窓の外

ねこ

窓の外

 くたびれた男が喫茶店の隅でコーヒーを啜っていた。四十格好の、歳よりも少し老けて見える男の前には吸い殻が山と積まれ、コーヒーは冷たくなって久しかった。苦くなったコーヒーを口に含み、男は赤いソファに深くもたれた。

 静かな店内には落ち着いた音楽が流れている。客は少なく、時間を持て余したウェイトレスが壁にもたれてあくびをしていた。

 男は探偵だった。奇妙な人探しの依頼を受け、ここ数日間ずっと不眠不休で働き続けていた。今日が契約の最終日であり、この喫茶店で待ち合わせることになっていた。もう夜も遅い。もしかしたら、今日は来ないかもしれない。疲れがじんわりとまぶたの裏に広がるのを感じながら、男はそう思った。

 大きく息を吐いて体を起こすと、ふと男の目に奇妙なものが飛び込んできた。机の端にあったそれは、どうもこの場にそぐわないような気がした。手に取ると、不意に男の体に懐かしいものがこみあげてくる。もしかしたら、自分もこれを使って遊ばせていたのかもしれない。

 それは、段々がカラフルに色塗られた、おもちゃのだるま落としだった。

 全体に小さく、コーヒーカップを二つ重ね合せたほどの大きさしかない。

 なぜこんなものがここにあるのだろう。前の客が忘れていったのだろうか。男は不思議に思いながらも、そのだるま落としに言いようのない魅惑を覚え、ついつい遊んでみたくなった。ご丁寧に傍には木でできたかわいらしい槌も置いてある。散らかった机を少し片づけ、だるま落としを置くスペースを作った。

 だるま落としはこけしを輪切りにしたような、単純なおもちゃだ。平べったい円柱の積み木をいくつも重ねていって、一番上にはだるまが載っている。そのままではやけに胴の長いだるまのようにも見える。木でできた小さな槌を使って、慎重に一番下から積み木を弾き飛ばしていくのだ。上手くやると、一番下の積み木が飛んでいくと同時に、その上にあった積み木がすぐにそれと入れ替わって、崩れることなく少し背の低くなっただるまが出来上がる。そのようにして、崩さないように一つずつ積み木を飛ばして、最後にはだるまの頭だけが残るようにする。

 男はあちこちにペンでつけた汚れのある手に小さな槌を持って、不格好に積み上げただるまの積み木を一つずつ飛ばしていった。積み木の真横に槌を構えて、中心をよく狙って素早くコツンと叩くと、狙った通り積み木はだるまの下を通り抜けて次の積み木へと場所を譲る。男は面白くなって、また次の積み木を弾き飛ばす。コツをつかんだのか、一度も崩すことなくコツン、コツン、と男は積み木を飛ばしていき、遂にはだるまだけになった。男が残っただるまの横っ面を槌で叩くと、弾かれただるまは机の上を滑って、真ん中あたりに置いていた写真の上で止まった。写真に写った男の、ちょうど顔の上だった。男は急に素に戻って、苛立たしそうに写真を手に取った。そこには男の探していた人物の姿が映っていた。

 思えば不思議な依頼だった。即金で依頼料を振り込んだかと思うと、この男について調べてくれと写真が送られてきた。どこかで見覚えのあるような男で、探せばすぐに見つかるだろうと男は踏んだ。しかし、どこを探してもこの写真の男は一向に見つかる気配がなかった。おかしい、と男は思った。男は決して優秀な探偵ではなかった。しかし、人探しの依頼でこれほどまで苦労したことは一度もなかった。果たしてこの写真の男は本当に実在するのだろうか。単に俺は担がれているだけじゃないのか。まるで自分の背中を追いかけているような気分だった。探せど探せどあまりにも出てこないので、とうとう男はこの依頼人を捕まえて問いただしてみようと決めた。それで夜の喫茶店でずっと待っていたのだった。

 小雨が降りだした。男のすぐ後ろにある窓ガラスがパラパラと音を立て、あたりが少し冷えこんだ。店主が音楽を変える。人気のない店内に、ささやくような音の『雨にぬれても』が細々と流れだした。依頼人は来ない。男は一つ伸びをして、何気なく後ろの窓を覗き込んだ。ぽつぽつと窓ガラスに増える水滴が視界をぼかし、雨がネオンの光を夜の街に溶かしていた。

 そういえば、あの日もこんな天気だったな、と思い出すともなく男の頭に浮かんだ。

 五年前のあの日、男は今日のように人探しの依頼を受け、近くの喫茶店で時間を潰していた。朝からの悪天候で、店内には誰もいなかった。だから携帯が鳴ったのにもすぐに気が付いた。依頼人からの電話だろう。雨に捕まって遅れているのかもしれない——そう考えて電話に出た男は、俄かに顔色を失った。

 娘が轢かれた——告げられたのは短い言葉だったが、取り乱した男の頭では理解できなかった。

 あれから五年か、と男はコーヒーを啜った。顔をしかめるほど苦かった。

 一人の生活にもすっかり慣れてしまった。

 大きなあくびを一つして、男はぼんやりと窓の外を眺める。雨は少し強くなり、窓の表面を伝って薄い膜ができていた。放心したように眺めていると、ふと窓ガラスに自分の姿が映っているのに気が付いた。しばらくその自分と見つめあっていると、少し不思議なことが起こった。窓ガラスを流れる雨の膜にも男の姿が映っている。それは夜の街のはるか向こうまで届くくらい、いくつもの男の像が折り畳まれて映っているのだ。吸い込まれるように男は目を見開いた。

 一面灰色の世界にいた。

 何が起きたのかわからなかった。

 気が付くと、男は先ほどまでいた喫茶店ではなく、見覚えのない殺風景な世界にいた。まるで夢だったかのように、男がもたれていた赤いソファも、冷めたコーヒーも、だるま落としも、ささやくような音楽も消えていた。一面に灰色だった。

 男の周りには何もない。足元を、はるか遠くまで灰色の地面が伸びている。それは一切濃淡のムラがない灰色だったので、はたしてそれが地平線なのか、それとも目の前にそびえる高い壁なのか、実際に手を伸ばして確かめるまでははっきりとしなかった。

 静かな世界とは反対に、男の頭の中は騒がしかった。意味が分からない。何が起こったのか。

 と、殺風景な世界に変化が起きた。気づくと、いつの間にか何もなかった周囲に無数の人影が蠢いていた。男はギョッとした。殺風景だった世界を埋め尽くすように、人々が連なっているのだ。

 よくよく子細に調べてみると、無数の人影はみな同じ顔をしていた。のみならず、その顔に見覚えがあった。男は声を上げた。すべて自分の顔だったのだ。

 現れた男たちは、しかし、今起きていることに気がついていないのか、一切気にする素振りを見せず自然に振舞っていた。先ほどまで自分がそうしていたように、ソファにもたれてコーヒーを啜っている。妙に落ち着き始めた頭の中で、なるほど、これは別の世界の自分なのだな、と男は納得した。とすると、ここは世界と世界の狭間とでもいうべきところか。

 すっかり落ち着きを取り戻した男は、奇妙な優越感の混じった眼で周囲を見渡した。圧巻だった。エッシャーの幾何学模様のように地平線まで埋め尽くす男たちは、乱れることなく同じ行動をとっている。それは一筋の風が吹いた草原の揺れるように、美しく統制のとれた動きだった。まるで、彼らの外側に彼らを律する何者かがいて、疑うことなくその存在に従っているようだった。ある一つの大きな秩序がこの世界を支配していた。

 違和感があった。それは次の瞬間には忘れてしまうような小さな綻びだったが、しかし男にとっては無視できないほど大きな違和感だった。

 一体何だ————男はゆっくりと目をやった。それは遠く地平線のところにいる一人の男だった。いかにも男自身と変わるところのない男だ。四十格好の、歳よりも少し老けて見える容姿で、もう何ヶ月も切っていない髪は毛先の方で好き勝手に飛び跳ねていた。いつも着ているくたびれたシャツには、もうとれない細かい皴が幾筋も行き交っていて、その一つ一つに見覚えがある。ペンの汚れが散らばる手はまさに自分のものと同じだ。何から何まで自分と同じでないところのない男のはずだった。男は熱いコーヒーを啜り、眠たげなタバコの煙をゆらゆらと立ち昇らせている。目の前には色々と書き込みのある資料があり、その上で退屈そうにだるま落としで遊んでいた。

 周りの男と同じにしか見えないこの男になぜ目が行ったのか————そして気づいた。

 心臓が跳ねた。


 その男のそばに、十歳前後の少女がいた。


 男は少女と親しげな笑みを交わしていた。明らかにそこだけは周囲と違った特別な時間が流れていた。男が何かふざけたことを言ったらしい。くすぐったそうに微笑む少女の、笑う時に前髪を少し触る癖が、真綿のように優しく男の胸を締め付けた。

 男はその世界の自分に狂おしい嫉妬を感じた。激しい怒りが体の底から吹き上げてきた。

 なぜ、お前がそこにいるのだ。

 半ば衝動的だった。気が付くと、目の前にあった熱々のコーヒーカップを、眼前のこの男に向かって思い切り投げつけていた。世界の割れる音がした。その場にいたすべての男が驚いたようにこちらを向いた————。


「——————さま。しっかりしてください、お客様」

 その声で男は目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしく、身体を動かした拍子にコーヒーカップを落としてしまったらしかった。

「————ああ、すまない。大丈夫だ」

 ウェイトレスが屈んで割れたカップを片付ける。その側の床には血のようにコーヒーが広がっている。まだ湯気が立っていた。

 男は大きく息を吐いた。全身がびっしょりと汗に濡れていた。また雨足が強くなったようだ。雨音のせいでささやくような音楽は掻き消されてしまっていた。

「どうしたの、お父さん」

 心配そうな顔で隣に座る娘が尋ねた。なんでもないよ、と穏やかに微笑んで答える。

「ちょっと怖い夢を見たんだ、もう大丈夫だよ」

 よかった、と娘は呟いた。男は身体を起こし、ぼんやりとした意識で店内を見回す。相変わらず店内は人気がなく静かで、隅の方に控えるウェイトレスは気づかわしそうにこちらの方を伺っていた。ぶるっ、と男は身震いをする。身体がすっかり冷えてしまった。風邪を引いたのか、頭の奥の方がずっしりと重たく、金属を打ったような鈍い音が響いている。

 娘が尚も心配そうな様子で男の方を伺っていた。そして、何かを言おうとしては、思い直したように口を噤む。どうしたの、と男は尋ねる。二、三度怯えたように男の顔を伺うと、うん、と娘は頷いた。


「今度のお父さんは、どのお父さんなの?」


 ハッとして男は立ち上がった。慌てて背後の窓を振り向く。

 雨がつたって薄い膜が出来ている。その膜の向こう、夜の街のはるか彼方に届くくらいに幾重にも折り畳まれた男の像の中に、コーヒーカップを振りかぶって、今にもこちらに投げつけようとする恐ろしい顔をした男の姿が映っていた。

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窓の外 ねこ @tomoneko11

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