少女は大人に、少年は古参となり
頭領の娘、アジーンと初めて会ったのは、彼女がまだ幼い時だった。お気に入りのクマのぬいぐるみを抱いて現れた少女は、澄んだ水色の眼と、頭領と同じ黄緑色の髪をしていた。全体的に母親似の顔つきだが、どこか頭領の雰囲気を受け継いだ小さな存在。しゃがまなければ目を合わせることもできないほどの高さから、こちらを見上げる瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。
恐れを知らない子供の力は強いものだ。彼女は暗躍組織の長の娘でありながら、未だその社会的立ち位置など知らぬまま生きている。綺麗なものだけを見て育ったと言わんばかりの、清水のような視線。ニベには眩かった。自分の目のなんと淀んだことか、彼女との差に圧倒された。
「あなたがニベ?私はアジーン。父さまが、お家でいつもあなたのことを褒めてるよ!」
唐突な褒め言葉に返事を詰まらせた。そんなニベをよそに、アジーンは続ける。
「ニベみたいに勇気のある戦士になれって、父さまがよく言うの。大人になったら、父さまみたいにアクロアイトの戦士になるから、ニベも私と一緒に戦ってね!」
小さな手を差し出すアジーン。立て続けに褒められ目を白黒させるニベが、その手の意味を理解するまで、身じろぎせずに待っていた。ニベが手を差し出すと、アジーンは小さく細い指できゅっと握ってくる。
アジーンの後ろにいる頭領は、穏やかな様子で娘に声をかけた。
「アジーン、その辺にしておくんだ。ニベが照れてしまうからね」
「どうして?」
「たくさん褒められると、恥ずかしくなってくるんだって」
「変なの。不思議だね」
頭領とアジーンのやりとりはきっと何気ないもので、頭領の表情は一切の毒を含まない。まるで絵画の中の善人のような、にわかに現実らしからぬ優しい顔。ガラス細工を扱うたおやかな指先のように繊細な声色。
頭領が結婚をするまでの数年間、いつも一緒にいた自分には、決して向けられた経験のないものだった。自分の享受していた"大切に扱う"概念と同質とするには、あまりに異質すぎたもの。娘に対する愛情深さというものを示す態度。あれが所謂、慕われる親の姿というものなのだろう。
奴隷の身から解放されて以降に知った概念だが、どうやら世間には『自分の子はかけがえのない大切なもの』という常識の世界があるらしかった。
そうでない生まれのニベには馴染みのない意識だったが、頭領がそうである以上、頭では理解するつもりだ。勿論、アジーンが頭領の大切な人であるという事実も。
……そんなアジーンも齢十六となり、アクロアイトの一員として活動する歳になった。入団の儀は無事に執り行われたようだが、今日は朝からアジト全体が落ち着かない。
ニベは目の前のソファに腰掛けた女性––––––アジーンへ声を掛ける。
「アクロアイト入りおめでとうございます、お嬢」
「お嬢はもうやめてくれ。次期頭領だぞ」
きりりとした表情で返す彼女の姿は、もう子供ではないぞと区切りを告げるに相応しかった。
アジーンとはしばらく会っていなかったが、すっかり背丈は伸び、まだあどけなさが残る中にも大人の風貌を覗かせていた。よく見れば、目元の黒い線と瞼の紫色、口には黒めの紅をさしている。化粧を覚えるほどの年齢に達したのだ。
馴染みきったお嬢の呼び名を拒んだのも、彼女なりの決意の表れだろう。
「では、何とお呼びすれば?」
「アジーンで良い。同じアクロアイトの戦士なのだから」
「おや、それは困ります。あなたは次期頭領、そして頭領のお嬢さんなのですからねェ。今更呼び捨てることなど出来ませんよォ…」
「そうか。なら、何と?」
「アジーン様、と呼ばせていただきましょうか」
「そうか。ニベがそれで良いなら良い」
そうして暫しの沈黙が流れた。執拗に眺めてはいけないと思いつつも、アジーンの頭の先から足の先まで、その成長ぶりを気にしてしまう。何しろ初めて会った時の印象が強すぎる。更新しなければと思いつつも、会うたびに思い描くのは、クマのぬいぐるみを抱いた、あの姿なのだった。
「この間までぬいぐるみで遊んでいた貴女がねェ…時の流れは早いものです」
「いつの話だ。ぬいぐるみは大分昔に卒業したぞ」
「私には、ついこの間のように思えますよォ」
「アクロアイトの一員になったのだ。もう子供ではない」
アジーンは不満げに口を尖らせる。その表情の作り方は彼女が幼い頃そのままで、見慣れた顔だった。そういった癖は変わっていないようで、漠然と安心感を覚える。
「それを言ううちは、まだ子供ですよォ」
「……子供だなんて言えないようになってみせよう。じきにな」
偶然か聞き間違いか、アジーンは驚くほど凛とした声で言い放つ。あの日の幼子がここまで成長したのだ。まだ更新しきれない事実をまざまざと見せつけられ、自分も歳をとるわけだと、複雑なため息を吐いた。
「どうだった、ニベ」
アジーンとの会合の後、頭領がやってきた。妙ににやにやしているところを見ると、話した内容をどこかで聞いたのだろう。不満に口を尖らせるアジーンの表情が昔から変わらないのと共に、親の方もそういったところは変わっていないようだ。
「どうも何も、あなたと奥様を足して二で割ったような女性になりましたねェ」
「はは、当たり前だろう」
「しかし、物うじしないのは昔からですね。前にも増して口が達者でいらっしゃる」
「おや、あやつは裏組織の子だぞ?生まれながらにしてだ」
「末恐ろしいですよ……まったく」
「そのくらいで丁度いいんだよ」
ふっ、と頭領が笑う。
「ニベの棘のある物言いも、拾った時から変わらないな」
「アジーン様が生まれる前から裏組織の人間をやってるんでねェ。そんな生い立ちで丸くなんかなるわけないですよォ。棘があるくらいで丁度いいんじゃないですか?」
「それもそうか。……俺を買いなよ、そのお金でさ……ってね」
「やめてくださいよォ、それ……」
「あの歳でそこまで言える度胸も買ったんだよ。丁度いい棘だ」
頭領はニベの頭を布ごとわしゃりと撫でる。三十路を過ぎて大人の男に頭を撫でられるなんて。唐突な子供扱いに驚き、頭に被っている布が振り払われて落ちるほど首を左右に振った。
「やめてくださいってェ……いくつだと思ってるんですか!」
「うん、十歳くらいかなあ」
「三十過ぎてますよォ」
「おや、ははは」
全く悪びれる様子もない戯れの頭領。やっている方も四十を過ぎているのだが、頭領の中で自分は初めて会った姿を残しているらしかった。恥ずかしいような黙っていてほしいような、複雑な気持ちが渦巻いた。だが、嫌ではなかった。呪いの力くらいしか取り柄のない自分を、頭領自ら飽きもせず仲間として居場所を与え続けてくれている。そういった時間が、これからも続くのだろうと根拠もなく信じることができたのだから。
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