第21話 優しい人


「佐々木!」


 胸ぐらを掴まれた瞬間、マズイ、と思ったのだ。

 でも、動きがあまりに素早くて、対応できなかった。

 石原の目がマジで、俺は身体が一瞬浮いた気がする。

 廊下に押さえつけられる瞬間、俺はできるだけ頭を庇う姿勢で倒れた。

 背中を床に打ち付けて、それから後頭部。

 庇いきれずに殴打。

「ってぇ…」

 言葉を漏らす間もほぼ無く、唇を塞がれた。

「ッ!」



 石原、それ、ダメだ…!



 これまでまあいいやって思っていたこと。時間が過ぎれば終わるからと許していたこと。

 頭の中で、絶対にダメだと警鐘が鳴った。



 なんで?

 俺が後藤を、好きになったから?

 いや、後藤と俺は付き合っているわけじゃない。そもそもあいつは俺に気がないんだから、義理立てする必要も無い。後藤以外とキスしたくないとか?いやいや、乙女過ぎる。

 じゃあ、後藤が石原を好きだから?

 それは…理由としては有りかも知れない。後藤が好きな人と俺がキスするなんて、罪が深い気がするから。

 いや…違うよな、違う。

 今さら逃げるな、俺。分かったんだろ。

 理由を作って、逃げるのはやめろ。



 なあ、どうして俺、今までお前を見ていなかったんだろ。

 お前が俺にキスしたことは数えきれないくらいあったのに、どうして。

 お前とのキス、ただ物理的に受け止めようとしてしまったのはどうして。

 さっき、お前が俺をぶん投げた時、目が合って、唇が重なる直前の表情を、俺は初めて見た。

 俺の脳内に蓄積されている、意味がないと思っていた情報に、意味があったことを知った。




 石原が何か仕掛けてくるとき、いつも暗闇だった。

 初めてキスした時、しがみついて来た石原の顔を、俺は見なかった。

 周りの好意を上手く利用しているようにみえた石原の本心を、俺は全部知っていると思っていた。石原が、俺には嘘をついたりしない、本音を全部言っている、石原の情報は俺には筒抜けだと、思い込んでいた。

 今日、石原と飲みに行く相談をしていた時に俺と目が合ったときの後藤の、表情の無い一礼を思い出す。

 石原に本気を出されたら勝てない、と言ったときの、『じゃあ佐々木さんは今まで』と言って途切れた、後藤の妙に泳いだ目線。

 後藤には、分かっていたんだな。

 好きだから、ずっと見ているから、いつしか気付いたんだな。

 石原が、酒で酔ったりしないってこと。



 馬乗りになった石原の胸を強く押す。体重は重くないのに、力の入れ方や人の押さえつけ方がしっかりしていてビクともしない。

「んんん…!ぃしッ…はッ…ん~!」

 拳で、手当たり次第に打ち付けた。石原の胸や、肩、背中など、届くところをとにかく殴りつけた。

 さっき目が合って、俺が全て悟ったと知って、石原はもう後戻りが出来ないと思っている。

 いつまでたっても少年みたいな石原の、いつも適当な石原の、あの切羽詰まった表情。欲しいものに手が届かない、苦しい時の。

 いつもあんな顔をしてたのか。

 俺はいつも石原にあんな顔をさせていたのか。

 六年も気付かなかったのか。

 馬鹿じゃないのか。

 だったら、これは俺が被るべきなのか。

 ずっと傷付けてきた罪を。


 抵抗するのをやめた。

 腕を、石原の身体に回した。

 …抱きしめた。


 俺を押さえつけていた石原の力が少し抜けた。

 でも、今までみたいに、寝てしまった演技ではなく、ちゃんと意識的に緩められたものだった。

 そして、石原の唇が、俺からゆっくりと離れた。

 今まで、何度も重なった。

 俺が勝手に『石原は覚えていない、何も意味が無い』と思っていたキス。


「ごめん」

 気が付いたら、俺は泣いていた。

「…ごめん、俺」

 石原が、俺の胸に顔をうずめた。

「あほか」

 くぐもった声が聞こえた。

「ごめん」

「マジになるなよ」

 俺の胸で響く声。

「なんでお前が泣くんだ」

 少しくすぐったい。

「ごめん」

「泣きたいの、俺だぞ」

「…うん、ごめん」

「謝っても許さねぇから」

「…うん」

 それはそうだろう。でも。

「ごめん」

「なあ、佐々木」

 石原が、俺の『ごめん』を無視して言った。

「うん?」

「頭、大丈夫か」

 心配、してくれていたんだな。

「…多分」

「投げつけてごめん」

「痛かった」

 その言葉も、石原は無視した。優しいのか勝手なのか。

「今日だけさぁ」

「うん」

「今日だけ、このままでもいいか」

「うん」

 いいよ。


 しばらく、ずっとそうしていた。

 酔いもあって、少し眠くなってきた。

 石原は、酔ってないんだろうな。

 これまでもずっとそうだったんだな。


「佐々木」

「…うん」

 ぎりぎり、起きてるよ。

「俺は、ずっとお前のこと」

「うん」

「…ささき」

「…うん」

「俺は、お前が」

 胸で響く声。

 背中を撫でた。

 恋愛感情じゃないけど、お前が適当な誰かに傷付けられないようにと、ずっと思っていたよ。

 お前が脱ぎ出したら、いつも適当なタイミングで服を着せに行っていただろう。

 軽い気持ちで触れさせたくなかったんだ。

 俺はお前を守っていると思っていたんだ。

 

「…お前はさぁ」

「うん」

「後藤が好きなん?」

「うん」

「そっか」

「…うん」

 それは、謝らなかった。




「どこで寝てんだよ、起きろ」

 蹴り飛ばされた。

「邪魔なんだよ、早く」

 筋力ゼロの腕が俺を押した。

 筋力ゼロの…。

「後藤!?」

 飛び起きた。


 真っ赤なTシャツにジーンズ姿の後藤が、目の前にいた。

「なんで?」

「邪魔」

 滅茶苦茶機嫌悪い。

 辺りを見回したが石原は居ない。

「石原は?」

「ベッドで寝てます。なんでアンタ、人んちの廊下で寝てんの?」

「お前こそ、なんでここに」

「佐々木さんに関係ないでしょ」

「でも、なんで」

「るっさいなぁ、土曜は掃除に来てるんです。分かったら帰れ」

 え?

「お前ら、付き合ってんのか?」

「はぁ?んなわけないでしょ。残念ながら掃除だけ。でも狙ってんだからアンタ邪魔。帰って」


 …後藤…。

 朝から罵られて蹴られて起きるとか、最高。

 

 石原んちで何を考えているんだろう。

 俺って、本当に馬鹿だな。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る