第22話 そっと触れる人

 後藤のことを好きかどうか、俺に石原が確認したのは、今朝のためだったんだと気付いた。

 後藤が来るまでに、別々の場所で寝ていたことにしようと、移動してくれた。

 …そういうことだ。


 

 しばらくの間、俺の上で、心臓の音を聴くようなポジションでいて、それから、重いだろうと言った。

 俺の上から、転がり下りた。

 そのまま、周りが明るくなるまで、廊下で二人、並んで倒れていた。

 いつ居なくなったかは知らない。


 並んで倒れていた夜中、眠ったり、目が覚めたり。


 気が付くと肩がくっ付いていたり、手がそっと触れていたり。


 そしてまた眠ったり。


 爪先が触れたり。


 その重さを全身で受け止めている時よりも、数ミリの重なりが石原を意識させた。 

 石原を好きになることはできるだろうか。人として、ではなくて恋人のように。

 いや…。

 今、ぎゅっと握った手が俺をテストするのは、後藤だけだろう。


 そんなことを考えていた。




 そうなんだ。後藤だけだ。

 しかし、目の前にいる後藤を、誰よりも遠くに感じる。

 不機嫌な様子で石原が使う洗面台を磨いている。

「今日、このあと会えないか」

「やだ」

 心底嫌そうな顔をされた。

「夜でも構わない」

「会いたくない」

「後藤の都合に合わせる」

「早く帰れ」

「何時でもいい。明日でも」

 必死で食い下がると、後藤は不満げに視線を落とした。

「後で…連絡する。気が向いたら」

 今度こそ言おうと思う。

 俺の気持ちを伝えたら、後藤が怒り出す気がするが、それでもいい。

「…ありがとう」 

「気が向いたら」

「うん」

「連絡、メールでいいですか」

 敬語に戻ってきた。

「うん。後藤の好きな方法で」

 機嫌、治ってきたのかな。

 よく分からない。

 後藤のことがよく分からないのがもどかしい。




 石原が目を覚ますより先に家を追い出され、痛む背中を庇いながら、とにかく駅に向かってふらふらと歩いた。

 昨日の夜のことは夢だったんじゃないか。

 いや、この六年間が夢だったんじゃないか。

 そう思いたいほどだが、打ち付けた背中の痛さが、俺を許さない。


 昨日のあのタイミングで石原が諦めてくれなかったら俺は確実に好きなようにされていたし、そうしたら今朝見る景色も変わっていただろう。石原は、石原の中にいる何者かから六年間俺を守り、最後まで守り通した。

 騙されていたと言って腹を立てても良いのかもしれない。が、今の俺には感謝と謝罪の気持ちばかりが心を占める。どうして石原を恋愛対象として見ることができないのか。

 分からない。

 どうして、夜の廊下で触れた手を、握ることをしなかったのか。



 筋肉痛。

 時間の経過とともに、直接打ち付けた背中よりも全身が痛み始めた。

 ああいう、不意打ちの状況で全身が一瞬痙攣し、それが今筋肉痛となって表れたのだと思う。普段使わない筋肉の悲鳴。でもそれは脳味噌も同じかも知れない。

 一日中石原のことを考えてしまって、頭痛がする。どちらも石原の最後の呪いだ。

 ただ堕落した土曜日を流していたら、テーブルのスマホが震えた。

 ゆっくりと起き上がる。後藤からだった。



 メール。後藤から送られた初めてのメール。

『うち、来ますか』

 は?


 時計を見た。四時半。夕方。

 どういうことだ。

 しかし、俺に選択の余地はない。

『行きます』

 返事をした。すぐに返事が来る。

『駅まで迎えに行きます。五時半でいいですか』

『お願いします』

 うち、ってことは、家族がいるのか。あのお姉さんとか。

 この疲れ果てた頭と身体に、なんという変化球。

 さすが後藤。

 キッチンへ行き、鎮痛剤を噛み砕きながら水を飲む。外箱に、頭痛にも筋肉痛にも効くと書いてある。

 服は…なんでもいいか。最後に麻のジャケットだけ羽織ればそれらしくなるだろう。白いTシャツにジーンズを履いた。

 そういえば、後藤は赤いTシャツを着ていた。珍しい感じがしたが、似合っていたな。もう着替えただろうか。どちらでもいい。どんな後藤も見てみたい。

 やっぱ、会えると思うと嬉しい、単純に。



 時間に間に合うように、後藤指定の駅へ着く。駅も大きくは無く、駅周辺も銀行とバス停とコンビニがあるくらい。

 銀行の前の縁石に座った。後藤がどこから来るのか待った。

「お待たせしました」

 声をかけられて、振り返ると優美さんが立っていた。


 これは予想外。

 慌てて立ち上がって挨拶をした。

「こ、こんばんは」

「すみません、文昭にちょっと頼み事をしたので、代わりに」

「いや、すみません、こちらこそ」

「うち、ここから五分くらいなんで」

 挨拶をし合って、歩き出す。

「今日ちょっと父親が出張で留守で。文昭がさっき突然、じゃあ佐々木さん呼ぶわって言いだして」

 後藤の思考回路が分からない。

 それでそうしようと思う他の家族も変…な気がするが。

「…すみません、急にお邪魔して」

「いえいえ、こちらこそ。ご迷惑だったでしょう」

「いや、もう、全然」

 今ちょっと緊張しているけど、こういう不思議もまた後藤の新たな一面。

「母がついさっき、レモンが無いとか言い出して。文昭が買いに走ってます。それで私が」

 そんな話をしていたら、本当に五分くらいで後藤家に到着した。

 同じくらいのタイミングでシルバーのセダンが家の前に停まった。

「佐々木さん、すいません!」

 窓から後藤が。

 今朝の不機嫌は何も感じられない、『良い後輩』で『可愛い弟』の後藤がひょこっと現れた。


 なんだよ、その登場!

 滅茶苦茶可愛いな!

 ただただ、ため息が出る。

「お、おう」

 ため息みたいな声しか出ない。

 狭めの駐車場に慣れた様子で車を停め直し、後藤が出てきた。

 グレーのカットソー、着てる。似合う。

「すいませんでした。まあでも姉ちゃんだったらこの前会ってるし、分かるかと思って」

「ああ、うん」

 手に、小さいビニール袋を提げている。レモンが入っているんだな。きっと。

「まあ入ってください、どうぞどうぞ」

 後藤が、そう言って俺のジャケットの袖を何気なく掴んだ。

「…ッ!」


 ああ、もう、…言葉が、出ない。

 

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