ストレリチア

村野トリ(とりろ)

そして、ニベとなった

––––その日はひどく曇った空をしていました。呪いのように負の力を使うには、このくらいの陰鬱とした雲厚い空の方がよく似合います。––––


あの日の少年、ニベは路地裏の狭い道で、禍々しい力を集めているところだった。

正確には、彼はまだニベではない。個体判別のための識別名を冠する程度の奴隷であった。

身の上としては、隣国から売られてきた身売りの少年だ。彼の生まれは貧しい地域であるため、口減らしに長男以外を村から出稼ぎへ出したり、身売りに出すことは土地柄の常だった。

とはいえ、奴隷として売られた人間も、この国においては、表向きには屋敷の住み込み使用人として扱われた。そのため、規定に沿った一応の休日があったのだ。休みの日には魔道書を読み漁ることができた。

そして、呪いの技術を記した魔道書から学び、彼は密かに呪いの力を操るようになったのだった。

最初は仕返しの嫌がらせ程度の呪いからはじめたが、体の不調、精神の侵食と進み、今では人の命を奪うまでの力を操る。


人を殺めるまでの呪いの力は、扱いを間違えれば自らの身も危険に晒す。耐性のない者は扱うことも難しいという恐ろしい力は、少年にはむしろ心地良いものだった。黒く、湿った冷たいもやに包まれ、力の流れはあやしい風となる。独特の重たさを持った空気が、肩にのしかかる。

十分だ。そう思った時だった。

「おや、君は呪いができるのかな?」

緑の髪にグレーのスーツの紳士。撫でるような声に穏やかな笑みをたたえて、少年を見下ろしていた。呪いの最中に話しかけてくるなんて無用心な人だ。力を十分に蓄えた今なら、今すぐにだって亡き者にできるというのに。

「お兄さん……誰?」

「呪いの力に興味がある者だよ。偶然通りかかった人とも言う」

表情一つ変えず紳士は返した。こんな力を嗅ぎつけて来る人間が、まともなわけがない。

少年のこわばる表情に気付いたのか、紳士は優しい声で尋ねた。

「誰かに教わったのかな?」

「自分で学んだ」

つっけんどんな返答にも負けず、紳士は続けた。

「どのくらいで受けているの?」

「このくらい」

ポケットから小銭を出す。それを見た紳士は溜息のように声を落とした。

「少ないね……」

「お兄さんはいくら出せるの?」

「うちで働くなら一件につきこのくらいかな」

「うわ、お札だ」

ひらりとうねった三枚のお札。手にできるとすれば、生まれて以来最高額の収入だろう。これが一件につき手に入るとしたら、人並の生活だって夢ではない。


「うちで働けばいいのに」

「……そう。お兄さんそういう人なの。じゃあ、俺を買いなよ。俺、モノだから」

腕に焼き付けられた印を見せると、紳士はピンと来たような顔をした。

「君は奴隷か」

「うん。勝手に出て行ったら酷い目に遭う。だけど、主人さえ良いって言えば、俺はお兄さんのもの。どうせ大した金額じゃない。冷やかしじゃないなら、俺を買いなよ。そのお金でさ」

「分かった。その家紋には見覚えがある。近く屋敷へ、きっと会いに行こう」

どうせ冷やかしだ。背を向けた瞬間に忘れ去るに決まっている。



そう思ったのだが、その紳士は律儀に翌々日、鞄に札束を入れて屋敷へやってきたのだった。

執事長とあの紳士が、応接間に入っていく。執事長は使用人の人事権を持つ。そしてあの札束だ。何の話をするつもりかなんて、見れば察しがつく。

偶然にも廊下で二人の様子を見たにも関わらず、信じられない。見間違いかと思い、目を擦ったりしていた。壮年のメイドにどやされたが、そんなことよりも目の前の出来事を理解するのに精一杯だった。

はっとして作業に戻るも束の間、すぐに執事長からの呼び出しがあり、ホールへ向かうこととなった。


「お前をこんな値段で買うなんて、酔狂な趣味の御仁もいたものだね。文句のない値段だったよ。即決だ。お前は、あの御仁のところへ行くんだよ」

急展開な決定を、執事の長から聞いた。今もまだ信じられない。

執事長は領収証の控えをひらひらと見せた。自分が国を出てきた時に付けられた値段の三倍は高い額が記されている。そしてそれは、自分が生まれた村を出て行く時に付けられた値段の、十倍ほどかも知れない。村を出る日に母親に言われた心無い小言の内容が、今の価格からは嘘のようだった。

「早く荷物をまとめな。新しいご主人様が待っているよ」

自分の価値となった額に目を白黒させていると、執事長の声で現実に引き戻された。

我に返り、慌てて自分の寝床近くに収めてある荷物を取りに行く。


住み込みの使用人が四人で使う小狭い部屋。ベッドと、その足元に各々少しばかりの私物が重ねられるくらいの私的空間しかない。足早に戻ったはいいが、何の情緒も未練もない居処だ。

こんな場所なので持ち物の数は大したこともないのだが、少ない荷物をまとめる鞄すら持ち合わせていない。だが、大切な魔道書と、いくつかの衣類は最低限持って行かねばなるまい。それらを運ぶ用に頭布を解いて、荷物を中へ包んだ。



ぼろ布に荷物を包んで現れた少年に哀れな目のひとつも向けず、紳士は微笑んで佇んでいた。

「やあ。驚いた?」

「そりゃ、もう」

「行こう。今から君の新しい生活が始まるよ」

紳士は執事長に会釈し、少年を連れて屋敷を後にする。少年も少ない荷物を小脇に抱え、その後ろをついていった。


「君、名前は?」

門を出てから、紳士はそう聞いてきた。だが、名前なんて、とっくのとうに無いも同然だった。

「……もう呼ばれてない。屋敷での渾名は、ぎょろ目」

「そうか。元の名前で呼ばれたいかな?」

「いえ……」

「では、これからはニベと名乗りなさい。仕事をするときの名前だよ」

「仕事する時……だけ?」

「普段使っても良いけどね。私の故郷では、拾った子……のような感覚の言葉だよ。それでも良ければ」

「良いよ。事実だから」

貰った新たな名前も悪くはなかった。

履き潰した靴の踵が地面を叩く音も、心なしか軽快に聞こえる。

斯くして少年はニベとなり、以降の物語を歩むこととなる。

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