第15話 プレイステーションクラシック万歳。

 俺の得意技に『衝動買い』がある。


 去年の暮れにラーメンを食べたついでに近所のGEOに行った。一年ぶりの正月休みを、まだ買っていなかったドラクエⅪでもやって過ごそうかと思って店を覗いたのだが、初代と同じ12月3日に発売されたプレイステーションクラシックが、すでに中古として売られていた。


 ネット上では評判が悪いらしいということは知っていたが、こんなに売れていないとは思わなかった。


 俺はネット上の評判というものをあんまり信用しない。そもそも他人が言ったことをまるで自分の経験のように話す奴が嫌いなのだ。


「知ってるー。それ、クソゲーなんでしょー?グラフィックとかクソらしいじゃん。絶対買わねー。キャハハ。」


 この類の言葉は何も生み出さないばかりか、自分は他人の判断でしか行動しないということを高らかに宣言しているのと同じことなのである。そして、最後の『キャハハ。』に至ってはもうバカがこんがらがっているので、聞いているこちらが恥ずかしくて身悶みもだえしてしまう。



 閑話休題、話をプレイステーションクラシックに戻そう。


 ちっちゃくてかわいいミニチュアプレステに内蔵されてるゲームは全部で20タイトル。ほとんどやったことがあるゲームばかり。


 いまさらとも思ったが、つい、買っちゃった。新品で。むふふ。


 それで、ひとつずつゲームをプレイしていったのだ。時間はたっぷりあるからね。


 ポテチとコーラを傍らに『アークザラッド』をクリアした後、『ファイナルファンタジーⅦ』を20時間くらいプレイしたところで気が付いた。


 は、はーん。


 そういうことか。


 これはめちゃめちゃ楽しいのだ。


 これらのゲームは、現在ちまたに溢れる様々なゲームが持っている画質や音質等のクオリティは全く持ち合わせていないが、ストーリーがあってメロディがある。登場人物のセリフの端々には、物語の一部になったプレイヤーにだけ語りかけてくるような懐かしさをともなった悲しみや喜びがあふれる。


 ここにはゲームのすべてがあるのだ。ああ、そうなのだ。


 もちろんここに述べられていることには「*俺にとって」という注釈がつくが、この注釈はこの世のあらゆるものにつく注釈なので、読者はなにかしら他人の書いたものを読むときは、「*筆者にとって」という言葉を補って読むというのが常識なのである。この常識を知らないと、『お前が楽しいっていうからやったけど、一ミリも楽しくねーじゃん、金返せ、馬鹿やろう。』という幼稚なことを言うはめになってしまう。


 こういう昔のゲームは音楽を楽しむように楽しむのが正しい。


 僕らは一般的には「一度経験したこと」を「経験しなかったもの」として生きることができない。(たまに橋本治さんのようにそれが出来ちゃう天才もいるけどね。)なので、多感な青年期にテープが擦り切れるほど聴いた音楽や、手垢てあかでページがまくれ上がるほど読んだマンガを大人になってからふたたび聴いたり、読んだりするときに、それらのメロディやストーリーといっしょに当時の匂いや肌触りといったものが目の前に表れたりするのはいたって普通のことなのである。


 それは本当は、あるメロディやストーリー自体が持っている芸術的価値とは切り離して考えることができるものなのだが、こちとらふつうの人間なので、なかなかそう上手くはいかない。かつてはそこにあった二度と戻るはずのない風景が眼前に現れ、それはもう二度と戻らないのだということを徹底的に思い知らされるというこの体験は、ある意味非常に宗教的な体験であって、僕ら程度のちんちくりんな知性があらがえるようなものではないのだ。


 いいかい? 年寄りが昔を懐かしがっているってのはそのくらい大変なことなんだぜ? 若い奴らにはどうあがいたってできねーんだ。ん? どうだ?


 ざまあみろ(小淵沢報瀬こぶちざわしらせ風)。



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