きるのか、続けてみます」

 再び情報ウインドウを眼前に呼び出す。

「アスリートとノベリストはまだ二人一緒のまま。さっきからずっと一つの進行方向に進んでいて……。目指しているのは『ホーム』ではないですね。距離の近さではなく、進行方向を変えないルートを選んだのかな。そうすると、次のチェックポイントまでは距離が少し開くんですね。向かっているのは……『発電所』?」


「そうなりますね。ほぼ島を半周した先になりますから、ちょっと距離がありますが、まっすぐ前に進むなら発電所に向かっていることになります。ただ、私達は、朝凪館方面に戻って、『ホーム』を先に確保しておくほうが、距離が近いですよ」


「先行されたチェックポイントを奪い返すのは、養殖場で経験しました。違う経験をしたほうが学習効率がいいはずですから、発電所に向かうより、まだ奪われていないチェックポイントに行ってみましょう」

「合理的ですね。では、Uターンを」


 彩音は、ファーマーに手を振って別れ、潮見と二人、来た道をまた戻る。


 朝凪館近くの道路沿いに、真新しいコンクリート建物が集合していた。小さいがグラウンドが広がっていて、その奥に整然と建物が並ぶ。


「学校……?」

 彩音がつぶやくと潮見が敷地に入り、建物のほうへ手招きした。

「これが、ホームですよ」


「学校と、介護施設と、託児所をすべて一体化した施設……でしたっけ」

「はい。もちろん軍事力や資源、工業力、食糧、そういったものも独立国では重要な要素ですが、ここには人の根幹、教育と福祉をすべて集めているわけです。何も幼児教育や義務教育だけの話ではなく、智峰では生涯教育と福祉による人口モデルの安定した再生産こそが、国家の存在意義であるとさえ考えています」


 学校とおぼしき建物の入り口に、一人の女性が立っていた。おそらく四十代ぐらいではないだろうか。整った体形をした穏やかそうな女性である。

 もう彩音にも予想がついていた。彼女がこの施設に関するキーパーソンということだろう。


「ようこそ、ボスにマスター」

「やあ、こんにちは」

「はじめまして」


「私は、『ティーチャー』です。施設上、コードネームはティーチャーですが、私自身の本職は介護士なんですけどね」


「マスターに補足しておきますと、智峰では、教職や介護士、保育士は持ち回りなんです。多くの成人に資格を持たせるための仕組みを作っていまして、他国でいえば兵役と同様に、介護士や学校教師はローテーションで数年ずつ入れ替わりで着任するようにしています。その間、本職のお仕事は出向扱いということになります」


「……つまり、固定化された教師や介護士という職業がいないんですか?」

「そういうことです。本職を他にお持ちの方を含め、誰もがそのタレントつまり才能を生かして教育と福祉に携わる。そして携わるということが、仕事に捕らわれない生きがいや地域連携にも直結する。智峰では介護士不足や保育士不足など起きないのです。誰もが携わるのですから」


 彩音は答えなかったが、考え込んだ。

 ただの絵空事とも思えていた智峰の独立話だが、彩音が考えている以上にずいぶん練り込まれていることではないだろうか。


 公共性が極めて高い職業は、誰もが教育を受け、社会全員が平等に負担する。

 自由主義や個人主義の社会に対して、滅びた共産主義の亡霊が新しい姿で現れているようにも感じられる。


 どちらが正しいといったイデオロギーの議論ではなく。

 智峰島という小さな社会ゆえに、強力なカリスマ性がある指導者の存在によって成り立つ仕組みではあろうが。

 たとえば職業選択の自由さえある程度は制限するこの仕組みは、しかし理想郷としての新しい社会の維持には必要なものかもしれない。


 是か非かはともかく、なかなか智峰の社会はよく考えられている、と彩音は感じ始めた。

 少なくとも本土で長年問題とされ、今後も続いていくであろう、社会の年代別人口構成や就業人口の枠組み維持という問題に対して、義務化という鞭で回答を示しているのだ。


 ティーチャーは、潮見と彩音を建物内の一室に招いた。事務所のようだ。


「私は、もともと、本土の大学病院で看護師をしてたんです。でも、潮見村長になってから、島に恩返ししたくて」

「……すると、Uターンですね?」

「はい」


「ティーチャーはUターンですね。運用メンバーには、Uターン組と、彩音さんのようなIターン組がいます。いずれも身元調査のうえ、人口の増減、世代や家族構成を考慮して受け入れるんですがね」


 ティーチャーはデスクの引き出しを無造作に開けた。

 例の端末が現れる。色は緑色。もちろん、まだ制圧されていない。


「これは、まだ奪われていないですよね。シミュレーションとしては、これを保護することになると思いますが、どうすれば?」

「アナログに保護しましょう。チェックポイント端末が入っているこの引き出しを施錠して、鍵を彩音さんご自身が持ってください」

「そうすると、私がこの引き出しを開けない限り、端末には誰も触れなくなる……」

「そういうことです」


「……養殖場の端末は、施錠せずにそのままでしたよね」

「はい。あれは、奪われたものの奪還を模しました。ここでは、その保護を模しましょう。プレイヤーが真っすぐ行動するなら、発電所の次はいずれここに来るでしょうし、チェックポイントが一つでも保護されていれば暗号化は解除できません。彩音さんがチェックポイント確保に行動する道筋そのものも暗号化情報になるからです」


「……どういうことですか?」

「チェックポイントの位置情報とチェックポイント間の移動経路も記録するんですよ。『格子問題』はご存知でしょうか。二点間の最短距離を結ぶベクトル直線を見付け出す数学問題です」


「暗号化でよく使われる数学ですよね。確か、100次元ぐらいの空間での格子問題になると、量子コンピュータクラスでも解読が困難とか……」


「そうです。ここではVR空間ですから3次元の格子問題にすぎませんが、もともと暗号化されている情報に対して、さらに格子問題を応用した3次元のベクトル暗号を組み合わせる。その解除には、この空間内で同じ経路を実際に移動し、位置情報の変化をトレースしなければならない。これはたいへん効果的なんです」


「あ、分かりましたよ。リモートではなく現地で移動情報を実際になぞる行動をしないと、暗号鍵の解除が出来ない。どれだけ計算能力が高いAIであっても、ここで実際に歩くなり移動するとなれば、物理条件に制約された時間を要する。それだけの時間があれば、いくらでも次の手が打てる……」


 彩音は舌を巻いた。

 一見、何の意味があるのか分からない仕組みや体験の中に、独立時のサイバー攻撃と、独立後の社会維持のための施策が練り込まれている。


 これらを仕掛けているのが、ラビットというAIの指示だというのだとすると、凄まじいことではないか。

 単に計算能力が高いとか、処理速度が速い、超合理的である、という次元ではない。


 ラビットは、人間の行動や肉体的制約、人間社会というものをよく理解し尽しているのだ。

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